佐倉愛里視点
「あっちゃぁ、雨降りそうだね」
「学校側からは、もしかしたら中止になるかもしれないって連絡が来てるぞ」
「あ、じゃあ雨になったら今日はお休み?」
「勉強はするぞ」
「うぇ~」
波瑠加ちゃんがもうお腹いっぱいだって感じの顔になると。啓誠くんは少し呆れたような顔になって、明人くんはタブレット端末を確認しながら苦笑いを浮かべている。
「完全に雨が降って中止になる前に、この課題だけ受けるぞ。参加するだけで水か食料が貰えるんだからな」
「反復横飛びだっけ? 食料を指定するんだよね。ゆきむ~勝てそうなの?」
「勝てなくても良いんだ。参加するだけで食料は貰えるんだからな。一位の報酬は明人に任せよう。明人、どうだ?」
「必ず勝てるとは言えないぞ、天武じゃないんだからな。まぁ集まった面子次第だ」
そう、私たちは今、キャンプ地にしていた港から少し離れた位置にある課題に参加しようとしていた。空模様がどんよりとしているのですぐに雨が降りそうで、完全に中止になる前に参加しようということになったから。
「愛里~、腕時計は大丈夫?」
「う~ん、ダメ、みたい……やっぱり壊れちゃったのかな。さっき転んだ時だと思うんだけど」
「まぁしょうがないか、怪我しなかっただけ良かったよ」
私が付けている腕時計はウンともスンとも言わなくなっている。やっぱり交換した方が良いんだよね。
「課題をやる場所が見えてきたぞ」
明人くんが鬱蒼とした枝葉を掻き分けて指差した方向には課題を行う広いスペースがありました。港から比較的近いこともあって既に大勢の人がいて……もしかしたら参加できないかもしれない。
「定員は残り三枠だそうだ」
「参加するとして、みやっちとゆきむ~と私かな。愛里は見学しとく? それとも私と代わる?」
「うぅん、腕時計の交換をしようかな……えっと、港に戻って」
「一人で大丈夫か?」
啓誠くんが心配そうにそう言ってくれるけど、来た道を戻るだけだから大丈夫だと思う。港からそこまで離れていないから。
「うん、それに、雨も降りそうだから……荷物とか、濡れない場所に移動させておくね」
「悪いな、頼めるか。食料はこっちで確保しておくから」
「まぁみやっちが一位を取れたら余分に貰えるっぽいしね」
「勝てたらの話だ」
「もし課題が終わって雨が降っていなかったら、隣のエリアにある英語の課題も受けるつもりだから、もしかしたら帰りが遅くなるかもしれないが、キャンプの方は任せたぞ」
啓誠くんとしては運動だけではなく、勉強系の課題も受けたいのかな。でも雨が降りそうだから難しいのかもしれない。
「う、うん、こっちは任せて」
こうして私たちは一時的に別行動をすることになる。波瑠加ちゃんと明人くんと啓誠くんは反復横飛びの課題に参加していく。
残された私はついさっき転んでしまった窪みを避けるようにしながら港に帰ることになりました。テントの中に荷物を移して、干してあるジャージなども中にいれないと。
そんなことを考えながら無人島の中をゆっくりと歩いていく。今度は転ばないように気を付けながら明人くんが取り除いた枝が作る道を進んでいると、少しだけ離れた所からこんな声が届いてしまう。
「では最終日にI2で綾小路清隆を拉致することに変わりはありませんね?」
え?――どう、いう……今、なんて?
