廊下を歩く。
石畳を鳴らす無機質な音が反響する。コツコツと響くその音の間隔の狭さから、自分がどれほど焦っているのかが分かる。
薄暗い修道院から出て、薬草畑を抜ける。葡萄畑を横切り、醸造所をへと歩みを進めた。
醸造所の側にある井戸まで来て、ほっと息を吐く。ここなら、醸造所が壁になり、人目につくことはないだろう。そう思うと一気に身体の力が抜けた。
シメオンさんと別れて、逃げるように……いや、実際俺は逃げて来た。あの重苦しい場所から、シメオンさんが一瞬見せたあの薄暗い瞳から、ただ逃げて来たのだ。
井戸から水を汲み出す。
桶にはった水を見つめて、その水面に生気の薄い瞳をした酷薄な表情の男が映っていることに驚いた。一拍置いて、それが自分自身であることに気付き、更に動揺する。
「……全く酷い顔だな、お前」
自身に語りかける。
返答なんて求めていない。どんなに求めても返ってこない。だけど、そう話しかけずにはいられなかった。情けない。どうしようもないぐらい救いようがない。
くそったれ、と悪態をつく。そして、もう一度くそったれと呟いた。一度目は自分に向けて、そして二度目はこの
ああ、恨むぞ神様。アンタの創ったこの世界は優しさの欠片もない失敗作だ。何が楽しくてこんな世界を創造したんだ。
崇高なる理想のためか、尽きぬ博愛のためか、それとも単なる暇潰しか。暇潰しだとしたら、人が争い嘆き笑って泣くのを眺めて無邪気に楽しんでいるんだろう? この悪趣味な碌でなし!
修道士たちが聞いたら、卒倒してしまうほどの罵倒を頭の中で繰り返す。そして、今度は神様にまで八つ当たりをかます罰当たりな自分に舌打ちする。
頭を手で乱暴にかき回す。冷静になれ。振りきるように、桶に勢い良く顔をつけこんだ。井戸水は驚くほど冷たい。だが、逆に俺の心を落ち着かせた。
――――逃げるな、安藤隆。
守るって、決めたなら最後まで足掻け。お前はもう二度と後悔はしたくないんだろう? なら、誰でもなく、自身の手でその役目を果たせ。
「……求めよ。さらば、与えられる。探せ。さらば、見つかる。門を叩け。さらば開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者には開かれる」
マタイの福音書の言葉を口ずさむ。これは自ら行動しない者には何一つ得られない、という至極当然の帰結を長ったらしく説いた言葉である。だが、そんな当たり前の言葉だからこそ、何よりも真っ直ぐ心に響く。
「まぁ、行動するって言っても、正直分からんことだらけでどうしたら良いやら。ああ、いや、うん。そうだな……今までのことを自分なりに整理してみるか」
濡れる髪を後ろに撫でつけ、井戸の縁に腰掛けた。
***
(――まず、俺がこのストーンハーストに迷い込んだ原因についてだが)
おそらく、何らかの形で静代が関与しているのだろう。俺が見た夢の内容を信じるならば、静代が俺と一緒になることを望んでいることがそもそもの根本にある。
ずっと目を反らしていた。でも、ちゃんと向き合わなければ前に進めない。俺は押し潰されそうになる気持ちを奮い立たせる。
……はっきり言おう。
静代は俺に対して強い執着を抱いている。それは親愛などの日溜まりのような暖かい想いではない。死してなお、燃え滾る底がない深淵のような…………恋情だ。
俺は静代を妹として見て、静代は俺のことを男として見ていた。ただそれだけ。そう、それだけの話だった。
どくり。
どくり。
どくり。
ぐっと、右手で脈動する心臓を押さえ付ける。
大きく息を吸ってから、吐く。それを何度も繰り返す。無意識に強く握った左手を弛め、大丈夫だと自分に言い聞かせた。
そもそも、死者である静代がどうやって俺に干渉できたのか。
それについては、「このストーンハーストが生と死が交わる場所であるからだ」というヨハンナの考えを一旦採用するとしよう。
曰く、ここが人が生活を営む世界でもあると同時に、世俗から隔離された異界である。その曖昧な境界を越えて死者が生者に接触できる。
そこまで考えて、俺は妙な引っ掛かりを覚えた。
(……ん、あれ? 待て待て、待てよ。それで言うと、両胡村もその条件を満たしていることにならないか)
深い山々に囲まれ外界から遮断された村。そして、その中で生活する人々。つまり、両胡村も生と死が交わる場所。だからこそ、
――ーーでも、と思う。
俺は一度村を出たはずだ。山を降り電車に乗り、眠りについて、気が付けば礼拝堂で倒れていた。両胡村からここに来た訳じゃない。
(……山を降りた。それは本当に現実なのか?)
山で聞いた耳鳴り。聞こえた静代の声。あの時点で、俺は異界へと誘われていたとしたら? 山を降りたこと自体が夢で、本当は山を降りてなどいなかった。知らずして俺は異界へ迷い込んだ、神隠しにあった。そう考えると、こじつけかもしれないが説明がつくような気がする。
後は、静代が俺をこのストーンハーストに連れてきたのかという問題だ。もっと踏み込んで言うと、何故
その理由については、正直全く検討が付かない。偶々なのか、それとも何らかの繋がりがあるのか。……分からないことをずっと悩んでも仕方ないので、これは一旦置いておくことにしよう。
(……全くどこからどこまで現実で、どこからどこまでが夢なのやら)
現実が夢なのか。
夢が現実なのか。
考えれば考える程分からなくなる。たが、そんなこと些細なことだ。何より重要なのは、これが現実だろうが夢だろうが、悩み考え苦しむ俺は、確かに今ここに存在しているということだ。
まさに、
自分を強く持たねば、きっと負けてしまう。大切なものを取り零さないように、俺はそっと自身の震える指先を握った。