聖者の牢獄   作:桂太郎(テムヒ)

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叡知の堕落

 

 

 

 

 

 巡礼棟の階段を昇る。

 

 石床を蹴る無機質な音が妙に耳に残る。

 はぁ、と溜め息が漏れた。そして思わず溜め息をついてしまった自身に何とも言えない気分になる。それでも、歩みを止めない。いや、そうしざるを得ないと言うべきか。

 

 足が重い。

 

 どうしようもなく、重い。

 

 一歩、また一歩と、遅緩としてた動作で足を踏み出す。これは慢性的な疲労からくる重さではなく、精神的な要因からくる重さなのだろう。

 

「……ああ、憂鬱だ」

 

 ただ、その一言につきた。

 気分を落ち着かせるため、深呼吸してみる。湿った埃っぽい空気が一気に肺へ流れ込み、むせた。

 

「こほっ、ぐふ、げほっ。……ふっ、は、く、クソっ!」

 

 反射的に浮かんだ涙を乱暴に拭いて、自分に向け罵倒する。ヒューヒュー、と弱々しい喘鳴が石壁に吸い込まれて消えていく。左胸に手を置いて、服の上から心臓を握りしめた。激しく踊る心音は、自分の間抜けさを浮き彫りにするようだった。更に惨めな気持ちになる。本当に誰も見ていなくて良かった。誰かに見られていたら羞恥心で死ぬ。

 

「…………っすぅ」

 

 今度は失敗しないように浅く息を吸って、呼吸を整えてから再び階段を昇る。階段の先を見上げると、窓から夕日が差し込んでいた。もう少しで夜が来る。

 

 

 

 ――ーー夜がやって来る。

 

 

 血をぶちまけたような赤黒い世界。

 

 どくりどくり、と心臓が嬉しげに踊った。

 

 ああ、楽しい。楽しいなぁ。

 

 おいでと、()()が手を差し出した。つられて、俺は黄昏に手を伸ばす。ただ、その先にある何かを見たいと思った。それは玩具を前にした子どものような、いっそ羨ましくなるほど無邪気な情動だった。

 

 果たして、ソレの手を取ることが、正しい行動なのか。俺にはもう分からない。分かりたいとも思わない。理解したとして、どうせろくな結果にならないことは目に見えている。全てを知ることに満足を得ることはできても、幸福を得ることはできない。

 

 知らないということは、無駄な重荷を背負わなくても良いということと同義だ。だから、俺は今も昔もそうしてきた。知りたいと願っても、実際に知ろうと努力はしてこなかった。何一つ背負わないでいたかったから、常に逃げ道を探していた。

 

 一歩足を踏み出だしても、歩みを進めない。同じ場所にずっと立っている。ストーンハーストに来てもう1年半以上経っているのに、答えにたどり着けないのは、一重に俺がそう望んだからに他ならない。

 

 

 だから、もうこんなこと終わりにしないといけない。そうだ……終わりにしなければーーーー

 

 

 ――ーーカラン。

 

 

 乾いた音が鳴った。

 

 

 君はそのまま白痴であれ、と揺らめく影が蠢き嗤った。

 

 

 

 

(……あれ、俺は今一体何を考えていたんだっけ?)

 

 

 

 

 我に帰り顔を上げると、古びた木製の扉がすぐ目の前にあった。いつの間にか、俺は目的の場所へとたどり着いていたようだ。

 

 頬を軽く叩き、気合いを入れてから数回ノックする。少しして「どうぞ」と今にも消え去りそうな弱々しい声が扉の向こうから聞こえてきた。

 

「お邪魔します」

 

 一声かけてから、扉を開け中に入る。そして、ベッドに腰かけている女性へと視線を向けた。

 

「アンドリュー様。今日も来て下さったのですね」

 

「勿論ですよ。そもそもソフィアさんは俺がいないと寝れないだろ?」

 

「そう、ですね。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 

「いや、良いんですよ。困った時はお互い様ですから」

 

「……はい、ありがとうございます」

 

 俺の言葉に、ソフィアさんは淡く微笑んだ。申し訳なさそうな彼女の表情を見て、とてつもない罪悪感を感じてしまう。

 

 違うんだソフィアさん。別に俺はソフィアさんと会うことが嫌な訳じゃない。迷惑とも思っていない。ただ、これが終わった後のアマルとのやり取りが憂鬱なだけなんだ。

 

 ソフィアさんに会った後、部屋に戻ってアマルに会うと必ず嫉妬し、アマル栗鼠状態になり拗ねる。そこから機嫌を直すのが大変なのだ。毎日こうなのだから、流石に疲れてしまう。

 

 アマルは本質的に情が深い女だ。問題なのは、その情が常に俺に対してのみ向けられているということだ。彼女の愛は深淵。底がなくどこまでもいつまでも落ちていく。

 

 頭を掻いて、思考を切り替える。

 

「ソフィアさん、身体は大丈夫?」

 

「ええ、アンドリュー様が居てくださいますから大丈夫ですわ」

 

「そっか、安心した。まぁ、でも無理は良くないよ。横になって、寝るまでいつものように側にいるから」

 

「はい……」

 

 ソフィアさんの肩を優しく押す。彼女は抵抗なくベットに横たわった。柔らかな茶髪が布団に広がる。頬にかかった髪を払って、凹凸の少ないほっそりとした身体に布団をかけてあげる。

 

「ソフィアさん、寒くない?」

 

 こくり、とソフィアさんは小さく頷く。

 

 たれ目がちな瞳は、虚ろに天井を見詰めている。早々、眠気に襲われているのだろう。

 

「アンドリュー様。ああ、手を……手を握って、下さいますか?」

 

「ああ、良いよ」

 

 差し出された細く小さい手を握る。ソフィアさんは綺麗な桃色の唇を緩めた。安心しきった無防備な表情だ。

 

「アンドリュー様」

 

「うん」

 

「ずっと、握っていてください」

 

「ああ、勿論。ソフィアさんが寝付くまで握っているから」

 

「怖いの。アンドリュー様が、いないと、怖い夢を見るから」

 

「怖い夢?」

 

「ええ、とても、とても、こわいゆめ……」

 

「ソフィアさん?」

 

「あんどう、りゅうさま。こわい」

 

 そう言って、ソフィアさんは俺の手を引いた。咄嗟のことで抵抗できず俺はソフィアさんに覆い被さるように倒れてしまった。起き上がろうとするが、強い力で抱き締められる。様子がおかしい。

 

「ソフィアさん、離してくれ。一体、どうしたんだ?」

 

「わたしは、わたしなのに。ちがう。はいってくる。みたそうとする。こわい。みられて、きかれて、はなしかけられて。わたしが、わたし、が。ああ、あなた、あなたが。わからないの。……わたし(あなた)はだぁれ?」

 

 俺の声は彼女に届いていない。

 

 ただ独り言、いや寝言なのだろう。どうにか抜け出そうと身体を捩る。だが、ソフィアさんはそれを許してはくれない。

 

「ソフィアさっ……んンッ!?」

 

 強引に顔を引き寄せられ噛みつくように、唇を奪われた。身動ぎできない。舌が口内に侵入し、蹂躙される。ぴちゃりぴちゃりと、粘りけのある淫靡な音が耳を犯した。

 

 どれだけ口付けをされていたのか、分からない。気が付けば、日は落ち室内は暗闇に包まれていた。

 

 

『Calix Dea』

 

 

 ぼんやりとした意識の中で、俺は誰かの言葉を聞いた。

 

 

 

 

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