「イレギュラーの動き次第といった所でしょうか……正直、そちらに関しては我々の仕事ではないのですがね。寧ろ、七号の処理の方が本命かもしれません」
鬱蒼とした森の中で話していたのは、えっと……確か、新しく理事長になった人と、違う学年の先生だった人だと思う。
その二人が清隆くんを拉致すると言った瞬間に、頭の中が真っ白になっていた。
七号、というのはわからないけど……あの二人が何をしようとしているのかよくわからない。だって、どうして、清隆くんを連れ去るだなんて……。
「七号ですか……レポートに関しては私も確認しましたけど、正直なことを言わせて貰えば荒唐無稽と言いますか、現実感がない数字ばかりだったのですが。普通の人間はコンクリートの壁を破壊したりはしません」
「人間の形をしているだけの別の何かと考えてください。まぁ人類の性能から著しく逸脱した存在であることは間違いありません……正直なことを言わせて貰えば、綾小路清隆関連は最悪放置でもそれはそれで都合が良いのですが。七号に関しては完全に計算と都合の外にいる人物です。可能ならば動きを封じたいのですが」
「それであの面子ですか……あれだけ用意したんですから、流石に処理できるでしょう」
「……だと良いんですけどね」
困ったように溜息を吐く理事長は、突然に振り返って茂みの中に隠れていた私と見つめ合う形となってしまう。
み、見つかっちゃった?
「そこにいるのは誰ですか?」
聞いちゃいけないことを聞いてしまったと、心臓が大きく跳ねる感覚を覚えながらも、私の体はゆっくりと後ずさっていって――――。
「確か貴方は、佐倉愛里さんでしたか?」
逃げ出すよりも早く、私の手首は理事長に掴まれてしまう。とても力強い手が私を掴んだまま離してくれない。
「わ、私……な、何も、何も聞いてません」
「おやおや、私はまだ何も言っていませんよ。それでは何かを聞いたと白状しているようなものです。ふむ、腕時計が壊れていますね、いやはや大人しそうな顔をして大胆な真似をする」
「処理します」
もう一人の男の人、一年生の担任の先生がゴム手袋を装着してそんなことを言った瞬間に、体中に寒気が走っていく。とても現実感がなくて、けれど確かに目の前に起こっていることで、だけどやっぱり夢のように思えてしまう。
「いえ、短絡的なことは止めましょう」
「ここで処理した方が確実だと思いますが」
「無関係の人間を巻き込んだ瞬間……いえ、七号が気に入らないと判断した瞬間、我々の首は引きちぎられることが確定するのですよ。たとえ衆人環視の中であろうと、監視カメラの前であろうと、彼がそれをやると決めた瞬間に必ずやります……目に見える地雷は踏むべきではありませんとも」
「そこまでやりますか? 退学になるどころか逮捕拘束されることになるでしょうに」
「その認識が甘いと言っているんですよ。退学して身軽になった瞬間に我々を処理して、その足で敵対組織を粉砕して、我々の首を先生の枕元に置くくらいは平気でやります……そして何より厄介なのが、彼はこの国の法や権力で裁くこともできないという点です。認識を改めなさい」
月城理事長の手が私を離す。けれど冷たい雰囲気は今も変わらない。
「さて佐倉愛里さん。貴女は何も見ていない、聞いていない、そうですね?」
その言葉に、コクコクと頷くことしか私にはできなかった。
「好奇心は猫をも殺すという言葉もあります、ならば人もまた同様でしょう」
理事長の掌は、私の首を掴みました。強く握られている訳ではないけど、少しだけ息苦しい。
「努々忘れないように、子供が立ち入るべき場所は明るい所だけで良いのですから」
やっぱり、コクコクと頷くことしかできない。
「もう行きなさい、ここで見たもの聞いたことは全て忘れてね」
押し出されるように私はその場から去ることになってしまう。色々な疑問や思いを無視するかのように。
清隆くんをどうするつもり? そんな質問は最後までできなかった。
「よろしかったのですか?」
「良い訳ないでしょう……ただ、七号がキレるので見逃す以外の選択肢がないんですよ」
「そこまで恐れる相手なのでしょうか?」
