二度と戻れない場所、追憶の彼方、微睡む星雲の先の先。
ああ、母よ。
あるいは、我が半身よ。
貴女は、まだそこにいるのだろうか。
***
何処までも沈んでいく深淵。
それはまさにアマルのふにふにと柔らかい胸のことである、と寝惚けた頭で俺はロクでもないことを考えていた。
仕方がない。だって、目覚めるとアマルに抱き寄せられ、胸を押し付けられたのだ。つまり、俺は豊かなアマルの胸に絶賛甘やかされ中なのである。
(……字面を並べると何とも情けない男だな、俺)
げんなりと肩を落とす。そうこうしていると、ちゅっ、とリップ音が聞こえた。旋毛にキスをされらしい。俺、お前の一回り年上なんだけど。駄目男製造機とはアマルのような女を指すのだろう。まぁ、悪い気はしないけど。
仄かな薔薇の香り。ああ、落ち着く。このまま二度寝してやろうか。そこまで思って違和感を感じた。
――――どくり、どくり、どくり、どくり。
アマルの心拍がかなり早い。どこか蠢くような心音が繰り返される。緊張しているのか身体も強張っている。慌てて胸から顔を上げた。
「……アマル?」
彼女は張り詰めた表情で虚空を睨み付けていた。血が抜けたような青白い肌。それに相反して、燃え上がる鮮血色の瞳。
「何だか顔色が悪いぞ、アマル。大丈夫か?」
ふっ、と息を浅く吐く音。優しく髪を撫でられる。
「――ええ、はい。勿論、大丈夫ですよ」
「本当か?」
「アンディ様、私は貴方様を謀るはずがございません」
穏やかにアマルは微笑んだ。その表情に俺は奇妙なほど既視感を抱く。気に入らない。思わず、手に力が籠る。
「そうだな。お前は俺を絶対に偽らない。でも、自分自身のことはその限りじゃない」
アマルは目を見張った。
「お前は俺だけじゃなくて、もっと自分のことを大切にすべきだ。アマル、お前はいつも自分のことを勘定に入れていないだろう? 自分の体調が悪くても俺ばかり優先して、甘やかして、まるで―――ー」
――――静代みたいだ。
「っ、あ……ッ」
思わず口を押さえる。俺は何を言おうとした。
『兄さんが嬉しいなら、静代も嬉しいです。兄さんが喜んでくれるなら、静代は何だってします。……そう、何だって』
脳裏に響いた静代の声。
自分のことはいつだって後回し。小さな頃から静代はそうだった。自分がどんなに体調が悪い時でも、俺の世話を怠らない。あまつさえ自分のお菓子や玩具、お気に入りの物、全て俺に譲って穏やかに微笑むのだ。
俺はそれが嫌だった。当たり前に自分を切り捨て、幸せだと笑うその姿があまりにも痛々しくて辛かったのだ。
安藤家の双子の妹は、兄に仕え跡継ぎを孕み育てる。それが定めだと言う家も世間もおかしい。どうしようもなく狂っている。
――ー―そんなの本当の幸せなんかじゃない。
『……兄さんは、いつも勝手に私の幸せを決めるのですね』
静代の言葉が聞こえた気がした。どろりとした粘着質の感情。それはどこまでも冒涜的な響きだった。
「アンディ様?」
不安げなアマルの声。
駄目だ。落ち着け。ロザリオを握る。そうすると、不思議と心が凪ぐ。既に癖になったロザリオを握る動作。ロザリオの感触を確かめてたから、意識して眉間を和らげた。
「まぁ、なんだ……」
誤魔化すように今度は俺からアマルを抱き寄せる。そうすると、アマルはぐりぐりと身体を擦りつけてきた。そのすぐマーキングする癖はどうにかならないのか、と思わず苦笑する。
「俺はお前が心配だってこと。だから、あんまり無理してくれるなよ」
「ああ、アンディ様。私の主、私の光、私の全て。こんな私を案じてくださる。……なんて、お優しいお方」
きゅうん。甘え息を漏らすアマル。子犬か。
「俺はお前の彼氏なんだから、その、あれだ。しんどくなったら言えよ。抱え込んだら許さないからな」
自分で言いながら、気恥ずかしくて死んでしまいそうになった。真っ赤になった情けない顔を見せないように、更にアマルを強く抱き締めた。
こんなこと言うはずじゃなかったんだが、なぜだろう。そうしないといけないと思った。アマルと一緒にいることは、間違いなんかじゃない。そう思わないと、また俺は……。
「分かったか、アマル」
「はい。はいっ! アンディ様」
嬉しそうに何度も頷くアマル。本当に分かってるんだろうな? 一抹の不安を覚えながら、俺は視線を上げ、アマルが見詰めていた場所を眺めた。そこにはいつもの部屋の光景が広がっていた。
アマルは一体何を見ていたのだろうか。
あの鮮血色の瞳で。
ーーーーゆらりと、影が棚引いた。
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