水泳の授業である。まだ夏には遠いこの季節にこの学校は普通にカリキュラムに組み込んで来た。
屋内プールがあるからこその荒業である。施設の全てに金がかかっているので温度管理も完璧なのだろう。
「やべえってマジで、やべえってッ、櫛田ちゃん、櫛田ちゃん、櫛田ちゃん!!」
「俺、勃ったらどうしよ」
「博士、準備は万端だな?」
「任せてくれでござるよ」
あの辺の男子たちは女子から汚物を見るような視線を向けられていることに気が付いていないのだろうか?
あ、綾小路がぎこちなくその集団と関わっている。完全に無視を決め込むことも悪いと思ったのか、彼らが行っている賭けに加わっているようだ。
「貴方はあのくだらない集まりに参加しないのかしら?」
「ん……まぁ、あそこまで露骨なのはさすがにね。女子から嫌われてしまうことくらいはわかるさ」
「そう……最低限の分別はあるようね」
淫らな妄想と女子たちがドン引きしている賭け事から距離を取っていると、堀北さんが彼らに冷たい視線を向けながらそう言った。
平田辺りもさすがに彼等とは距離を取っている。できる男は違うな。
「やっと出てこれた」
「おつかれ、綾小路、女子からドン引きされてたぞ」
「えッ」
気が付いていなかったのか。
「ほら、見ろ、この堀北さんの冷たい眼差しを」
「……」
「堀北はいつもこんな感じだろ……うッ」
また綾小路の脇腹に手刀が刺さる。放たれる度に精度と勢いが増しているように思えるな。
ただあの意見交換会から堀北さんの態度は少しだけ、ほんの僅かにだが、誤差程度ではあるが、軟化したようにも思えるのは嬉しいと言えるだろう。
屋内プールについてから広がったのは興奮と落胆の声である。あんな賭け事を周囲を気にすることなくやっていれば当然のことではあるのだが、かなりの数の見学者が出てしまう、それも女子を中心に。
それでもしっかりと授業に参加した女子生徒もおり、特に櫛田さんは抜群のプロポーションから男子たちの視線をかなり引きつけていた。
「はぁはぁはぁ、はぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
「馬鹿な、長谷部はどこだ!?」
「うッ……既にヤバいかも」
「やっぱ櫛田ちゃんなんだよな、櫛田ちゃんしか勝たん」
「……堀北は意外にあるんだな」
水着になった女子たちを遠巻きに眺める男子たちの惨状たるや、プールを挟んで反対側にいる女子たちの視線は冷たくなるばかりである。
見学者がいる席からはキモッと憚ることなく言われる始末であるし、さすがに綾小路もこの立ち位置が拙いと判断したのかススっと距離を取っていた。
「皆、その辺にしときな、女子たちから向けられるあの目を見るんだ」
「へッ、モテる男は余裕だな……うぉ!?」
池や山内たち、そして須藤たちに背後から声をかけると、振り返った瞬間に彼らの文句は吹き飛んだ。
「さ、笹凪、お前……ヤバくね?」
池の言葉はなかなかに失礼である。俺の体をジロジロ眺めて出て来た言葉がそれか。
「確かに、ここまでとなるとまず見ねえな、なんかスポーツやってたのかよ?」
須藤も興味を向けて来る。少しだけ感心するような雰囲気も感じられた。
「古武術を習っていたよ、小さな頃から」
「それにしてもヤバすぎるだろ、どこもかしこもバキバキじゃねえか」
「そうかな? 高円寺とかの方がだいぶアレだけど」
何故かブーメランパンツの装いで鏡を前にポーズを決めている高円寺に全員の視線が集まる。
あの筋肉、相当鍛えこんでいるな、ボディビルダーのようだ。
太く、それでいてしなやかで、見事な逆三角形を描いている体である。
「それに須藤も良い体してるじゃないか、バスケをやってるって聞いてたけど、それだけじゃないんだろ?」
「おう、そりゃな、部活以外でも筋トレはよくやってるぜ」
「ん、まさにスポーツマンって感じだよね、見るからに瞬発力がありそうだ」
「へッ、まぁな」
「なぁなぁ、やっぱそこまで鍛えようと思ったら結構苦労する感じなのか?」
「確かに、どれくらいキツイんだろうな」
「おや、山内と池は肉体改造に興味があるのかい?」
「いやほら、やっぱさ、女の子は細マッチョが好きって雑誌に書いてたからさ」
「そうそう、櫛田ちゃんとかも俺がそういう体してたら感心すると思うんだよな」
「まぁ、だらしない体よりもずっと良い印象は与えられるだろうね、櫛田さんに限らず……う~ん、そうだなぁ、毎日しっかり運動すればいずれはって感じだけど。須藤もそうだよね?」
「ガキの頃からバスケやって練習漬けしてればこうなってたな」
俺と須藤の言葉に山内と池がげんなりとしてしまう。彼らの中では一日二日の苦労で体が作れるという浅い考えがあったらしい。
話題が女子たちの水着姿から筋肉談義に移ったのは良い傾向かもしれないな。少なくとも女子たちを舐めまわすような状況よりはずっとマシだろう。
まぁ、長くは続かないんだろうけど。
