八神視点
まだ幼い頃、ホワイトルームの教官に蹴り飛ばされたことをふと思い出す。まだ体も小さくて経験も足りていなかったあの時は、自分よりも大きくて年齢を重ねた教官たちがとても恐ろしい存在に思えていた。
体も大きくて容赦もなく、冷たい瞳で床に転がって吐き散らしていた僕にすかさず追い打ちをかけてくる。何をどうした所で勝てる筈もなく、恐怖と痛みで失禁しながらも稽古は続いた。
とても怖かった、あの暴力が。
とても恐ろしかった、あの膂力が。
そしてとても羨ましかった、あれだけ強ければ好きなように生きられるだろうと。
気に入らない奴を黙らせて、うっとうしい相手にゴマすりさせて、殺したいと思った相手を殺せる。ホワイトルームの教官たちはそれができる立場の者たちなんだろう。
あれほど暴力的に生きられれば、どれだけ気楽で自由に生きられるだろうかと、思わなかったと言えば嘘になる。
目の前にいるこいつらを全員黙らせて、食事はもっと豪華にして、部屋も広くして三時のおやつだって手に入る。好きなカリキュラムは多めにしたり、嫌いな授業や講義は少なくできるだろう。
チョコを食べてみたい、そう思ったけど教官に勝てなかったので諦めた。
外の世界を見てみたい、そう考えたけどやっぱり教官に勝てなかったので諦めた。
幼い頃の、まだ様々なことを弁えていなかった我儘な頃の僕の話だ。
いつしか教官たちは絶対の存在になっていたし、その人たちに勝てないようでは願いも夢も意味がなくなる。しかもずっと綾小路清隆の存在が脳内でチラついていたのだから、そんな些細な願いはどこかに消えていたと思う。
綾小路清隆と比べられる、まだ届いていない。そんな繰り返しを十年も続ければチョコも外の世界もどうだって良くなってしまう。
相変わらず教官たちは圧倒的な力で僕をねじ伏せてきて、それは恐怖の象徴として君臨している。
だけど、来るべき時が来たとでも言うのだろうか、体が大きくなり技術も研磨されて経験が肉体と意思に追いついた時に、僕は一人の教官に勝利することができた。
ボクシングの元プロボクサーだとかなんとか言っていたかな、何十敗もした後にようやく得た一勝だった。
床に倒れる教官、それを見下ろす僕。
その瞬間だったと思う。力でねじ伏せることの素晴らしさを知ったのは。
あの教官が、あの恐怖の象徴が、逆らうことの許されない大人だったというのに、その顎を砕いた瞬間の感触は、夜な夜な布団の中でニヤついてしまうほどに心地いいものであった。
その翌日、その教官は僕を見て少しだけ恐怖しているのがわかったのだ。
それは僕が、あの白い部屋で初めて感じた自由であると同時に開放感であったのかもしれない。
「あぁ、そうか……これが自由なのか」
南雲の顔面をぶん殴り、投げつけて真嶋を巻き込んで生徒会の扉を粉砕しながら二人は廊下へと吹き飛んでいく。
ホワイトルーム曰く、追撃は徹底的に。
その教えの通り、僕は全力で二人を追いかけて廊下にまで出ると、その勢いのまま南雲と真嶋へと追撃を叩きこむ。骨を砕く感触が足裏から伝わって来た瞬間に、あの日教官の一人を床に沈めた瞬間に感じた愉悦を思い出す。
「きぁあああああッ!!」
廊下でそんなことをしていれば当然ながら目立つ、しかも文化祭の真っ只中、当たり前のことだけど目撃されて女子生徒の悲鳴が広がった。
それが呼び水となったのか次々と僕の凶行は周囲に認知されていくことになるけれど、その悲鳴も驚愕もどこか遠い出来事のように思えてしまう。
まるで夢でも見ている気分だ、心地いい高揚感すら胸にある。遠くから聞こえる悲鳴は万雷の拍手であるかのように僕の肌を撫でているとすら認識できた。
廊下に転がっている南雲と真嶋を見下ろせば、その姿があの日沈めた教官と重なって……僕は自然と唇を緩めてしまう。
「や、八神……なんてことを」
さっきまで僕たちがいた生徒会室から茶柱の驚愕した声が届いたけれど、もう他者からの評判も信頼も印象もどうだっていい。どうせあのままなら退学になっていたんだ、なら僕は僕のやりたいようにやる。
綾小路清隆、お前をここで今日倒す!!