「現実感の無い相手であることは認めますが、やはり認識を改めなさい」
そんな会話が背後から聞こえて来るけど、私は訳も分からず走るだけだった。
綾小路視点
その日は雨が降っていた。豪雨と呼ぶのが相応しい水量だった。物音も聞こえなければ、誰かがどこかで消えても暫くは気が付かないのではと思えるくらいには。
試験も折り返しとなった七日目、降りしきる雨の中、そこら中から聞こえて来る雨音によって何かが隠される空間で、オレは一人の人物と向かい合っていた。
雨で濡れた髪が頬に張り付き、どこか深く暗い雰囲気を相手に与えている人物だ。体が冷えているからなのかどことなく冷たい印象も与えて来る。
それでも、髪の間から見える強い意思を宿した瞳は、今も真っすぐに俺を見つめていた。
これまで一週間近く、ずっと行動を共にしていた七瀬翼は、今日この日、敵としてオレの前に立つ。
別に驚きはない、そうだろうなとわかっていた。後はいつ動くのか気になっていたので、こうなるだろうことは予想できていた。
この一週間でわかったことは、七瀬翼という少女は明確な目的を持ってオレに接触して来たということ、そして一年生女子と考えれば高い身体能力があるということだ。
その目的も、願いも、まだわからない。
ただ、迫る拳や足を見る限り、オレを排除したいことだけはわかった。
「余裕なんですね、反撃しなくても私を倒せる、と?」
「友人が言うには、女性には優しくするべきらしいからな」
だからオレから襲い掛かって来る七瀬に攻撃することはない。放たれる拳も、鋭い蹴りも、全て紙一重で回避してただ相手の動きをやり過ごす。
それが出来るだけの相手だということもある。もしホワイトルーム生が相手であればもしかしたら反撃する必要もあるのかもしれないが、現状ではその意味がない。
「七瀬、お前には迷いがある。拳にも、足にも、迷いながら振るうだけなら意味はないぞ」
「助言ですか? 本当に余裕ですね」
七瀬の拳が再び迫る。加減をしているのか、それとも迷いが晴れないからなのか、やはり鈍い。
どれだけ攻撃しようともこちらには届かないことを悟ったのか、七瀬は捨て身となって突っ込んで来る。多少の反撃を覚悟した……いや、それを望んだかのような行動だ。
姿勢を下げて掴みかかって来る七瀬の顔前に、オレは勢いよく両手を叩いてネコ騙しを炸裂させた。天武との模擬戦でこれをやられた経験があるのでなかなかに強烈なものだろう。
よくわかる、オレはこれで一本取られたからな。
これから突っ込むぞと意思と覚悟を固めて踏み出したというのに、予想外のネコ騙しで勢いを削がれた七瀬は、当初の勢いを無くして目を回し、フラフラとしながらたたらを踏む。
「まだ続けるのか?」
「ッ……私は、まだ」
雨の勢いはどんどん強くなっている。体は十分に冷えている筈だが、強い意思を宿した瞳は今も変わらない。
「こんな所では終われません……私では勝てなくても、ボクなら」
ボク? どうしていきなり一人称が変わったんだ? そんな疑問を確認するよりも早く、七瀬の足先が鋭くこちらの顎先目掛けて振るわれる。
相変わらず迷いのある攻撃ではあるが、さっきよりはマシだろうか。
「ボクが、貴方を終わらせるんだッ!!」
気になることは色々とある。七瀬の目的もそうだし、望む結末、そして突然変わった一人称。
だがそれよりも気にしなければならないには……樹上で七瀬を見下ろす鶚の存在であった。
背筋を震わせるほどに冷たい視線は七瀬の後頭部をずっと見つめており、その両手にはセラミックの包丁を加工して作ったと思われる刃物が二振り、相変わらず誰の視界にも留まらない存在感はそのままに、しかし確かな殺気がそこにはある。
次に瞬間には、樹上から飛び降りて七瀬に致命傷を与えることは容易く想像できてしまう。冗談でもブラフでもなく、アイツは間違いなくそれをやる。
だから目の前にいる七瀬よりも、さっきからおっかない鶚の方がずっと気になっていた。
「余所見とは、本当に余裕ですね!!」
いや、次の瞬間にお前が殺されるかもしれないと思えば、落ち着き払って対処することはできないだろうが。こっちの気も知らないで次々攻撃してくるんじゃない。
