その日の授業は特に大きな問題も無く終わることになった。グループ内の不安要素であった龍園たちは座禅やランニングなどの体力面では一切の不安がなく、この面子で運動面の心配は必要ないと判断するには十分であった。
Cクラスの二人はそれなり、Aクラスの橋本と戸塚もランニングを終えて立てなくなるほど体力不足という訳でもない。清隆や高円寺は言うまでもない。
なので注力するべきは筆記試験などの学力面ではあるが、そこは最終日前日にでもこちらで要点を纏めた対策問題を配ればいいだろう。多少なりとも危機感があれば目を通す筈だ。
このグループのざっくりとした対策を考えながらの夕食を終えて、部屋に帰って今日も彫刻と不寝番を行う為に気合を入れていると、前方に特徴的な人影を発見した。
「坂柳さん」
「どうしましたか、天武くん」
その人物は坂柳さんであり、振り返ってこちらに視線を向けて来ると同時に、いつもの不敵な笑みを向けてくれた。
「特に大きな理由はないんだけどね、なんとなく姿が見えたから声をかけたんだ」
「そうでしたか」
「あぁ、でも良ければ女子グループの話を聞いてみたいかな。そちらさえ良ければだけど」
「ふふ、知りたいのはグループ決めが揉めた件ですか?」
「気にならないと言えば嘘になるかな」
鈴音さんが言うにはグループ決めの際にAクラスは一之瀬さんを遠ざけるような動きを見せたらしい。何の為にそんなことを考えたのかはわからないので、知ってそうな人に直接訊ねればと考えた次第である。シンプルで良い。
「そうですね、説明するのは別に構いませんが――」
どこか妖艶な笑みを浮かべてこちらとどんな会話をしようかと考えている坂柳さんだが、俺の視線はその背後に近づいてくる山内に向けられていた。
何を考えているのか、キョロキョロと視線を揺り動かしながら廊下を歩く山内は、小さな石にでも転んでしまうほどに注意散漫な状態のように思える。
そのまま進むと、もしかしたら前方にいる坂柳さんにぶつかってしまうのではないかと思ったので、俺も前に進んで山内と坂柳さんの間に入った。流石に気が付くだろうと思っていたが、あと一歩の距離までキョロキョロとしていたので仕方なくだ。
「山内、前はしっかり見ろよ。ぶつかったら怪我をさせてしまうかもしれないしね」
「おっと、悪いな」
本当に、たった今、俺や坂柳さんに気が付いたかの様子なので、一体彼は何を見て歩いていたのだろうか?
「ありがとうございます、天武くん」
「いや、大事にならなくて良かったよ」
間に入ったことで接触することはなく、坂柳さんもお礼を言ってくれた。
「あれ、確かこの子って……Aクラスの子だろ」
「坂柳さんだよ」
「あぁ、そうそう、杖が無いとダメな女子だっけ。今も笹凪がいないと倒れてたかもしれないし……可愛いけどなんか危なっかしいよな、チョロチョロされるとさ」
そんなことを言いながら去ろうとする山内の首根っこを掴んで、強引に引き寄せると、後頭部を掴んで強制的に頭を下げさせる。
「ちょ、おいなんだよッ!?」
「全く、今朝の授業で何を学んでいたんだ。社会性と配慮という言葉をもう忘れたのか?」
「痛いっての!?」
「他者と接する時は最低限の礼節と敬意を忘れるな、次は無いぞ……わかったな?」
「わかったって……」
「すまないね、坂柳さん。彼にはしっかりと反省させておくよ」
クラスメイトの恥なので一緒に頭を下げると、彼女からは許しの言葉を頂く。
「構いませんよ、どうか気になさらないでください。些細なことですから」
頭を上げると……それはもう凄く楽しそうな顔をした坂柳さんがいた。
うん、怒らせてしまったみたいだ。本当にすまない。
「もう良いだろ、俺は行くからな」
去っていく山内の背中を見送っていると、坂柳さんから上品な笑い声が届いた。
「フフフ、苦労なさっているようですね」
「決して悪い奴じゃないんだけど……」
「ご友人なのですか?」
「友人、なのかな……そこまで絡みはないけど、クラスメイトだからね」
「なるほど、貴方は優しいですね」
「優しい?」
「天武くんにとって、他者は等しく配慮すべき存在に映っているように思えたので」
「そこまで考えてはいないさ、だがクラスメイトは守るものだと思うよ」