「テ、テメエッ……グッ」
宿敵を探そうと歩き出そうとした瞬間に、床に転がっていた南雲が僕の足を掴んだ。
「邪魔をしないでくれませんか、貴方程度が出て来る幕じゃありませんよ」
「こ、ここまで舐めた真似するとはな……俺を、誰だと思ってやがる」
「温い環境で革命ごっことおままごとをしながら気持ちよくなってた猿でしょう? お呼びじゃないですから、せいぜい勝てそうな相手だけ探して悦に浸っておくべきかと……それくらいがお似合いだ」
掴まれていた足を強引に引きはがしてから、トドメとばかりに腹を蹴り飛ばす。それで南雲は完全に意識を失うのだった。
「そいつがテメエの本性か? 大人しそうな顔をしながら内心ではって言ったが、どうやらマジでそうだったみたいだな」
「龍園、貴方も呼んでいませんよ。不良上がりがどうこうできる次元の話じゃない……尻尾巻いて消えろよ」
「面白いじゃねえか、そっちの面の方が幾分か男前だぜ!!」
生徒会室から飛び出るように龍園がこっちに突っ込んで来る……邪魔をしないでくれよ、僕には倒さなければならない相手がいるんだからさ。
「所詮は不良上がり、その程度でどうにかできるとでも――ッ!?」
勢いよく突っ込んで来て殴り掛かって来る、そう判断した踏み込みだったのだが龍園が手に持っていた小さな箱を見てその勢いがブラフであることを看破した。
彼が持っていた小箱、それは生徒会室の中にあったものであり、中には大量の画鋲やピンなどが収められていたことを思い出す。掲示板やクリップボードなどに張り付ける際に何度も使ったものなのでよく覚えていた。
容赦なくその針や画鋲が入った小箱をこちらの顔面に向けて投げつけて来る辺り、やはり武術やスポーツマンと言うよりは喧嘩殺法が得意な相手なのだろう。
何より躊躇の無さが、龍園という男を面倒にしている。勝つ為ならば武器も数もタイミングも手段も問わない。
なるほど、一介の高校生程度ならばそんな躊躇の無さと冷酷さを武器にすれば上手く立ち回れるだろうけど、生憎と僕はお前ら程度が及びもつかない訓練をずっと続けてきたんだよ。
投げつけられた小箱は途中で蓋が開いて大量の画鋲が露わになってこちらに殺到してくるのだが、足元に落ちていた南雲の襟首を掴んで引っ張り上げて盾にすることでやりすごす。
そうやって大量の画鋲を防いだ次の瞬間に、盾代わりにしていた南雲をこっちに突っ込んで来る龍園目掛けて蹴り飛ばした。
「チッ!!」
龍園は自分に向かって蹴り飛ばされた南雲を雑に受け止めると、これまた雑に横に置いた。この男なら容赦なく蹴り返してくるかと思ったが、思っていたよりも配慮しているな……流石に死ぬと思ったのだろうか?
まぁなんだっていい、これで勢いは削がれた。
「無人島ではやりたい放題してくれましたね、あれは痛かった」
南雲の意識の一部を向けたことを確認して、側面に回り込んで龍園の顔面を殴りつける。
「ぐッ」
「へぇ、殴られ慣れてはいるみたいですね」
スリッピングアウェーの一種なのか、固い手ごたえではなく頬を滑るような感触があった。クリーンヒットはできなかったようですね。
「……一年坊主が、舐め腐りやがって」
怒りは表面上のものだな、内心は冷静になっていて観察しているのがわかった。こちらの動きをしっかりと見ながら対処しようとしているのがわかる。
なるほど、評価を修正しよう。ただの不良上がりではなく、多少はマシな雑魚程度に。
「ほら、行きますよ。滑稽に踊ってくださいよ先輩」
ホワイトルームで培った様々な経験と技術、それらを複合した独自の格闘技で龍園を追い詰める。所詮は喧嘩慣れした程度の雑兵、プロの格闘家でもなければ軍人でもない、ただ喧嘩が得意なだけの高校生が何をどうしたところで僕には敵わない。
これは驕りじゃない、純然たる事実だ。お前はホワイトルームを知らないし、知らないのならば勝てる理由がない。ぬるま湯に浸かって自分より弱い者としか戦ったことのないお前にできることなんて何もなかった。
潰す、徹底的に潰す……だってその方が気持ちいいだろうから。
幾度かジャブを押し付けて、その中にフェイントを織り交ぜ、本命の膝蹴りを龍園に叩き込む。やはり殴られ慣れているし蹴られ慣れているのかズルズル滑るような感触があるのだけど、痛痒は確実に積み重なっているのは間違いない。
