それはいつのことだったか。
遠い、遠い記憶に想いを馳せる。
ああ、確か……雪が舞い散る季節だった。
***
凍てついた空気が肺に入り込み、吐いた息が視界に切り取られた世界を白く染めていた。視線を上げると、灰色の分厚い雲が空を隠し、まるで閉じ籠られるような感覚がした。
空は自由であるべきだ、と思う。
そうあって欲しい、と思う。
「――――隆兄さん」
後ろから声が聞こえた。静寂を裂くというより、静寂に染み渡るような声。俺は首だけ振り返り、声の主を見詰める。
「静代か……」
「はい、兄さん」
静代は嬉しそうに目を細め頷いた。それに合わせて濡羽の長い黒髪が揺れる。いつもながら、静代は清楚で美しい出で立ちをしていた。きめ細やかな透き通る肌、朱をさした瑞々しい唇、冷たさをたたえた瞳。どこを切り取っても美しい。この村で俺は妹よりも美しいものを見たことがない。
真っ白な世界の中、鮮紅の着物は酷く目立つ。まるで世界から切り離されたようなその姿に、漠然とした不安を感じる。それを誤魔化すため、俺は静代に言葉を投げ掛けた。
「まだお勤めの時間ではないと思うが、何かあったのか?」
「いいえ。……何か用がなければ、会いに来てはいけませんか?」
静代はどこか寂しそうに微笑んだ。慌てて直ぐに、俺は首を左右に大きく振った。
「そんなことないよ。静代ならいつでも大歓迎だ」
「……良かった。ありがとうございます」
頬を仄かに染め、ふわりと静代は笑った。そして、両手を胸の前で合わせ、恥ずかしげに瞳を伏せた。
想い人を目の前にした乙女のような仕草。そこまで考えて、馬鹿馬鹿しいことだ、と心の中で毒づく。何が恋する乙女だ。言うにもかけて、妹にそんな表現を使うなんて度しがたい。ああ、罪深いにも程がある。
俺は静代から敢えて視線を外し、再び空を見上げた。
「兄さんは――――」
「ん?」
「良く空を見上げていますね」
「そうか?」
「はい。兄さんは、空が好きなのですか?」
「好き、とはちょっと違う。何というか、空って広いだろ? この閉鎖的な村とは違って、どこまでも続いている。そうだな。憧れに近いかもしれない。だって、空は――――」
「――――自由だから、ですか?」
「えっ?」
バサバサ、と鳥が羽ばたく音が聞こえ。真っ黒な羽が空から蛇行しながら落ちてくる。
静代は笑っていた。
先程も笑みを浮かべていたが、この笑みはもっと寒ざむしい。いや、禍々しいと言っても良い。
「空はどこまでも続いています。だからこそ、果てがない。……ねぇ、兄さん。空と同じく、深淵にも果てはないのですよ? そこでは、いけませんか?」
「静代?」
「……いいえ。すいません。詮無きことを申し上げました。兄に対して妹が意見をするなど、あってはならないことです。お許しください」
弱々しく、静代は呟く。
止めてくれ。気に入らない。何もかも気に入らない。空が色褪せていく。静代はこの村の古臭い価値観よって、雁字搦めにされているのだ。
静代こそ、誰よりも自由になるべきだ。
「妹が兄に意見してはいけないなんて、いったい誰が決めたんだ? お前はもっと俺に色々忖度なく言えよ。良いことも悪いことも、怒りだってぶつけるべきだ。誰にも文句は言わせない!」
「兄さん。それでも、私は……」
静代の言葉がそこで途切れる。少し間をおいて、静代は俺を見詰めた。
「兄さんは、神様を……オヤザ様を信じていますか?」
脈略のない問いに、思わず眉をひそめる。しかし、静代の真剣な眼差しを受け、俺は自身の考えを整理しながら途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「信じて、なんて、いないさ。でも……居て、欲しい、とは思う」
「それは、どうしてですか?」
「500年。……500年もの間、俺達はオヤザ様に祈りを捧げてきた。母胎洞をひたすら練り歩く。それに全く意味がなく、ただの徒労だったなんて思いたくはないだろう? 信じてはいないけど、居て欲しい。いや、居ないと許せない。絶対に許せない。……それに、神様がいなければ、いったい他の誰を恨めって言うんだ」
「そう、ですか」
「静代こそどうなんだ?」
静代は俺の問いに僅かに身動ぎをした。そして、視線を地面に落とした。深淵を覗き込むように、ただひたすらに地面を……いや、その奥深くにある母胎洞を眺めている。
「私は……信じています。その存在も、そのあり方も。それにオヤザ様がいなければ、私の望みは叶わない。決して、叶わない」
「静代の望み?」
俺の呟きに答えることもなく、静代はポツリポツリと囁く。その囁きは、静代の影に呑まれていく。
「オヤザ様は、兄さんをずっと待っています。私がそう望んだから、オヤザ様もそう望んでいるのです。だから、どうか―――」
その先の言葉は、影の中の闇に沈みかき消えた。