「良い心がけだと思いますよ。貴方は一之瀬さんと異なり、理想論ではなく実際にそれを押し通せる力と手段を持っていますから……さて、話を戻しましょう、どうして彼女のクラスを遠ざけるように動いたか、ですよね?」
「あぁ、そうだった。それを訊きたかったんだ」
山内の介入でうやむやになる所だったけれど、本題はそこである。
「既に戦いは始まっている、ここは敢えてそう表現しましょうか」
「なるほど、とても納得できる」
つまり、Aクラスは今後、Cクラスへ攻撃を仕掛けるつもりな訳だ。ここまで沈黙を守って来た最上位クラスが遂に攻勢に出ようとしているらしい。
「しかし一之瀬さんクラスも手強い相手だ、そう簡単に進むかな?」
「さて、どうなるでしょうね」
妖しく微笑む坂柳さんは、どこか楽しそうにも見えた。
「そうだ、私からも天武くんに訊きたいことがあります」
「構わないよ」
「貴方は善意をどこまで貫けるのでしょうか?」
「すまない、質問の意図がわからない……」
「言い方を変えましょうか、どこまで行けば怒りを覚えますか?」
「怒りか……難しいな。日々、穏やかに生きたいと思っているから、なんだか遠い感情なんだ」
「そうでしょうね……そう言った意味では、天武くんと一之瀬さんはとても似ているのかもしれません」
「俺と一之瀬さんが?」
そんな訳ないと断言できるくらいには、俺と彼女は似ていないと思うが。坂柳さんに言わせれば違うらしい。
「他者に配慮して生きることを大事にしているという点ですよ」
「それは別に俺や彼女に限った話ではないさ。誰しもが大なり小なり持ち合わせているものだ」
「えぇ、ですけど、誰にだって限度があります」
それはそうだろう。どんな善人にだって限界というものはある。
「貴方と一之瀬さんはその限度が特に高いように思えますね……だから善人と言えるのかもしれません」
「俺は善人には程遠いと思うけどね、一之瀬さんと違って」
「いいえ、逆ですよ」
「逆?」
「本当に、真の意味での善人は、きっと貴方でしょう。一之瀬さんではありません」
「よくわからないな、そう言い切れるだけの根拠があるのかい?」
そう訊ねると、彼女は変わらず愛らしく微笑むだけだ。
「いずれわかりますよ、彼女には善人であらなければならない理由があるとね……そこが似ているようで、天武くんとの決定的な違いでもあるのでしょう」
よくわからない物言いではあるが、坂柳さんの中には一之瀬さんの突くべき隙があるのかもしれない。Aクラス対Cクラスが現実味を帯びて来たということだろう。
「私を止めますか?」
美しい笑みを浮かべた坂柳さんは、試すかのようにそう問うてくる。
「君と一之瀬さんの戦いに割って入るのは流石に無粋だと思うけど……まぁどうしようもないくらいに困っていたら手を差し伸べるよ」
「利益や恩を与える為ではなく?」
「あぁ、俺は、お節介をしながら死んでいくと決めている」
「なるほど、やはり貴方は善人ですね……もし私と一之瀬さんの立場が逆になったらどうしますか?」
「言うまでもないことだけど、それでも言葉にしようか……君が困っていれば、俺は必ず坂柳さんを守るよ」
「大いに結構です、とても満足できる言葉でした。どうかこれからもそれを貫き通してください。その考えと信念を、私は心地良いとさえ思いますので」
言葉の通り、満足そうに微笑んだ坂柳さんは、杖を突きながら歩き出す。そしてすれ違いざまにこう囁いた。
「誰かの苦労を背負えるような天武くんのお節介を期待しておきましょう……誤解のないように言っておきますが、私は貴方のことを好んでいますよ」
「嬉しい言葉だ、誰かに褒められるのは悪い気がしないね」
どうやら俺は振り回されることが確定しているらしい。坂柳さんはとても楽しそうである。そこまで期待されると滑稽に踊るのも吝かではなかった。
何をするつもりなのかはわからないが、坂柳さんと一之瀬さんの対決はもうそこまで迫っているのかもしれない。遠ざかっていく彼女の背中を眺めてこれから大きく展開が動くことを確信する。
もしかしたらこちらのクラスに火の粉が飛んでくる可能性もあるので、慎重であることも忘れることはできないだろう。
俺たちのグループの部屋に戻って、坂柳さんが取るであろう戦略を想像しながら、彫刻刀片手に小さな仏像を作っているとすぐに時間も過ぎ去っていった。
