「出会って1年以上たっているにもかかわらず、私のことを何も知らない、と以前私に貴方は言いましたね。分かる。分かるよ。確かにそうだ」
彼女は静かに語りかける。
「しかし、それは私も同じこと。貴方は、気付いているだろうか。私は貴方のことを何も知らない。故郷や生い立ちも何もかも知らない。それは、貴方が私に何ひとつ語ってはくれないからだよ。……不平等だとは、思わないか?」
その言葉に、嫌悪や怒りの感情は一切見付けられない。きっと、不平等だと言いながらも、俺を責めている訳ではないのだろう。だって、彼女の声はこんなにも柔らかく優しい。だからこそ、苦しい。
「そんな顔をするな。別にそれで良いんだ。不平等でも、良いんだ。得てして、この世は不平等で不条理なように創られている。だから、何も気にすることはない。貴方は何も間違ってはいないよ」
言い聞かせるように彼女は呟く。それは、俺に対してなのか。自分自身に対してなのか。それとも、両方なのか。
彼女は俺の頬を撫で続ける。
「あの方に関わらない方が身のためだ、と貴方は早い段階で気付いていはずだ。ベネディクト修道司祭も忠告しただろう。……それでも、貴方は逃げなかった」
逃げなかったのではない。放っておけなかったんだ。アマルを独りにできなかった。そうしては、いけないと思った。
―――だって、アマルが静代に似ていたから。
俺が置き去った妹に、どこか似ていたから。もう、見捨てることはしたくなかった。俺はアマルを救い守ることで、罪滅ぼしをしたかったのだ。それは、どこまでもひとりよがりな代償行為だった。
……俺は、なんて救いようがない愚か者だ。
「随分前に、貴方は故人の夢を見た、と私に話してくれたな。あのときの私は、貴方をできるだけ危険から遠ざけたくて、曖昧な言葉しか言わなかった。いや、言いたくなかったのだ。このストーンハーストでは、夢とは特別な意味を持つ……意味のない夢などあり得ない、と」
そう、あり得ないんだよ、と彼女は再度呟いた。懺悔のような呟き。しかし、赦されたいとヨハンナは決して思っていないのだろう。
「貴方に…………」
ヨハンナは俺の首にかけたロザリオを握る。
「貴方に故人が会いたいと願っているのだろう、と私が答えたとき自身がどういう表情を浮かべていたか、貴方は気付いていたか?」
ヨハンナはそう言って、身を固くした。きっと、この後に続く言葉は、俺にとって厳しいものなのだろう。だから、彼女は俺の心を慮って躊躇しているのだ。
それでも……それでも、ヨハンナは言葉を発した。
「……貴方は、微笑んでいたよ」
その声音は、身を切るような苦しみを孕んでいた。
ああ、お前が自身を犠牲にする女の子だって知っていたさ。異邦の地に馴染めない俺のために、あえて憎まれ口を叩き気を紛らわそうとしてくれた。自ら進んで損な立ち回りばかり。
今だって、手の震えが隠せていない癖に。それでも、お前は前に進むんだな。傷だらけになりながら、自身を省みず。
はっ、と浅く息を吸う音が短く聞こえた。
「直ぐに顔を引き締めたが、救われたように貴方は微笑んでいた」
俺は、そんな顔をしていたのか。
もう、よく、わからない。
「――それは残酷な拷問を受け続けた者が、死という救いを得た時の笑みに似ていた。私には、それが分かる。分かって、しまうのだ。私は、私は……
それは、切なくて苦しくて痛くて、悲鳴をあげそうになるのをぐっと堪えたような声だった。俺は、彼女に、辛い言葉を、言わせてしまった。
「貴方が自身を罪人だと思うのであれば、ストーンハーストは正しく牢獄なのだろう。どのような意図かは分からないが、故人は貴方が逃げぬようストーンハーストに閉じ込めた。そして、貴方は裁かれたいと願った。しかし、私は黒殿が罪人だと思わない。本当の罪人は自身の罪深さに気付けないからだ」
ヨハンナは絞り出すように、喘ぐように、声を出した。口にすることさえ、罪であると思っているのだろうか。
馬鹿だなぁ、と俺は口を動かす。しかし、その言葉が空気を震わすこともなかった。
お前が罪を犯したというのなら、俺はお前の罪を赦す。誰も彼もヨハンナを信じなくても、俺はお前をずっと信じてる。
「……それに、それにね。貴方は私に優しくしてくれたわ。こんな血に濡れ汚れた一族の私に、微笑みかけてくれた。貴方とすごす何気ない日常が楽しかった。……それが幸せだと知った。だから、だから――――」
幸せとは特異であって、共通ではないというヨハンナの言葉が脳裏に甦る。静代も、そうだったのだろうか。俺とすごす何気ない日常を幸せだと思ってくれていたのだろうか。
『――だって、私はもう既に幸せなのですから』
だから、あの時そう言ったのだろうか。ならば、俺は最初から間違っていたのだ。静代の幸せを勝手に決めつけてしまっていたのだから。
意識をゆっくりと浮上させる。
『何故、目覚めようとする。現実こそ悪夢だ。私に身を任せれば良い。そうすれば、何も考えず全てから解放されるのだぞ』
影が囁く。
ズルズルと這いずる音が聞こえる。
原初の夢、あるいは白痴の者。
ストーンハーストに来てから、ずっとずっと影に潜み、俺を深淵へ引きずり込もうとした存在。
どくり、と心臓が躍動する。
楽しそうに、どくり、どくり、と。
断続的な光が脳の機能を著しくさせる。
あやふやな境界。
這いよる狂気。
あの、赤いーーー
「――――私は、貴方を守りたい」
その言葉を聞いて、心が暖かくなった。応えないといけない。報いなければいけない。俺はお前にいつだって、救われてきたんだ。
原初の夢にして、白痴の者……カエルム・ストーンハースト。ああ、お前なのだろう。
(ああ、白痴の狂信者め! 俺はお前になんかならない!)
心の中で悪態をつき、意識してそれをはね除ける。瞼を開くと、祈るように俺を見詰めていた彼女と目が合った。
「……ヨハンナ」
彼女の、ヨハンナの名前を呼ぶ。自分でも驚くほど掠れ弱々しい声だった。聞こえただろうか。聞こえていると良い。
「黒殿っ!」
「ヨハンナ」
もう一度、名前を呼ぶ。頬を撫でてくれていたヨハンナの手をそっと握った。
「黒殿、良かった。目覚めてくれたのだな」
ヨハンナには言いたいことが沢山ある。でも、まず言うべきことは―――
「―――ヨハンナ、ありがとう。お前が居てくれて良かった」
「っ、ああ、まったく、ずるいな」
ヨハンナは嬉しそうに頬を緩め、静かに一筋の涙を流した。