もう二、三度ほど殴るなり蹴るなりすれば踏ん張りも利かなくなるだろうと思い、綾小路を倒す前の慣らし程度に考えながら下段蹴りを放つ。
「クソがッ」
「脆いですね、結局は喧嘩慣れした高校生以上の評価は上げれませんよ……跪けよ、雑種」
ふくらはぎに広がった衝撃によって体幹を崩した龍園は、僕の望み通り崩れ落ちた。恨めしそうにこちらを見上げて来るのだけど、それを見下ろすだけで心地良さが広がった。
あぁ、ホワイトルームの教官たちはいつもこの光景を見ていたのか、病み付きになる訳だ。
「龍園さん!!」
さてトドメだと考えていると、廊下の向こう側、野次馬を掻き分けるように龍園クラスの生徒が顔を出す。石崎とアルベルトのコンビだ。生徒会室前の騒ぎを聞きつけたにしては到着するのが早い、おそらく龍園がこちらに飛びかかって来る前に援軍を呼んでいたようだ。
だけどそれが何なのかな? 雑兵が一人二人増えた程度でどうしようもないよ。
僕と君たちとでは戦士として決定的な差がある。まずは飛びかかって来る石崎の顎先を蹴り飛ばし、続いて突っ込んで来たアルベルトにも拳を叩きこむ。
ローキックで勢いを止め、鳩尾に掌打を押し付け、鎖骨から喉、最後に鼻先への連続攻撃でアルベルトの巨体は一瞬で沈み込むのだった。
するとまた野次馬の中から悲鳴が広がった。あぁ、けれどそれは今の僕にとって万雷の拍手にも等しい……聞こえるか綾小路、この悲鳴が、お前に同じような状況を作れるか?
お前にできないことを、僕はやっている。お前に作れない状況を、僕は作っているぞ。
石崎とアルベルトは沈めた、こいつら程度じゃ話にもならない。そして龍園も黙らせる。目につく全てを叩き潰してあの男を引きずりだすんだ。
「ッ!?」
だけど油断はしていたのかもしれない、それは素直に認めよう。石崎とアルベルトを倒した瞬間に、気が抜けてしまったのか、背後から迫る一撃を避けきれずにまともに受けてしまった。
脇腹に鈍い痛みが走る、振り返ってみるとそこには体幹を崩していた筈の龍園が立っているのが見える。
「クソガキが、あまり舐め腐ってんじゃねえぞ、おら続きだ」
「まだ立ちますか、根性だけは認めてあげますよ……まぁ、精神論で勝てるのならば苦労はしませんけどね。僕と同じ土俵で戦えるのはただ一人だけだ」
「いけすかねえガキだな、一年前の俺を見てるみてえだ……自分は絶対に負けねえと思ってる目をしてやがる」
「貴方たち程度に負ける? 不可能ですよ」
もし僕が負けるとすれば、それは同じホワイトルーム出身者である綾小路清隆だけだ。
「そうかよ、それがお前の限界だ」
痛む足を引きずるように龍園が前にでるが、それよりも早く僕は爪先を踏みつけて動きを封じると、トドメとばかりに顎先を殴りつけようとした。
さっさと沈めよ、邪魔なんだよお前は。
「拓也、止めて!!」
けれどその拳は途中で止められてしまう、野次馬の中から飛び出て来た一夏によってだ。
「邪魔をしないでくれないかな、今とても良い所なんだからさ」
「もう止めよう、こんなことしても何の意味もないよ」
「意味ならある、これ以上ないほどに」
「俺を挟んでぺちゃくちゃ喋ってんじゃねえよ!!」
一夏に気を取られてしまったことでトドメを刺そうとしていた龍園がまた勢いを取り戻す。右ストレートが顔面に突き刺さるのだけど、こちらもまたスリッピングアウェーでするりとクリーンヒットを避ける。
ただ完全には勢いを削げなかったようだ、ドロッと鼻孔から血が流れて来るのを感じ取れてしまう……まったく、一夏が余計なことをするから。
「拓也、これ以上暴れたって、それでどうなるっていうの? 誰も認めてなんてくれないよ……もう、終わったんだから」
「はッ、認められる? そんなことはもうどうだっていいんだよ」
「……え?」
一夏が驚いた顔をした、確かに僕は綾小路清隆よりも優れていると認められたかったさ、その為に努力してきたしそれは一夏にも伝わっていただろう。
けれどもう、そんなことに大した執着はない。
「見てくれよ、この状況を」
僕を見つめる無数の野次馬たち、その誰もが僕を恐れているのがわかる。
その瞳と表情を僕は良く知っている。ホワイトルーム生が教官たちに向けるそれと同質のものだから。
あの人たちはずっとこの表情と視線を見てきたのだ、今ならよくわかる、あれだけ厳しかった理由も、あれほどボロボロにされた理由も。
