転生ウマ娘はレースの夢を見るか   作:雪卯鷺

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お久しぶりです。
同時進行とかするもんじゃないですね、マジで。


過去の日のこと

 過去の自分を受け入れたあの日から、私は以前の記憶をしばしば夢に見るようになった。そのほとんどはやっぱり病院の中での事で、出てくる人も大抵はお医者さんや看護師さんだった。たまに前の両親と思しき人達が来て、果物を剥いてくれたり、身近であった面白い出来事なんかを話して聞かせてくれたりした。

 

 

 そして"ソレ"も、そういう数ある記憶の中の一つだった。

 

 

 その日も特にやる事のなかった私は、ベッドの上で横になってボーッと天井を眺めていた。そうしていると病室のドアが開いて1人のお爺さんが入ってきた。

 頬は痩け目は落ち窪み、髪も随分と薄くなって、側頭部にほぐれた綿の様な白髪が僅かばかり残っている。入院着の襟から覗く身体は痩せて肋が浮いていて、まるで枯れ枝のような腕からは点滴の管が伸び、スタンドを引いて歩く姿はまるで幽鬼のようだった。

 そのお爺さんはベッドの上の私にギョロリとした目を向けると、薄黄色く濁った歯を剥いてニヤリと笑った。

 

『なんや、ボウズ。暇なんか』

 

 ガリガリの見た目からは想像もつかないようなハッキリとした声色でそう言うと、ゆっくりとした足取りで隣のベッドへと腰掛けて、手に提げていたビニール袋から新聞を取り出してバサリと拡げる。

 そして私は、この時初めて『あ、前の私は男の子だったんだ』と認識した。

 お爺さんは暫くの間つまらなそうな顔で新聞を捲っていたが、おもむろに折りたたむとサイドチェストから携帯ラジオを取り出した。アンテナを伸ばし、角度を調整しながらチャンネルを回していく。やがて目当ての番組を見つけたのか、サイドチェストの上にラジオを置いてベッドの上で胡座をかく。

 その様子をぼんやりと眺めていた私に気がついて、お爺さんはラジオを指先で軽くトンと叩いた。

 

『ボウズも聞くか?』

 

 私が頷いて見せると、お爺さんは「よっこいしょ」という掛け声と共に立ち上がり、私のベッド脇の丸椅子に腰掛け、ラジオを私のお腹の上あたりに置いた。ラジオからは早口で何かを捲し立てる男性の声が聞こえてくる。

 私は多分、これは何か、といった様な事を聞いたのだと思う。お爺さんはニンマリと笑って言った。

 

『これか? これはな———』

 

 

 ◆

 

 

「どうしたの、エルピス? 考え事?」

「……いや、ちょっとね」

 

 野良レース場として一般解放されているグラウンドの芝コースの上で仰向けにひっくり返った私を、心配そうに見下ろしながらスカーレットちゃんが尋ねてくる。私はその問いに曖昧に言葉を返した。たった今私をぶっちぎったばかりだと言うのに、息一つ切らしていない。

 初めの内は勝ち越していたスカーレットちゃんとのレース戦績は、一年もしない内に追いつかれ、最近ではすっかりと負け越してしまっていた。私と同じ歳だと言うのに、成長率は天と地ほどの違いがあるようだ。身長に至っては既に見上げなければ顔が見えない程度には差がついていて、不公平を感じずにはいられない。

 スカーレットちゃんが差し出した手を取って引っ張り上げてもらいながら、私は今朝の夢について考えていた。

 

 あれも今までの感じからすると、前世の記憶なのだと思う。

 細部はいまいちハッキリしなかったが、ラジオで喋っていた内容なんていちいち覚えている方が稀だろうし、そこはまあ良い。問題は……。

 

(あのおじいちゃん、何て言ってたんだろう?)

 

 そう。あの同室であろうおじいちゃんの言葉が聞き取れなかった事だ。それまでは普通に聞こえていたから、あそこだけ覚えていないという事なんだろうか? 

 

(にしてはその他の部分は結構しっかり見えてたしなぁ……)

 

 服に付いた砂や芝の切れ端なんかを払い落としながら、息を整えつつボンヤリと思考を続ける。スカーレットちゃんは軽く手足をほぐしながら走る準備をしている。どうやらまだやるつもりらしい。元気が有り余っているようでなによりだけど、私もうちょっと休憩したいなーなんて。ダメ? ちくせう。

 

 

 ◆

 

 

 くぅ〜疲れましたwこれにて今日のトレーニング終了です! 

