聖者の牢獄   作:桂太郎(テムヒ)

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声にならない悲鳴

 

 

 

「――――く、どの。しっかり、気を強く持ちなさいっ! ああ……と、共鳴してしまっているのか。いや、黒殿……っ、駄目だ。白痴の悪夢にのまれてはいけないっ!」

 

 声が聞こえる。

 

 ひんやりと冷たい手が、俺の頬を何度も撫でた。少し固い掌。気高く、強く、優しい彼女らしい手だった。

 

「黒殿、見てはいけない。聞いてはいけない。話してはいけない。それに隙を与えるなっ! ああ、どうか、貴殿だけは……貴方のままでいて。駄目だ。行かないで。私を置いて行かないで。お願い、だからーーー」

 

 悲痛な叫びが反響する。

 

 ぽたり、と水滴が頬に落ち流れて消えた。泣いているのか。……ああ泣いて、くれているのか。

 

 どうしてだろう、と思った。どうして、お前は俺にそこまでしてくれるんだ。

 答えなんて俺には分からない。分かったとしても、自分には返せるものはないかもしれない。

 

「黒殿……目を覚ましてくれ」

 

 彼女は俺に声をかけ続ける。最初から抗うことを選ばず、逃げることしかできなかった俺には、彼女があまりにも眩しい。

 

 お前の方が、自身のことは省みず、誰かのために悩み、誰かのために苦しみ、誰かのために足掻いているだろう。それは笑ってしまうほど不恰好で、不器用な生き方だ。

 

 また、頭を撫でられた。

 

 手が冷たい人は、心が温かいらしい。それが本当かどうか俺には分からないけれど、少なくとも彼女は俺にとって誰よりも温かった。

 

(起きないといけない。待ってくれてる。俺を望んでくれている。でも――――)

 

 目を開ける。それだけの動作が、酷く重い。目を覚ますことに、得体の知らない恐ろしさを感じる。

 

 ――――このまま寝てしまえ。

 

 心がざわめく。

 

 身を任せ、深い眠りにつくが良い。それが、救いだ。それだけが、救いだ。

 

 忘れたかったのだろう?

 

 妹を捨て、故郷を出た罪悪感を。

 

 赦されたかったのだろう?

 

 妹をひとりで死なせてしまったことを。

 

 影が囁く。 

 

 思考など不要だ。

 

 何も考えず受け入れれば良い。

 

 今までと同じく、考えないように歩めば良い。

 

 そうして、ずっと逃げれば良い。

 

 何も考えずただ逃げれば良い。

 

 何を躊躇している? 

 

 お前はいつもそうしてきただろう? 

 

 否定しようと、口を開く。しかし、言葉が紡げなかった。逃げて逃げて逃げて。そうして、俺はここにいる。それは誤魔化しきれない事実だったからだ。

 

 息ができない。いや、息をしたくない。ここで終わってしまおうか。己の存在を肯定できない時点で、俺はどうしようもない人間なのだ。俺は、もう生きる意味がない。終わるべき存在なのだ。

 

 そうだ。

 

 だから、身を任せたまえよ。

 

 ペレグリヌス、外から来る者。

 

 (から)の器。

 

 (カエルム)の器。

 

 その身を私に任せたまえよ。     

 

 頭に声が反響する。

 

 もう少し、そう後少し。

 

 我らはひとつ。ひとつは我ら。

 

 そう、ひとつに、なるのだ。

 

(ああ、そうか。俺はそのために……ここ、ストーンハーストへ)

 

 再び眠りにつくために身体の力を抜こうとして、強く引き寄せられギュっと抱き締められた。微かな檸檬の香りが鼻腔を擽る。

 

「……貴殿の(しがらみ)が何なのか、私には分からない。貴殿の苦しみも理解してあげられない。私は貴殿の悲しみに寄り添うことはできない。だって、貴殿は元より救いを求めてなどいないだろう」

 

 どくり、と心臓が跳ねる。

 

「貴殿は――ー貴方は誰よりも優しい人だから、いつまでも自分を責め続けるのね。救いなどいらない。祈りなんて求めない。そう、思って生きている。死を願いながら生きている」

 

「…………ッ」

 

「黒殿、貴方はただ裁かれたいのでしょう? 他の誰でもなく、貴方の心に楔を残したその人に、自身を裁いて欲しいのでしょう?」

 

 声にならない悲鳴が空気を震わせた。

 

 

 

 




彼女は、誰よりも不器用で。誰よりも優しい。だからこそ、誰よりも報われない。
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