楽しかったんだろうな、心地よかったんだろうな、自分より弱い者が恐れるように見て来ることが。
「僕は理解したんだよ、暴力こそが重要だったんだって」
「はぁ?」
「立ち塞がる全てを叩きのめして、何もかもを粉砕する。それで良かったんだよ、認められる為に頑張る必要なんて無かったんだ、あの人たちを全てぶん殴って地面を舐めさせれば、それで全て解決だったんだ」
ホワイトルームの教官も、綾小路清隆の父親も、もう止めてくれと言うまで殴り続けて手足を割り砕き、もう逆らいません綾小路清隆よりも僕の方が優れていると言わせれば良かった。
たったそれだけの話を僕はとても複雑に考えていたんだろう。
ホワイトルーム曰く、最後に勝っていればいい。どんな手段を用いても勝利すべし。ならその教えの通り全てを叩き潰して従えてしまえばいい。
「そうだ一夏、これが終わったらチョコを買いに行こう。食事制限なんて気にせず食べたい物を食べて、その後は漫画でも立ち読みしようか? それでやりたいことが無くなったらさ、一緒にあの人たちを従えてしまおう」
「た、拓也?」
「教官たちは全部手足を折る、あの人も当然折る、それで逆らう奴を全て従えたら……僕はあの場所で一番優れた存在になれると思うんだ」
それは綾小路清隆にもできなかった偉業、結末だ。
出来る事ならアイツにも見せつけたいけど、ホワイトルームよりも先に倒しておかないといけないし、そこだけは残念だ。
お前にできなかったことを僕はやったんだって自慢してやりたいよ、まぁここで綾小路清隆は死ぬことになるのでそれは叶わない願いだけどさ。
「力だよ、それでいいんだ……あぁ、僕は自由だ」
圧倒的な力で全てを叩き潰す、綾小路もホワイトルームも、それができればつまり自由ということであり、天才と最強の証明になるだろう。
何も複雑なことではない、とてもシンプルだ……最初からこうすれば良かったな。
「そう……なら、止めないとね」
「手伝ってはくれないのかい?」
「ごめん、無理かも……私はこの学校に来て身の程をしる機会があったからさ、強ければそれで良いなんて考えには共感できない。拓也、わかってるの? その言い分って自分より強い人がいないと思ってるから言えることなんだよ」
「そうか、ならもういいや……君だけはわかってくれると思っていたんだけどな」
一夏は協力してくれないか、なら邪魔でしかない、処理してしまおう。
「井の中の蛙大海を知らず。その一節の通り、私たちはまだまだ未熟だったんだ……だから、もう止めよう? 勝てない戦いなんて意味がないよ」
「もう死ねよ、何もなせないお前が生きている意味なんてないんだから」
もう僕の中では一夏は完全に他人になっていた。こういう時、一緒に過ごした時間が走馬灯のように走り抜けるのかもしれないけど、そんなことは無かった。
「弱者の思考だ、お前のそれは」
「拓也のそれは、強者の病だよ」
一夏が構えを見せる、僕に一度だって勝てたことが無いのに、どうやら戦うつもりらしい。
近くにいる龍園も戦意は挫けていない。それどころか野次馬の中から警備員とやけに視線を集めるメイドがこちら側に飛び出しているのも確認できてしまう。
「まぁいいさ、綾小路と戦う前の準備運動には丁度いい。リハビリがてら全員処理してやるよ。ここから先は一切加減しないからな、怪我人も女子供も来賓も、僕の前に立ち塞がるのならば全て倒す」
ホワイトルーム曰く、それは力ある者に許された権利だ。だってそうじゃなきゃおかしいだろ、あの教官たちは僕たちよりも強かったから好きなだけ暴力を振るえたんだ、なら僕は僕よりも弱い者に配慮する必要はない。
ただ、それだけの話だった。
まずは手負いの龍園を処理する、そう思って手を伸ばすのだけど……次の瞬間に僕の手首が両断されるようなイメージが脳裏に広がったので慌てて手を引っ込めることになった。
なんだ、今のは? 何かをされた訳でもないのに、死を幻視したぞ。
「全員落ち着きなさい!! 暴徒から離れて!!」
野次馬の中からメイドと一緒に飛び出して来た警備員がそう大声で主張する。煩かったので黙らせようと股間を蹴り上げる為に踏み込もうとして……今度は右足が両断されるイメージがハッキリと認識できた。
実際に切り落とされた訳ではない、けれどそう実感してしまう何かを僕は感じ取ったのだ。
なんだ、これは? 僕は一体何に怯えているんだ?