実際に、池たちの話題はすぐに女子たちに移る。数分も持たなかったか。これは落ち着かせるの無理だな、距離を取っておこう。
「綾小路くん、何か運動してた?」
「自慢じゃないが中学は帰宅部だったぞ」
少し離れた位置で綾小路と堀北がそんな会話をしていた。
「それにしては……前腕の発達とか、背中の筋肉とか、普通じゃないけど」
確かに彼の肉体は研ぎ澄まされている。徹底管理された食事とトレーニングで作られたオリンピック選手のような体と評価できるだろう。
あそこまでの肉体を作るには、相応の時間は注ぎ込まなければならない。
「高円寺とか、笹凪の方がずっと鍛えられてると思うけどな」
「……笹凪くん、貴方は何かスポーツを?」
「子供の頃から古武術を習ってたよ、師匠が凄く厳しい人でさ、滅茶苦茶に鍛えて来るんだ」
「なるほど、道理でね」
「笹凪は武術を習っていたのか」
「そう、空手とか柔道とか剣道とか薙刀とか、色々なものが混ざった奴」
後は、アレだな、師匠は他にも色々教えてくれた。現代日本で絶対にいらないだろうと断言できるものまで。
火縄銃の扱いとか、絶対に知らなくていいと思うんだ。猪と熊を狩るのは楽しかったけどさ。
「よ~し、お前ら集合しろ!! 見学者は十六人か。随分と多いようだが、まぁ良いだろう。準備体操を終えたら、早速泳いでもらう」
どうやら授業が始まるらしい。水泳なんて師匠以外から教えて貰うのは初めてだ。
「あの、俺あんまり泳げないんですけど……」
「俺が担当するからには、必ず夏までに泳げるようにしてやる。安心しろ」
「どうせ海なんて行かないし、無理して泳げるようにならなくても良いんですけど」
「そうはいかん。今は苦手でも構わんが、克服はさせる。泳げるようになれば必ず役に立つからな。必ず、な」
師匠も似たようなこと言ってたっけな。船が爆破されて沈んでもしっかり泳げたから今も生きてるって懐かしそうに語ってたし。
準備運動を終えて生徒たちはそれぞれ自由に泳いでいく、最初の内はそれぞれの運動能力を観察する為の様子見のようだ。
「とりあえずほとんどの者が泳げるようだな。では早速だがこれから競走をする。男女別で五十メートル自由形だ。因みに、1位になった生徒には俺からボーナスを支給しよう」
見学者が多いことでやる気を出させる為なのか、そんな餌も用意してくれているのはありがたい。
「堀北さん、運動もできるようだね」
「あぁ、早いな。さすがに水泳部には勝てないようだが」
プールの端で足だけを水に付けながら綾小路と並んで女子たちの泳ぎを眺める。興奮した様子の池と山内たちから少し距離をとった位置でね。
1位を取ったのは小野寺さん、水泳部の子でさすがの泳ぎである。
現役水泳部と比較できる泳ぎをできるだけ凄いのだ、堀北さんは水泳部という訳でもないのに。
「おつかれさま堀北さん、惜しかったよ」
「そこまで勝ち負けに拘っている訳ではないわ、それより貴方たちはどうなの?」
「オレはビリにならないくらいに頑張る」
「……少しはやる気を出しなさい、笹凪くんはどうかしら?」
「俺は勿論1位を目指すとも。人事を尽くすのが信条だからね、やるからにはトップを目指す」
師匠曰く、結果に貪欲であれ、だ。
男子組の中で見るからに運動能力が高いのは平田と須藤と高円寺だろう。後は綾小路かな。
やる気の無い綾小路を抜けば高円寺、須藤、平田の順で決まるはずだ。よほどスタートダッシュでミスしなければだけど。
「ん……須藤で決まりかな」
男子は参加人数が多かったので複数に分けてレースが行われる。一番手で最有力候補はやはり須藤である。
案の定というか、予想通りと言うべきか、彼がぶっちぎって一位をもぎ取る。その身体能力に任せた泳ぎは体育教師も感心するほどであり、水泳部に勧誘されていた。
「次は平田だな」
女子たちから黄色い歓声が沸き上がる。正統派のイケメンである彼もまたスポーツマンらしく研ぎ澄まされた体をしており、顔も体も文句のつけようがないイケメンぶりである。
「ぺッ」
池と山内たちは唾を吐いている。やめなさい、体育教師が視ているよ。
「思ってたよりも早いな」
須藤も感心したような声を上げるくらいに平田の泳ぎは上手い。サッカー部とのことだが水泳も得意であるようだ。
「だが須藤ほどじゃねぇッ!! やってやろうぜ須藤ッ、あのイケメンを粉砕してやろう」
「あぁ、この俺の全力でなぁ!!」
「……アイツらはイケメンに恨みでもあるのか?」
綾小路は少し呆れた様子で須藤たちを眺めている。
「仕方がないよ、平田は女子に人気があるからね」
既にクラスの中心人物になっているし、よく女子たちと遊びに誘われてもいる。嫉妬を向けられるのも自然なことなのだろう。
「笹凪も人気があるじゃないか」
「そうかい? 平田みたいにキャーキャー言われないけど」
「まぁ、そうだな……お前はどちらかと言えば、溜息を吐かれるタイプだ」
「えッ、俺ってそんな扱いなの」
もしかして知らず知らずの内に呆れられてる?