 実は、ダメ元でティアラ路線に行きたいと言ったら受け入れて貰えたのが始まりでした

 本当はオークス走りきるスタミナ無かったのですが←

 ご厚意を無駄にしないためにも精一杯挑んでみた所存ですw

 以下、トレーナーからのトレーニング中の私へのメッセージをどぞ

 

「オラ、踏み込み甘いぞ! もっと足上げろ!」

「ペース落ちてんぞコラァ! 舐めてんのか気合い入れろ!」

「そんなんでトゥインクルシリーズやってけると思ってんのかテメェ!」

「ほらもうちょいもうちょい! ……ヨシ、もう一本!」

「おし、お疲れ」ファサ←タオルを投げる音

 

 いや殺す気か? スパルタにも程があるでしょ。

 マジでめちゃくちゃキツかったんですけど? 見ろ、私のこの産まれたての子鹿のような足を。ガックガクで立ってるのもやっとなんですけど? 呼吸も未だに全然整わないし、こんなんもうほとんど虐待みたいなもんでしょ。出るとこ出ても良いんだぞ私は。

 あー、ダメだ。もう立ってらんない。

 

 いよいよ限界を迎えた私は、未だにプルプルと震える足を投げ出して、コースの上で大の字になって寝転がった。汗を拭いていたタオルを丸めて頭の下に敷き、赤く染まりつつある空を眺める。

 

 そりゃ確かに適正距離外のレース走ろうってんだから、多少はトレーニングキツくなるのも覚悟してたけど、普通こういうのってもっと段階踏まない? こんな初っ端から足腰立たなくなるまでやるのおかしくない? 

 坂路でのトレーニングは足への負荷を抑えつつ心肺能力を向上させる事ができるとか言ってたけど、そんなん関係ないぐらい負荷かけられまくってますけど? 

 

「エルピス。そこだと他の娘の邪魔になるから、休むならコースの外に出てからにしよう」

「うぁ〜……、動けな〜い……。トレーナー、運んで〜……」

「しゃあねえなぁ、もう」

 

 トレーナーは私の上半身を起こさせると、腋の下に頭を通しつつ片腕を引いて体を固定すると、もう片方の腕を股下に通して肩の上へと担ぎ上げた。所謂ファイヤーマンズキャリーである。

 ……いや、運んでもらう立場でアレコレ言うのもなんなんだけども、流石にこれはちょっと……。これが楽なのはわかるんだけども、もうちょっとこう……運び方と言うか……。

 私だって女の子だし、やっぱりこういう場面では期待してしまうものがあるのだ。お姫様抱っことか一回ぐらいされてみたいよね。

 

 そんな事を考えているうちに、トレーナーは私をコース脇のベンチまで運搬すると、私をベンチの上へと降ろしてくれた。

 

「クールダウンはどうする? ストレッチか、アイシングか」

「うぅ〜……、今あんまり動きたくないかも……」

「じゃあアイシングと……、マッサージだな」

 

 そう言うと、トレーナーは私の脚にコールドスプレーを吹きかけつつ、足首を回したり脹脛の辺りを重点的に揉みほぐしたりと、疲労をとる為に入念にマッサージしていく。

 限界まで酷使された脚の熱が冷えていく感覚、ズッシリと蓄積されていた疲労が柔らいでいく心地良さに思わず声が漏れてしまう。

 

「あ゛ぁ〜……、キくわ〜……」

「おっさんか?」

 

 うら若き乙女に向かってなんたる言い草か。

 て言うかこの人、なんの躊躇もなく脚揉みに来たな。普通異性の肌を触る時って、予め許可取った上でもうちょっと遠慮がちにしたりしない? 