「やめろ」
「いいえ、止めません!!」
いや、七瀬、お前に言ったんじゃない。鶚に言ったんだ。
「頼むから止めてくれ」
「今更命乞いですか」
だからお前に言ったんじゃない。
七瀬の猛攻を防ぎながら樹上の鶚に視線を送ると。アイツはもの凄く呆れた顔をしているのが見えてしまった。なんだその顔は、オレは別に間違ったことは言ってないだろうが。
処理した方が楽っスよ。口パクでそんな意思を伝えて来るのだが、常識を考えろと同じように口パクを返す。
なんでオレは敵側である七瀬を守ろうとしているんだろうか……それもこれも両手に物騒な刃物を持った忍者が全て悪い。
痛めつけるとか、追い返すとか、そういう次元を飛び越して初手で暗殺を考えるような相手が味方陣営にいるのは本当に悩みどころである。天武はもう少し使いやすい戦力を回して欲しい。
アイツはアイツで躊躇の無い男だからな、おかげで敵を心配する機会が増えてしまった。
「ハッ!!」
裂帛の気合を込めて放たれる回し蹴りを凌ぎながらも、視線は今も樹上の鶚を見張ると言う不思議な状況に陥りながらも、何とか七瀬と鶚を押し留めなければならない。
あれ、なんでオレは敵と味方に同時に翻弄されているのだろうか?
だが幸いなことに、樹上にいる鶚は争うオレと七瀬から視線を逸らし、突然に跳ね上がって枝を飛び移っていきどこかに姿を消していったことで、オレはようやく七瀬だけに集中できることになるのだった。
この状況だ、釣れた敵は一人では無かったということだろう。そちらの対処は任せるとしようか。
だが、やり過ぎないようにして欲しい……大丈夫だよな?
天沢一夏視点
「綾小路先輩に会いたいなぁ~」
それがこの学園に来てからのあたしの行動原理の全てなのかもしれない。恋する乙女はいつだってそうやって行動するものだと資料にはあったので、きっとこうして行動することは間違いないんだろ思う。
好きな人に会いたい、寄り添いたい、共にいたい。それはとても非合理的でありながらも大切な行動原理だと私は考えている。
恋する乙女はそういうものだ、つまりあたしは何も悪くない。
この無人島での試験だって、いつだって心の片隅にはあの人がいるのだ。
だから何もかもを放り出して綾小路先輩を探すことは何も間違いではない。都合良く同じグループの宝泉くんや七瀬ちゃんは別行動をしているのでこっちも身軽に動ける。
何より、ずっと綾小路先輩と一緒にいるとか、ズルすぎるもんね。七瀬ちゃんは少し反省するべきだよ。
拓也の思惑とか、一年生の都合とか、そういうのは別にどうでも良くて、やっぱり重要なのはあたしと綾小路先輩なんじゃないかな。
うん、そうしよう、思い立ったが吉日、綾小路先輩と接触しよう。
拓也のことは何だかんだで助けてあげたいとは思っているけど、それはそれ、これはこれ、恋は乙女にとってとても重要なことなんだよね。
ルンルン気分でスキップしながら無人島を踏破していき、綾小路先輩を追いかけていく。ストーカーとか言ってはいけない、恋は乙女にとって大切なことなんだから。
それにまぁ、拓也も助けてあげたいけど、綾小路先輩だって助けてあげたい。
慕う先輩を守るナイトみたいな感じかな、そして背中を預け合い、信頼を重ねて行って、最後には……ヤバい、それは良すぎる。
「ん、あれ?」
なんて妄想をしながらようやく綾小路先輩に追いついたのだけれど、近くによく目立つ青色のジャージを発見して足が止まってしまう。
んん~? 確かコイツって倉地だっけか? なんでこんな所で意識を失ってるんだろ。
いや、ここにいる理由はわかるよ? どうせ色々とちょっかいをかけてるんだろうってことはさ。そういったものを邪魔するのも私がやりたかったことだけど。
陰ながら綾小路先輩を支えて守る、そんな期待をしていたのにこれであたしの仕事が無くなってしまうではないか。
「お~い、生きてる? ツンツン」
意識を失って倒れこんでいる倉地を、あたしは落ちていた枝を使って突いてみるけど、ピクリともしない。
あれ、本当に死んでる?
