「――――っ!?」
声にもならない悲鳴を上げ、反射的にベットから起き上がる。遅れて、自身が夢から覚めたことに気が付いた。額に伝う汗拭いもせずに、呆然する。まだ夜が明けていない。視界は闇で包まれていた。
悪夢だった。
そう……あれは悪夢だ。
それ以外の何ものではない。いや、そうでなければならない。
ストーンハーストに来てからというもの、夢ばかり見る。それだけならまだしも、その間隔がどんどん狭くなっているのだ。夢が現実を侵食している。それとも、現実自体が夢なのか。混乱する脳が悲鳴を上げた。
ノイズが走りざらつく思考。不快なほど乾ききった口内。寒くないはずなのに、心底寒いと感じる身体。それを自覚して、小さくため息を吐き目を瞑る。
――ーー俺は正気だ。
それは自身に言い聞かせる言葉であり、嗜める言葉でもあった。
「……あんでぃ、さま?」
俺の名前を呼ぶ少女のあどけない声。強張った身体が急激に弛緩する。
「アマル……」
「あんでぃさま、どうされました?」
「ああ、ちょっと夢見が悪かっただけだよ。起こしちゃってごめんな」
「……そう、また悪夢を見たのですね」
アマルは俺の言葉を聞いて、上半身を起こした。そして、俺のことを抱き締めてくれた。暗闇の中で彼女の表情は伺い知れない。それでもその優しい包容に心が温かくなる。
「大丈夫です。アンディ様のお側にはこのアマルが居ます」
「アマル」
「だから、どうか安心して下さい」
「ああ、ありがとう」
アマルの柔らかい身体を抱き締め返す。そして、アマルの首元に顔を埋める。仄かな薔薇の香りが鼻腔を擽った。安心する薫りだ。
少女は俺の背中を数回撫でて、軽く肩を押し寝かそうとする。俺はそれに逆らないで、ベットに身体を預けた。
「アンディ様。アンディ様。誰よりも尊き、私のアンディ様」
俺の名前をアマルは何度も口ずさむ。
「……悪夢が貴方様を苛み傷付け犯すなら、私が癒し守り抱きましょう。私の前では生者も死者も等しく裁かれる。罪なき者には油を注ぎ、害ある者には鉄槌を下す。何人もそれから逃れられぬ。故に、私は願い、私は祈る。私は尊び、私は歌う。地を這うものに赦しあれ、空を見上げるものに救いあれ。ーーああ、貴方様こそ聖なるお方。その魂に祝福を」
聖歌を歌うよう厳かな口調。感情など一切込められていない。虚無にして、無機質。何より、朗々と唱えられたものは初めて耳にする言葉だった。
「アマル、なんだそれ?」
「悪夢を破るおまじないです。……それとも、もっと違う方法をご希望でしたか?」
「違う方法?」
「ふふっ、こうするのです」
アマルは俺に覆い被さり、ぺろりと俺の唇を舐めた。それから彼女は確かめるようにバードキスを繰り返す。数分して、ぬるりと舌を入ってくる。歯茎を丁寧に舐め尽くし、舌を絡め、ずるずると唾液を吸われる。15歳の少女だと思えないその手練は、あまりにも淫らだった。
「ふうっ、はっ、ああ、アンディ様」
興奮気味に何度も浅く息を吐いて、アマルはその細く小さな手で俺の胸元を愛撫する。そして、その手は徐々に下半身へと向かっていく。
「はぁ、違う方法ってこれかよ。このどスケベいやら
「そのようなご無体なことをおっしゃらないでください。そもそも、アンディ様が私をそのように育てたのではありませんか。だって、褥のことは貴方様が全て私に教えてくださったでしょう? ……それこそ手取り足取りすみからすみまで。ふふっ、アマルを女にした責任、取って下さいね」
俺が言葉を発する前に、口を塞がれる。否定の言葉を端から聞くつもりはないようだった。アマルの舌が傍若無人に口内をかき回した。その激しさに、息継することさえできない。
「ん、っは、ちゅっ、悪夢などアマルが忘れさせて差し上げます。……そう、全て」
ねっとりとした甘い声が、俺の耳を擽った。
***
中庭に生える木に背中を預け座り、青空を見上げていた。木漏れ日が揺れ、さらさらとした葉っぱの擦れる音がする。
「……やぁ、黒君」
声のした方に視線を向けると、赤みがかった茶髪の男性が立っていた。彼はシメオン・ガラティア、ストーンハーストの修道士である。あい変わらず、朗らかで優しげな雰囲気を見に纏っている。図書館の司書をしてそうな感じ。
「こんにちは、シメオンさん」
「うん。こんにちは、黒君。日向ぼっこかい?」
「はい。そんなところです」
「今日は天気が良いからね。確かに日向ぼっこ日和だ」
シメオンさんは空を仰いで、眩しげに目を細めた。それから、ふわりと微笑む。
「隣、良いかい?」
「ええ、勿論です。どうぞ」
「ありがとう」
シメオンさんはそっと俺の隣に腰かけた。ふう、溜まったものを吐くように息をついた。
「ああ、これは気持ち良い。心が洗われるようだ」
「そうですね」
小さく相槌を打つ。わかりみが深い。
ふたりで30分程何でもない話を続けていると、途中シメオンさんの言葉が急に止まった。俺の顔をじっと見詰めて、シメオンさんは首を微かに傾ける。
「……あれ、黒君。今まで気付かなかったけど、目に隈ができているね。どうしたんだい?」
「えっ、あ、はい。夜あまり寝れなかったし、それに疲れてちょっと腰が重いんです」
咄嗟に本当のことを口にしてしまった。昨晩、アマルとのアレが激しく寝れてない上に、頑張りすぎて腰が重いなんて、シメオンさんには絶対に言えないはずなのに。
「労働力がひとり減った分、黒君が頑張ってくれているから、余計に負担がかかっちゃったのかもしれないね。そう言うことなら、今日はゆっくりすると良い。なに、遠慮はいらないさ。神は人に休息を与えてくれる。大手を振るって休んでくれたまえ」
「色々と何かもうすいません」
いたたまれない。こんな気持ち良い昼間なのに、心が殺されそうだった。
――ーーそこまで考えて、ふと違和感に気付く。
「……ひとり減った分? シメオンさん、誰かこのストーンハーストを出ていった人がいるんですか?」
俺の質問に、シメオンさんは微かに、本当に微かに瞳を揺らした。それも一瞬で、彼はにっこりと微笑む。どこか歪さを感じさせる笑みだった。
「ああ、ニールセン修道士がね。ちょっと前に、巡礼の旅に出たんだよ」
「……サルスが?」
「うん、そうだよ」
「それはいつの話ですか?」
「――そうだね。大体3ヶ月ほど前かな」
「3ヶ月前……」
確かに最近あいつの姿を見ていなかった。でも、サルスが巡礼の旅に出るためここを離れたなんて、あり得ない。
何故なら、修道士たちは制約に縛られている。その制約があるかぎり、彼らはこのストーンハーストを出れないはずなのだ。
サルスが制約に対して否定的であることは、あの晩盗み聞きをしたから知ってはいる。だが、ベネディクト修道司祭を差し置いて、サルスがそんな軽率な行動を取るとは思えない。
――ーーじゃあ、サルスはいったいどこへ消えた?
その問いをシメオンさんに、投げ掛けることを俺はついぞすることはなかった。……することができなかった。