 

「いや、だってお前ガキじゃん」

「なんだとぉ?」

 

 レディに向かってなんたる言い草か。

 そもそもトレーナーだってまだ全然若いと言うか、私とそんなに歳も変わらない様に見えるんだけど。

 

「今年で20だが?」

「ええ、じゃあ私と5コくらいしか離れてないじゃん! 私の事ガキとか言えないでしょ!」

「いや歳もそうなんだけど、お前はまず見た目がさぁ。そもそもそういう事気にするのがもうガキ」

「なんだとぉ?」

 

 なんてデリカシーのない人だろうか。女性に対する扱いがまるでなっていない。絶対モテないわこの人。

 

 まあでも、私の我儘に付き合ってくれているのは単純にすごくありがたい。極端な距離延長はメニューの調整も難しいし、一歩でも間違えればすぐに怪我に繋がるし、そもそも成功するかどうかは私達ウマ娘の資質によって左右される。

 それなら得意分野を伸ばした方が断然楽だし、その後の競技生活の事を考えてもずっと得も多いしで、やりたがるトレーナーはあまり多くないと聞いた。「担当に無理をさせて怪我を負わせたトレーナー」なんて悪評も、誰だって欲しくはないだろうし当然の事だ。

 

 でもこの人はそうしなかった。リスクがある事は百も承知で、私をオークスの距離に対応させると言ってくれた。

 新人故の無鉄砲という事もあるかも知れない。でも例えそうだったとしても、私の為に自らのキャリアを天秤にかけた上で私の我儘を通そうとしてくれている。その事実だけで私は感謝の気持ちで一杯になる。

 

 きっとこの一見無茶に見えるトレーニングメニューだって、緻密な計算によって故障ギリギリの所を見極めて、細心の注意を払って……。

 

「そうだ、エルピス。今日のトレーニングはちょっと負荷かけすぎたから、明日は休みにしよう。その間に俺はもうちょっと軽めのメニュー考えとくから。初めてでちょっと加減がわからなくてさ」

「……」

 

 私はトレーナーの頬に向かって、勢いよく平手を振り抜いた。

 

 

 ◆

 

 

『これか? これはな———』

 

 また、同じ夢を見ている。

 あの日から私はこの夢を何度か見ている。終わりはいつも同じ。お爺さんの言葉を聞き取れず、だんだんと風景がぼやけていってそれで終わり。

 だけど、この日はいつもとは違っていた。

 

『これはな"レース"よ』

 

 レース。多少ノイズ混じりではあったものの、確かにそう言ったように聞こえた。

 

 過去の私はその単語をイマイチ理解できなかったのだろう。視界が僅かに傾いた。

 お爺さんはそれを見て一層笑みを深めると、私のベッド脇のテレビを点けてチャンネルを回し始める。

 

『おう、これや』

 

 言われて視線を向けた先の画面は、砂嵐が吹き荒れて映像がよく見えない。ただ地鳴りのような音と、男性が早口で捲し立てる声だけが聞こえていた。

 

『なんや、"ウマ娘"見るのは初めてか?』

 

 お爺さんのその言葉が聞こえた途端、荒れていた画面は多少不鮮明ながら、色とりどりの勝負服を身に纏ったウマ娘達が、ターフを駆ける映像へと切り替わっていった。

 

『"レース"は"ウマ娘"と"トレーナー"が一つになって競い合って1番を目指す、まあスポーツみたいなもんや。ワシらはそれを見て夢を(もろ)うてるんや』

 

 レースは今や最終直線へと差し掛かっている。

 画面の中の観客の声も一層大きくなり、先程から早口で何やら捲し立てていた男性、恐らくは実況者だろう。その声にも力が入る。

 

『行け! そこや、差せ!』

 

 お爺さんも興奮して声を張り上げる。私も知らず知らずのうちに拳を握り、声を出していた。

 まさに一進一退の攻防の末、何人かのウマ娘が団子になってゴール板を駆け抜ける。

 

『あぁーっ! 何やっとんねや、もう!』

 

 初めて見た私には何がなんだかわからなかったが、お爺さんにはきちんと見分けがついているらしい。頭を掻きむしりながら、大きく声を上げた。どうやらお爺さんの応援していたウマ娘は負けてしまったようだ。

 お爺さんはしばらくグチグチと小言を洩らしていたが、やがて私の方に向き直ると、ニヤリと歯を剥いて笑った。

 

『どや、オモロイやろ?』

 

 私は何度も頷いて返した。

 まるで風のように速く、そしてとても力強く。何者にも縛られずに駆ける彼女達に、私は強く惹かれた。そして彼女達と同じ場所に立ちたいと強く思った。

 

 ここまで見て、ようやく分かった。

 恐らくは、これが私の原点なんだ。

 

 

 

———……本当に? 