「いや、悪い意味じゃない……なんて言えばいいんだろうな、うっとりさせてるって感じだ」
「うっとり……よくわからないな」
「それより次はお前の出番じゃないのか?」
「おっと、それじゃ行ってくるよ」
どうやら最後の組のレースが始まるらしい。ここで良いタイムを残せば決勝戦に参加することができる。
この組で最も強敵なのはやはり高円寺だろう。ボディビルダーのような肉の鎧を身に纏う彼は間違いなく最高性能の肉体を持っているはずだ。
「ふッ、来たようだねモンスターボーイ」
「モ、モンスターボーイ……俺のことを言っているのかい?」
「君以外にモンスターが他にいる筈もないだろう? その肉体、骨、よくもそこまで鍛えた……いいや、改造したものだと感心したものだよ、実に興味深い」
「そうかな? 俺もそれなりに鍛えたつもりではあるけど、筋肉量は高円寺の方があるだろ」
彼は筋肉の鎧を身に纏っているような肉体を持っているが、俺はそこまで分厚くはない。
「単純な大きさならばそうだろう。だが完璧な私は完璧な観察眼を持っている、そんな私から見れば君の肉体は凡夫たちとはそもそも根本から異なっている、だから言ったのさ、よく改造したものだとね」
改造か、確かにそうなのかもしれない。師匠の鍛錬は、鍛錬とは名ばかりの改造に近かった。内臓も骨も叩いて叩きまくったからな。
気が付けばあの人の動きにも何とか付いていけるようになっていた。昔は手も足も出なかったのに今では戦いというものを成立させられるだけになったと思う。
師匠はお前には才能があったからだいぶ楽に基本は作れたって言ってたな。
「それともアイアンマンとでも言った方が良いかね?」
「どっちも困るな、名前で呼んではくれないかい?」
「ふ、ならば勝ち取ってみることだ、君が唯一無二の存在となれるのならば、この私と言えど吝かではないとも」
「ふふ、わかったよ。俺も勝負ごとに妥協はしない。やるからには勝つ、当然のことだ」
俺と高円寺は二人して飛び込み台の上に立つ。他にも競う男子生徒たちはいるのだが、完全に意識の外にいっていた。
身をかがめて飛び込む姿勢になった高円寺の存在感だけが、俺の感覚に唯一引っかかる。
意識を集中していくと周囲の音が消えていき、自分の心臓の音だけがやけに大きく感じられるようになっていく。
その状態からもう一歩踏み込むと、頭の中で何かが切れるような音が響く。思考が速まっていきあらゆる流れが緩やかになっていくように感じた。
今ならば空でも飛べるかもしれない。
実際には勘違いでしかないのだが、そんな万能感を全身に広げられたのならば後は簡単だ。
結果に向かって体が勝手に動く、俺の感覚では意識も記憶もしっかりあるのだが、気が付けば目的を達している、そんな感覚である。
耳から入って来る音が急に大きくなったかと思えば、目が覚めたかのような感覚と共に水から顔を出すのだった。
「お、お前……」
体育教師からはドン引きされてしまった。
スタートしたばかりの頃は応援で賑わっていた筈だが、男子も女子も今ではだんまりである。
「ふッ、やはり君はモンスターと呼ぶに相応しいようだね」
「ん、名前で呼んでね。怪物呼ばわりはさすがに困る」
「やれやれまったく、仕方がない、他でもない君がそういうならば、敬意を表して天武と呼ぼうじゃないか、ハッ、ハッ、ハッ!!」
「良かった、お礼に今度、俺がやってる鍛錬を教えようか?」
「……ほう?」
少しだけ高円寺と仲良くなれた気がする。彼は唯我独尊で我が道を進む人ではあるが、距離が縮まったのは間違いないだろう。
体育教師から言葉では表現し辛い興奮と歓喜と苦笑いが混ざった何とも言えない顔で水泳部に勧誘を受けたのだが、個人的な趣味を優先して美術部に入ることを決めているので丁寧に辞退した。
運動系の部活でも良いんだけど、何かの拍子に壊してしまうかもしれないので、遠慮するしかない。