「神」は人々に無償の愛を授けると言う。
しかし、無償の愛は愛される者にしか与えられない。愛されるべき者にしか受け取れない。かねてから、そういうものなのだ。
愛は汚泥だ。
拭えぬ穢れこそ本質。
打算的で、悪逆に満ちている。
愛は祝福だ。
魂の浄化と救済。
純粋で、聖なる休息を授ける。
人は愛のために生き、愛のために死ぬ。
人は愛のために癒し、愛のために殺す。
人は愛のために与え、愛のために奪う。
人は愛のために祈り、愛のために呪う。
その矛盾こそ、愛を愛足らしめる。
――ああ、だからこそ愛は斯くも美しい。
***
暗く寒い空間。
ぽとりぽとり、と水滴の落ちる音が聞こえる。
見上げると氷柱状に垂れ下がる鍾乳石が見えた。辺りには石筍が並び立ち、息詰まるような雰囲気を醸し出している。
俺はいつの間にか鍾乳洞の中に立っていた。
どうしてここにいるのか。いつここに来たのか。何一つ分からない。ただ、フィルターがかかったような不快感が胸に残った。俺はその思いに蓋をして、深呼吸をひとつ。そうして、気持ちを切り替える。
大丈夫。少し驚いたが、それだけだ。何故なら、俺は
歩き出す。
出口なら既に分かっている。何度も通った道だ。その足取りに迷いなどなかった。地面が濡れ、滑りやすくなっている。強く踏み締めながら確実に一歩一歩前に進む。
――カラン。
後ろから、乾いた音がした。その音は洞窟に反響して、ゆっくり消えていく。
――カラン
ああ、これは蹄……いや、下駄の音だ。
そう思った瞬間、俺は振り向いていた。
腰まで伸びた黒髪が揺れる。着物姿の退廃的な美しさを持つ少女、安藤静代……俺の妹がそこに佇んでいた。
「兄さん」
呼ばれて、俺はこれが夢なのだと理解した。
「ふふっ、ああ、おかしい」
静代は俺の顔を見て、目を細めた。笑っているくせに、楽しそうには見えなかった。くすくすと声を漏らし続ける静代の表情をただ見続ける。妹の考えが全く読み取れない。
「静代はどうして――ーー」
そこまで言ってて、口を閉じる。
どうして俺の夢に出てくるのか。何故夢の続きを望んでいるのか。お前はここに、ストーンハーストに存在しているのか。
いや、そんなことを聞いてどうする。答えを聞いても何もできない。俺は、何もしてやれない。
「……どうして、私が今更兄さんの夢に現れるのか。何故私が夢の続きを見たがっているのか。私が現実に存在しているのか。兄さんは、そう言いたいのでしょう?」
「―――ッ」
「兄さん、そんなこと決まっています。私がそうしたかったから。そう願ったから。兄さんの側に居たかったから。たったそれだけのことなのですよ。ふふっ、ねぇ兄さん、そのような声を出して、驚いてしまいましたか? いいえ……驚いてなどいない、ですよね?」
「そんなことない。十分、驚いてるさ」
「兄さんの嘘つき。……本当は前から分かっていた癖に。私、兄さんのことずっと見ていましたから、知っています」
静代は真っ直ぐ俺を見詰める。その視線に耐えきれなくて、目を伏せ後退った。ずっと見ていたなんて、不可能だ。だって――ーー
「静代、お前はもう――ーー」
「「死んでいるのに」」
声が重なった。
俺は顔を上げて、静代を見た。静代はほんの一瞬だけ、身体を強張らせた。しかし、直ぐに力を抜き、何でもないとでも言うように頬にかかる髪を払った。
「私、止めたのです」
「止め、た?」
「はい。止めました。……待つことを、止めました」
「……えっ?」
「兄さんは、歩みを止めない人だから。私を置いていってしまう人だから。あの時、私は兄さんに嫌われたくなくて、ただ待つことしかできなかった。だから、ずっと待って、待って待って待って待って……そうして、全てを失った。だから、もう止めたの」
静代は言葉を続ける。今まで我慢してきたもの全てをぶちまけるかのよう、ただひたすらに。
「だから、ここに居る。夢の続きを見るために。兄さんと、一緒になるために」
「なぁ、静代。そんなこと間違ってる。許されちゃ駄目なことなんだ。お前が望んでも、そうなってしまえば不幸になる。兄貴として、俺はお前に普通の幸せを手に入れてほしい。村のために縛られないで、もっと自由に生きてほしい。それだけを思って俺はっ!」
俺の叫びを聞いて、静代は嗤った。
「……兄さんは、いつも勝手に私の幸せを決めるのですね」
その言葉に、絶句する。
そんなこと、ない。俺は―――ー
「でも、私はそれで良いと思っていました。兄さんが死んだ私を想い、生きてくださるなら。ずっと一緒にいてくださるなら、それでも良いと。そう、思っていたのにっ」
「し、ずよ……」
「兄さんは私を置いていこうとした。私の想いさえ、両胡村に置いていこうとした。……だから、先程申しましたでしょう? 私は、待つことを止めたと」
胸が疼く。
息が苦しい。
血液が沸騰する。
意識が遠くなる。
視界が光に包まれる。
目覚めが近い。
「ふふ、ふふふっ、兄さん、もう少しです。あと、もう少しですから、今度は兄さんが私を待っていてくださいね」
静代の声が耳を抜けて消えた。