 

 

 

 ◆

 

 

「んぬああぁぁぁああぁぁぁっ!」

「くっ……!」

 

 本日三本目となるスカーレットちゃんとのレース。

 ゴール前ギリギリの所でスカーレットちゃんの背中を捉えて、追い越す。ここのところずっと負け続けだったが、なんとか一勝やり返した。

 しかしこうまでお互いの間に実力の差が開いてしまっているとは……。スカーレットちゃんの成長スピードの早さに、末恐ろしい物を感じる。

 膝に手をついて呼吸を整えている私を後目に、スカーレットちゃんは悔しそうに爪を噛んでいた。豊かな栗毛の髪が汗で額に張り付いて、頬も赤く上気しているが、恐ろしい事にそれほど消耗しているように見えない。それどころか、すぐにでももう一本走れそうなぐらいだ。

 

「エルピス、もう一本! 今度は勝ってやるんだから!」

「待って……、もうちょっと休ませて……」

「もう! そんなすぐにへばってたら、本番のレースなんか走れないわよ!」

「本番はこんなに何本も走らないんじゃないかな……」

 

 息も絶え絶えな私を見て、スカーレットちゃんは不満気に口を尖らせる。と言うか、本当にまだ走れる元気があるのすごいね。

 私達が今走った距離は1000m。本格化を迎えていない小学生ウマ娘の走る距離としては、やや長めと言ったところ。それを三本も走っているのだから、体力的には寧ろ充分多いと言っても良いはずなんだけど、スカーレットちゃんはまだまだ不満らしい。

 

「アンタ、そんなのでアタシと一緒にトレセンに行けるの?」

「トレセン行くのは行けると思うよ。ところで、スカーレットちゃんはどこのトレセン行くの?」

 

 やっぱ近い所が良いよね、なんて言う私に、スカーレットちゃんから何を言ってるんだとばかりに呆れたような視線が刺さる。

 

「何言ってるのよ。トレセンって言ったら中央でしょ」

「中央、中央かぁ〜……」

 

 地方と中央のトレセンでは、その規模や設備には天と地程の差がある。当然レース自体の規模も、そこに出走する選手のレベルも月とスッポンである。

 私としてはレースに出られさえすればなんでも良かったので、トレセンも地方を受験するつもりだったんだけど、そうか、スカーレットちゃんは中央を目指しているのか。

 

「中央ってすごいレベル高いんでしょ? 私でも通用するのかな……」

「アンタねぇ。アタシとまともにやりあえるのなんて、この辺りじゃアンタだけなんだから。もっと自信持ちなさいよ」

「う〜ん……」

 

 そもそも中央トレセンなんて地元で負けなし、みたいな子が全国から集まってきて、それでなお勝てず、夢破れて地元に帰っていくなんて事も毎年のようにあると聞く。そんな中に走れればなんでも良いだなんて、そんな中途半端な気持ちの私が入っていけるだろうか。

 まだ及び腰な私の背中を、スカーレットちゃんがバシリと叩く。

 

「もう! 焦ったいわね! 良いわ! 今すぐにでもその気にさせてやるんだから! ほら、スタート位置に立ちなさい!」

「えぇ……」

 

 一方的に捲し立てると、私の返事も聞かずにズンズンとスタートへと向かって歩き出すスカーレットちゃん。その背中をしばし見送ってから、私は一つ溜め息を吐いて立ち上がった。

 スカーレットちゃんはいつもそうだ。私の事情なんてお構いなしに巻き込んで、それでいて文句の一つも言わせてくれない。もう少し私の苦労も考えてくれてもいいと思う。

 

———でも。それでも。

 

「……うん。そうだね。一緒に走れると良いよね、中央でさ」

 

———あの時にそう思ったその気持ちだけは、嘘じゃなかったんだ。

 

 

 ◆

 

 

「まったくもう! トレーナーはさあ! ほんっと信じらんない!」

 

 度を越したスパルタトレーニングから一夜明けて、私はアイちゃんとストリームちゃんと一緒に、カフェテリアで昼食後のデザートにパフェをつつきながらトレーナーへの愚痴をぶちまけていた。

 私の荒れように、アイちゃんは苦笑を浮かべながらコーヒーを啜る。

 

「やっぱり新人さんだと結構あるみたいだね。加減がわからなくてオーバーワーク気味になっちゃうの」

「だとしてもあれだけ自信満々でやっといてあんな事ある!?」

 

 そもそもあれは『気味』どころの話ではない。ガッツリとオーバーワークである。

 私もちゃんとしたトレーナーに見てもらうのは初めてだったから、『大分キツイけど、こんなものなのかな?』とか思ってて言い出せなかったところもあるけれど、普通にやりすぎである。