途中から清隆が手伝ってくれて、何の気まぐれか橋本が同じように彫刻を行い、何だかんだで戸塚も引っ張り込んで、更にはCクラスの二人まで興味を向けてくれたので、これを機に芸術活動の布教でも行うことにしよう。
「龍園、どうせ消灯時間まで暇なんだし、せっかくだから君たちもどうだい?」
「馬鹿いえ、付き合ってられるか」
「石崎と山田はどうかな? 芸術活動っていうのも偶には悪くないよ」
「俺たちは敵同士だ、慣れあってる訳じゃねえんだよ」
「……」
龍園が参加しないので石崎と山田もまた不参加のようだ。
「まぁ出来ないのなら無理強いはしないよ。君たちって不器用そうだし、どうせ指切って血だらけになって終わりそう……そんなに怖いなら雑魚はそこで寝てなよ」
「できらぁッ!!」
チョロすぎるだろ石崎、山田もちょっとムッとしていて、龍園は邪悪な笑みを浮かべてベッドから下りて来て彫刻刀を奪い去った。
俺の鞄から、授業のランニング中に校舎の裏山付近で拾った木材の欠片を奪い去ると、龍園グループもまた彫刻に参加することになる。
「高円寺は……お、上手いじゃないか」
「ふふん、私にとってはこの程度は造作もないことさ」
高円寺はいつの間にか参加して、いつの間にか変な像を掘っていた。わざわざ参加したということは彼の琴線に触れる何かがあったらしい。
「せっかくだから、仏像でも彫ろうか」
「いや、何で仏像なんだよ?」
彫刻刀を持った戸塚が首を傾げる。橋本もまた同様だ。
「今朝の座禅の授業と同じさ、己と向き合い冷静になれるからだよ。不出来でも構わないからやってみよう。どうせ就寝時間まで暇なんだからさ」
そう、暇だからというのが最大の理由である。
俺は手本を見せるかのように集中力を高めていき、師匠モードに移行して彫刻刀を木材に刺し込む。
「世に悲しみが尽きることはなく、だからこそ少しでも嘆きが減るように祈りを込めながら仏を作ろう」
師匠モードによる引力があるからだろうか、グループのメンバーもこっちの雰囲気に引き寄せられるかのように意識が変化していくのがわかった。体育祭の時もそうだったけど、師匠モードはこういう時が偶にある。誰かの精神に強い影響を与えるとでも言うのだろうか。
集中が集中を呼び、誰もがどこか悟りを開いたかのような顔で一心不乱に仏像を彫る光景は、どこか恐ろしく見えるのかもしれないな。
「一つ彫っては父の為」
俺がそういうと、メンバーが一斉に復唱する。
「「「「一つ彫っては父の為」」」」
「二つ彫っては母の為」
「「「「二つ彫っては母の為」」」」
良い連帯感だ。体育祭前のスパルタ特訓を思い出す。あの時もクラスメイトたちは今みたいな感じになって強力な連帯を意識させる状態になっていた。
「なぁ、おい……お前ら」
「三つ彫っては友の為」
「「「「三つ彫っては友の為」」」」
「お~い……笹凪、先輩が来てるんだが」
「四つ彫っては人の為」
「「「「四つ彫っては人の為」」」」
どこからか誰かの声が聞こえて来るが、集中の全てを彫刻に向けているからどこか遠くに思えてしまうな。構っている場合ではないというか。
「五つ彫っては世の為」
「「「「五つ彫っては世の為」」」」
「南雲、どうするつもりだ? そもそもこいつらは何をやっている?」
「いや、俺に訊かれても困りますって……おい、笹凪、トランプでもどうだ?」
「六つ彫っては未来の為」
「「「「六つ彫っては未来の為」」」」
「怖えよこいつら……なんで一心不乱に仏像彫ってんだよ。今は合宿中だぞッ!?」
「今年の一年は色々とアレな者が多いとは聞いていたが、ここまでとはな」
どうした訳か外野から少し失礼な声が聞こえて来るな。少し集中を落ち着けて視線を仏像製作から共同部屋の入口付近に向けてみると、そこには南雲先輩を筆頭に上級生たちの姿が見えた。
別に睨んだ訳ではないが、師匠モードのまま彼らを見つめてしまったので、少し驚かしてしまったのかもしれない。
「あぁ、先輩方……良ければどうですか? 共に仏像を彫り、世の嘆きを少しでも減らしましょう」
「……」
廊下から共同部屋をの覗き込む南雲先輩たちに、俺は善意でそう呼びかけるのだが、彼らは共に顔を見合わせて首を横に振ると、静かにそっと扉を閉めるのだった。
どうやら文化的活動はお気に召さなかったらしい。
その日以降、どこか先輩たちに避けられるようになったのは、気のせいだと思いたい。
次回、男の戦い