思っていた以上に深刻な状況なのだろうか。少しだけ心配になったので意識を失っている倉地の脈を調べて怪我がないかも確かめる。
「ん~……意識を失ってるだけかな? 外傷も鼻血くらいか」
倉地の近くにはタブレット端末が落ちている。画面は粉砕されていて、もう使い物にならないかな。
勝手に転んで自爆したっていうのはありえないよね、どんな間抜けなんだって話になるだろうし、それなら誰かに撃退されて気絶したという方がまだ納得できる。
さて誰がこれをやったんだろうと考えて、まぁ綾小路先輩だろうなって思っているあたしは、突然に背中に走った怖気にも近い何かに従って、その場から飛びのく。
「ッ……誰かなぁ?」
さっきまであたしが立っていた所には、迷彩柄に染められた刃物が刺さっている。もし動いていなければ確実に刺さってたでしょあれ。
「刃物……敵勢力を確認、数不明、武装数不明、目的不明」
ホワイトルームで散々叩き込まれたことで、脅威を感じ取った体はすぐさま戦闘態勢に移行していた。
心が冷たく沈む、目の前に迫る脅威を排除せよと警笛がなる。どんな手を使ってでも敵を潰せという教えられて来た経験が、体を走らせる。
この感覚を私は知っている……死ぬか生きるかの瀬戸際だ。ホワイトルームで数え切れないほど経験した、死地だ。
「推定戦力、不明」
つまりは何もわかってはいないということ。ならまずは敵の姿を探さないとね。
周囲を警戒しながらも、足元に落ちていた掌サイズの石を幾つか掴んで装備する。一つは予備としてポケットに、もう一つはいつでも投石できるように握りしめた。
耳を澄まして私に刃物を投げつけて来た誰かを探すけど、姿形はおろか気配すらも感じ取れなかった。
僅かな匂いも、気配も、余韻すらない……あ、ヤバいかもなこれ。
ホワイトルームにいるその道のプロとなる教官たちを前にした時と同じような感覚だ。勝ち筋が見えないあの感覚をこの無人島で味わうことになるなんてね。
「誰かな~」
軽口を叩きながらも周囲の警戒を怠らない。倉地の近くに落ちていた棍棒も拾っておこう。
周囲に広がるのは無数の木々、鬱蒼とした草、索敵を妨げる雨音、面倒だなぁ。
「早く出てきなよぉ~、それともシャイなのかなぁ」
手に持った棍棒の感触を確かめながら手に馴染ませていく。丁度いい形の石ももう少し調達しておきたいけど。それを許してくれるような相手なんだろうか。
相手の出方を確かめる為にも、ゆっくりと新しい石を拾い上げようとする。けれどそれは何の妨害も無く成功することになった。
へぇ~……邪魔はしないんだ。棍棒を拾った時にも何となく思ったけど、相手は随分と余裕みたいだ。
戦いの準備くらいは整えさせてあげる。そう言われているようにも思えた。
あぁ、そう……つまりあたしは舐められてる訳だ。
ただ雨音だけが耳に届く中、そこに不自然な音が混じり始めた。
クスクス。
クスクス。
「……笑ってる?」
ケラケラ。
ケラケラ。
「……アンタ、誰よ?」
ペタペタ、ペタペタ。
次に耳に届いたのは雨音の中に混ざった僅かな足音。ここまで気配を隠していられる相手なのだとしたら、それはあまりにもワザとらしい。
バチャバチャ、バチャバチャ。