 

 ……思い返すとなんかまた腹たってきたな。

 パフェを思い切り掬って、口の中に放り込む。甘い。

 

「でもちゃんと距離延長用のトレーニングメニューは組んでくれてるんだろ?」

「……うん」

「じゃあ一回の失敗くらいは大目に見てやんなよ。せっかく無茶に付き合ってくれる人捕まえたんだから」

「……それは、そうなんだけども」

 

 イマイチ納得できずに口籠もる私に、ストリームちゃんは自分の分のケーキに乗った苺をフォークに刺して、スッと口元へと差し出してくる。

 

「ほれ」

「……こんな事で懐柔できるとでも?」

「いらない?」

「……いる」

 

 ストリームちゃんの方へと向き直って口を開けて待ち構えると、その中にそっと優しく苺が差し入れられる。パフェのクリームとは違う、果物特有の自然な甘さと微かな酸味で、口の中がリセットされる。美味しい。

 

「それにさ、契約したばっかりなのにすぐ契約解消、みたいな事になってエルピスの方にも良くない噂出てきたら困るじゃん? すぐにトレーナー契約蹴る気性難とかさ。私ヤだよ? 友達がトレーナーと契約できずにレース出れなくなるの」

「……いや、流石の私もこれだけで契約解消までは……」

「そう? まあ、とにかく。ちゃんとメニューの調整もしてくれるってんだから、あんまり責めるのも良くないと思うよ」

「んむむ……」

 

 そう言われれば、確かにちょっとヒートアップしすぎていた気もしてきた。

 トレーナーだって新人なんだから、失敗の一つや二つはするだろう。それをいちいち責めていたのでは、良好な関係を結ぶことだって難しい。ならばここは一つ、私が寛大な心でもって此度のトレーナーの失敗は大目に見ようではないか。

 そうして私が一人大人の対応を決めていると、不意にアイちゃんが「そう言えば」と声を上げる。

 

「トレーニングって坂路やったんだっけ?」

「そう。もう死ぬほど走らされた。ヤバいよ。終わってすぐまともに立てなかったもん」

 

 実際あの後の念入りなマッサージがなければ、今日も朝から筋肉痛で起き上がれなかった気がする。

 やっぱり走った後のケアって大事だね。

 

「そうなんだ。実はさ、昔スプリンターの先輩が、どうしてもクラシック三冠取りたいって距離延長した事があるらしいんだけど、その時もめちゃくちゃ坂路走ってたらしいよ」

「そうなの!?」

 

 それは普通に初耳だわ。

 じゃあ坂路って距離延長の基本みたいなトレーニングなの? 

 

「その先輩もやっぱりトレーナーと相当揉めたらしくて、結局別のトレーナーの所に移ってからトレーニングする事になったらしいんだけどね。なんと、無敗のままダービーまで勝っちゃったんだって」

「何それすごい」

「ね、すごいよね。それ考えたらエルピスちゃんまだ伸ばす距離短いし、全然できそうな感じしない?」

「今めっちゃしてる」

 

 元々スプリンターからダービーを勝てるまでになるって事は、やっぱり坂路トレーニングは距離延長には必須という事だろうか。トレーナーもちゃんとそこはわかってて私にあれだけ走らせたのか。

 ちょっとやり過ぎただけで方法は間違ってなかったんだ。それならやっぱりあんなに怒ったのはちょっと悪かったかな……。次のトレーニングの時にちゃんと謝ろう。

 

「まあ、最後は菊花賞で同期のめちゃくちゃ強いステイヤーに負けたらしいんだけど。やっぱり最後は元の適正が物を言うんだねぇ」

「なんでそんな事言うの」

 

 私がしみじみと感傷に浸っていたら、アイちゃんが空気をぶち壊す情報を投げつけてきてちょっと萎えた。

 今から距離延長してクラシック挑もうとしてるヤツに向かって、なんて事を言うんだこの娘は。

 

 しかし希望は見えた。

 私だって元々中距離が走れない訳ではない。ちょっと最後までスタミナが保たないだけで、走り切る事自体はできるのだ。

 その最後、ほんのちょっとのスタミナを伸ばすだけなら、そう難しい事はないはずだ。

 

 その最後の一押しさえできれば……。

 

 余計なことを言うアイちゃんの頬を摘んで伸ばしながら、私は来るトレーニングに思いを馳せた。




エタらないようにはしたいです。
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