聖者の牢獄   作:桂太郎(テムヒ)

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耳にした言葉は信じるな。目にしたものは幻想だ。言葉にしない言葉こそ、神秘である。かねてから、智慧とはそうして得るものなのだ。


御心のままに

 

 

 黄昏。

 

 ざらつく風に蠕動する木々。

 

 その先に、ひっそりと佇む夥しい墓石。

 

 蠢くあの黒い影、原初の夢、あるいは白痴の悪夢。

 

 そして、彼が恋い焦がれる青い衣の女性。

 

 彼女は一体、誰なのか。

 

 そう思いつつ、俺はどこかで彼女と会ったような既視感を覚えていた。曇ガラスの向こう側に、その人が立っているような、何とも言えないもどかしさを感じる。

 

 

 

 俺は一体どこで――――

 

 

 

「……アンディ様?」

 

 呼ばれて、顔を上げると息がかかりそうな距離に、冷涼とした美貌が視界に広がった。

 

「えっ? あ、うわあぁっ!」

 

 反射的に身体を後ろに下げようとして……自身が部屋の椅子に腰かけていることに気が付いた。勿論、気が付いた時には既に遅く、俺は椅子ごと後ろにひっくり返ってしまった。

 

 どたん! と、大きな音が室内に鈍く響く。それと同時に、アマルの酷く焦った声が耳に入った。

 

「かはっ……っ!」

 

「きゃあ、アンディ様っ!?」

 

 背中を強く打ち、一瞬息ができなかった。無理に息をしようとすると、激しい咳が出た。駄目だ馬鹿野郎。落ち着け。軋む肺を宥めるように、何度か深呼吸を繰り返し、やっと意識がクリアになる。

 

「っは、大丈夫だ。畜生。クソ食らえ。ああ、やっちまった」

 

 心配するな、と言いながら、お世辞にも上品と言い難い言葉を吐き捨てる。その時、頭の片隅で大学の友人から「立ち振舞いは洗礼しているし、君はかなり育ちが良いんだろう。でも、口はとっても悪いよね。どこかちぐはぐだ」と言われたことを思い出した。

 

 ……ああ、そうだ。

 

 嫌々ながら、育ちは良いとも。

 だからこそ、敢えて乱雑な言葉遣いをしているんだ。それは昔からの癖だった。安藤家に対する子ども染みた反抗が、俺にぶっきらぼうな態度を取らせたのだ。

 

 しかし、そんな俺とは違い、静代は常に礼儀正しく、綺麗な言葉遣いをしていた。

 役目を受け入れられなかった俺、受け入れることを望んだ静代。きっと綻びは、些細なことから始まっていた。俺が気付く、ずっと、ずっと前から。

 

 先程から、統一されず取り留めない思考が、頭をぐちゃぐちゃに掻き回す。深い溜め息をひとつついて、俺は天井を仰いだ。

 

 主よ、どうかこの迷える子羊を導いてください、と他力本願な言葉を心の中で呟く。

 

 それを声に出さなかったのは、男としての意地だった。なけなしの意地だった。何にも役に立たない意地ならば、ここで使いきってしまって良いだろう?

 

 身を起こし、転がった椅子を元の位置に戻す。

 

 幸い頭は打っていない。万が一、頭部打撲で脳に損傷でも受けてしまえば、ストーンハーストで治療することは不可能だ。それだけは避けたい。

 

「アンディ様、大丈夫ですか?」

 

 アマルは顔を真っ青にしながら、俺の背中を優しく擦る。その指は小刻みに震えていた。

 

「ああ、アンディ様、まだお背中が痛みますか?」

 

 倒れた俺よりずっと悲痛な顔をして、彼女は俺の心配をする。長い睫に縁取られた鮮紅の瞳には、うっすら涙が滲んでいた。弱々しく瞬く瞳を見て、俺は曖昧な笑みを浮かべた。それ以外の表情をどう浮かべて良いのか分からなかった。

 

 痛いのは、背中だけじゃない。

 

 どうしようもなく、心が痛い。俺が俺じゃなくなりそうな、この焦燥感は俺の胸を燻り続ける。

 

 ロザリオの上から左胸を押さえ、俺は意識して明るく言葉を発した。

 

「ちょっとだけな。でも、直ぐ良くなるさ」

 

「……そう、でも本当に?」

 

 アマルは、首を小さく傾げた。

 

「ああ、勿論」

 

「――――本当、に?」

 

 それだけですか? と、アマルは言葉を続けた。どこか昏く淀むような眼。血のように鮮やかな紅瞳が、怪しく光る。

 

 心がざわつく。

 

 心臓が馬鹿みたいに大きく脈打った。

 

 

 止まれ。止まれ。止まれ。

 

 騒ぐな、蠢くな。疼くな。

 

 

「アンディ様、あの場所はいけません」

 

「えっ」

 

「いけません」

 

「あ、アマル?」

 

「あの場所は切り離されているから、いけません」

 

 それは俺を嗜む「いけません」なのか。アマルがあの場所に「行けません」なのか。それとも両方なのか。俺には分からない。そもそも、何故アマルは俺があの場所に居たことを知っているんだ。

 

「今回、()()(よすが)に、あの人は入り込めましたが」

 

 そう言って、アマルは俺が握るロザリオを、トンと指先で突いた。

 

「――――次は、ありません」

 

 アマルはほとんど指に力を込めていなかった。それなのに、俺はふらりと、大きくよろめいた。頭の中が真っ白になる。

 

「あの人はそれを手放したから、もうこれ以上耐えられない。ねぇ、アンディ様。例え、あの人が居なくなっても、私には何の不都合もないのですよ。……でも、アンディ様は違うでしょう?」

 

 アマルは胸の前で両手を合わせた。それは、神でも、悪魔でもなく、俺という存在に祈りを捧げるような仕草だった。

 

「貴方様が、あの人に赦しを、救いを与えたいと願うならば、私はそれに従います。だから、二度、私の目の届かないところに行かないでください。そうすれば、あの人の器が溢れてしまわないよう守りましょう」

 

 目を見張る。どうして、と俺自身の掠れた声が耳を震わした。震える拳を隠すように、強くロザリオを握る。

 

「……アンディ様、私はあの人に対して、慈悲も憐憫の心さえ持ち合わせてはいないけれど、貴方様を救ったその一点だけは、少なからず感謝をしているのです」

 

「アマル、お前は……」

 

「――アンディ様、全ては、貴方様の御心のままに」

 

 

 アマルは、ただ微笑んだ。

 

 

 女神のように、微笑んだ。

 

 

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