ズキズキと、斬られてもいないのに広がる痛みに苛まれながら、僕はそれでも踏ん張って前に出ようとするけれど、立ち塞がったのは警備員でも一夏でも龍園でもなく、一人のメイドだけである。
「お仕事お疲れさまです。でも下がっていてください、危険なので」
そのメイドは前に出てきた警備員の肩に手を置いて、虹でも注ぎ込んだかのようなギラギラ光る瞳でそんなことを言っている。
不思議と抗うことのできない雰囲気と迫力が感じられてしまう。僕でさえそうなのだから、実際に真っすぐその瞳に見つめられた警備員は尚更そう思ったのかもしれない。
立場上情けないことこの上ないが、警備員は喉を鳴らして慄くようにその場から下がってしまう。それを確認したメイドは、遂にこちらへと振り返る。
そして僕も喉を鳴らした、そのギラギラと光る宇宙的な恐怖を感じる瞳に見据えられて、さっきまであった万能感がどこかに消えて行くのがわかる。
全てを叩き潰して遮る全てを粉砕すれば、それで全てが上手くいくと考えていたついさっきまでの僕はどこにいったんだ?
力さえあれば、それだけで何もかもが解決すると思っていたのに……。
なんだ、なんでも僕は……ただ見つめられただけで背筋を震わしているんだろうか。
「ん……まぁあれだよね」
正体不明のメイドが口を開く、その見た目通り可憐な声色である。
「出来る事なら穏やかに解決したかったけれど、君はちょっと沸点が低すぎます……もう少し穏やかに過ごすべきだったと思う。平和な学園生活、それはとても尊いものですから」
「……」
声色は凪の水面のように穏やかそのものだけど、虹を注ぎ込んだかのような瞳は相変わらず恐ろしい。
「まぁ、火遊びがすぎたようですね、変な遠回りなんてせずに、堂々と挑めばそれで良かったのに」
メイドが一歩踏み込む、その瞬間に喉元に何かが食らいついてくる感覚を覚えることになってしまう。
力があればそれで自由だと思っていた。
立ち塞がる全てを叩き潰せばそれが証明になると思っていた。
それは間違いではない、ゴリラであればあるほど自由に生きられるのはこの世の真理だ。
けれど一つだけ勘違いしていたのかもしれない。
いや、正確には覚悟が足らなかったのかもしれない。力こそ全てと主張するのならば、自分より強い誰かに何をされても文句はないのだという認識が持てていなかったのだろうか。
だから僕は今、こんなにも焦っているのかもしれない。
「ん、ごめんね。でも君は私のクラスメイトを危機に追い込むでしょうから、これは仕方がないことだと思います」
それが僕が最後に聞いた言葉であった。次の瞬間にメイドの姿は一瞬で消え去って気が付けば僕の眼前にブーツの爪先が伸びていたことに気が付く。
踏み込んでのハイキック、何も特別な技ではないけれど、全ての面に於いて極まった一撃だと思う。そうでなければ僕は反応していただろうし防ごうともしていただろう。
それができないということは、遥か高みからの至上の一撃であったということでしかない。人が蚊を払うように、地を這う虫を踏みつぶすように、次元の異なる一撃である。
あ、パンツは男物なんだな。
走馬灯と一緒に全てがスローモーションで流れる中、僕はハイキックを放ったメイドが男物のパンツを穿いていることに気が付き、まるで危機感のない思考をしていた。
それが僕が見た光景、この学園で最後に見た光景である。
次の瞬間に意識を失うことになるのだけど、それまで僕の頭の中は何故で埋め尽くされていたと思う。
だっておかしいじゃないか、あんなに美しいメイドが男物のパンツを穿いているだなんて。
体が吹き飛ぶ浮遊感と一緒に、意識が遠ざかっていくのを感じながら、僕は残された僅かな時間でどうして彼女は男物のパンツを穿いているのかを思考して……最後には無駄なことだと納得すると、そこで考えるのを止めた。