まるで自分はここにいると主張するかのように水たまりの上で跳ねまわる音すら聞こえてきた。
やっぱり舐められてるよねこれ。
「……」
四方八方から聞こえて来る雨音と異音によって相手の位置がわからない。もしかしたら複数ということも十分に考えられる。
だけど徐々に距離は縮まっているように思えた。ゆっくりと包囲を狭めるように音は近づいてくる。
ケラケラ、クスクス、ケラケラ、クスクス、ペタペタ、バチャバチャ、ポタポタ、ヒタヒタ、クスクスケラケラヒタヒタペタペタヒタヒタクスクスケラケラクスクス――。
周囲を取り囲む無数の異音は、もうすぐそこまで迫っていた。
この期に及んでも敵の居場所が把握できないのは、完全に脅威だ。
ホワイトルームの教官並み? 或いはトップクラスの成績を誇る拓也よりも上? それとも――――。
思考はそこで止まる、そうするしかなかった。だって、ようやく相手が動き出したのだから。
「あ~……良いっスね。最近は平和ボケ気味だったんで、偶にはこうして錆落とししないとダメでやがります」
その声が届いたのは背後でも側面でもなく、ましてや正面でもなく、上空からだった。
雨と一緒に、そいつは樹上から飛び降りて来る。
手には二振りの短刀、迷彩柄のマントで全身を隠し、同じく迷彩柄のマフラーで首も隠しているそいつは、顔すら迷彩柄の化粧を施した怪人だった……流石にこれはあたしでも驚くしかないよね。
「……きひッ」
そして、悍ましい笑みを見せながら、一切の躊躇なく刃を振り下ろしてくる。
綾小路先輩に会いに来ただけなのに、なんであたしはこんな怪人と戦うことになっているんだろう……。
「特殊戦力九号レポート」
氏名▇▇▇ 年齢不明 性別女性
幼少期から特殊な環境で訓練を積んでいた工作員の一人。破壊工作、密偵、暗殺、各種兵器運用、情報奪取などの任務を引き受けることが多く、成果は上々。先代鶚経由で超人指定しており、国家への危険度はそこまで高くないものだと判断する。また、九歳の時点で鶚の屋号を襲名しており、本人曰く「出稼ぎ」として先代同様に政府との報酬契約を結んだ。
面談の際に六号を師匠としていると発言していたが、事実確認は取れていない。
極めて高い戦闘能力に加えて、擬態と視線誘導のスペシャリストでもある。危険思想を持っていないことから、先代鶚と同様に防衛省職員として扱うこととする。今現在、彼女を通じて鶚衆そのものと契約できないか交渉中ではあるが難航している模様。
主に関わった任務として「七房作戦」と「ウ号標的作戦」が上げられる。作戦内容に関しては別レポートを回覧すること。
危険思想、及び反政府的な思想も持っておらず、良くも悪くも報酬を与えればその分だけの仕事をするので超人の中では比較的運用のハードルが低いものと思われる。また、七号と同様に年齢的にも矯正が可能と考えられるので、法秩序の重要性を教育していく方針を取るものとした。
注意。現時点において、物理的な逮捕と拘束が不可能と判断。報酬契約による関係維持が最も安定的だと判断するものである。
彼女の細かな身体能力に関しては超人記録を回覧することを推奨。
七号曰く、完全にゴリラとのこと。職員は注意されたし。もし敵対関係になった場合は防衛省職員にクラスA武装使用の許可を行うものとする。