聖者の牢獄   作:桂太郎(テムヒ)

136 / 159
いつかに、想いを馳せる

 

 

 それはいつのことだったか。

 

 遠い、遠い記憶に想いを馳せる。

 

 ああ、確か……雪が舞い散る季節だった。

 

 

 ***

 

 

 

 凍てついた空気が肺に入り込み、吐いた息が視界に切り取られた世界を白く染めていた。視線を上げると、灰色の分厚い雲が空を隠し、まるで閉じ籠られるような感覚がした。

 

 空は自由であるべきだ、と思う。

 

 そうあって欲しい、と思う。

 

「――――隆兄さん」

 

 後ろから声が聞こえた。静寂を裂くというより、静寂に染み渡るような声。俺は首だけ振り返り、声の主を見詰める。

 

「静代か……」

 

「はい、兄さん」

 

 静代は嬉しそうに目を細め頷いた。それに合わせて濡羽の長い黒髪が揺れる。いつもながら、静代は清楚で美しい出で立ちをしていた。きめ細やかな透き通る肌、朱をさした瑞々しい唇、冷たさをたたえた瞳。どこを切り取っても美しい。この村で俺は妹よりも美しいものを見たことがない。

 

 真っ白な世界の中、鮮紅の着物は酷く目立つ。まるで世界から切り離されたようなその姿に、漠然とした不安を感じる。それを誤魔化すため、俺は静代に言葉を投げ掛けた。

 

「まだお勤めの時間ではないと思うが、何かあったのか?」

 

「いいえ。……何か用がなければ、会いに来てはいけませんか?」

 

 静代はどこか寂しそうに微笑んだ。慌てて直ぐに、俺は首を左右に大きく振った。

 

「そんなことないよ。静代ならいつでも大歓迎だ」

 

「……良かった。ありがとうございます」

 

 頬を仄かに染め、ふわりと静代は笑った。そして、両手を胸の前で合わせ、恥ずかしげに瞳を伏せた。

 

 想い人を目の前にした乙女のような仕草。そこまで考えて、馬鹿馬鹿しいことだ、と心の中で毒づく。何が恋する乙女だ。言うにもかけて、妹にそんな表現を使うなんて度しがたい。ああ、罪深いにも程がある。

 

 俺は静代から敢えて視線を外し、再び空を見上げた。

 

「兄さんは――――」

 

「ん?」

 

「良く空を見上げていますね」

 

「そうか?」

 

「はい。兄さんは、空が好きなのですか?」

 

「好き、とはちょっと違う。何というか、空って広いだろ? この閉鎖的な村とは違って、どこまでも続いている。そうだな。憧れに近いかもしれない。だって、空は――――」

 

「――――自由だから、ですか?」

 

「えっ?」

 

 バサバサ、と鳥が羽ばたく音が聞こえ。真っ黒な羽が空から蛇行しながら落ちてくる。 

 

 静代は笑っていた。

 先程も笑みを浮かべていたが、この笑みはもっと寒ざむしい。いや、禍々しいと言っても良い。

 

「空はどこまでも続いています。だからこそ、果てがない。……ねぇ、兄さん。空と同じく、深淵にも果てはないのですよ? そこでは、いけませんか?」

 

「静代?」

 

「……いいえ。すいません。詮無きことを申し上げました。兄に対して妹が意見をするなど、あってはならないことです。お許しください」

 

 弱々しく、静代は呟く。

 

 止めてくれ。気に入らない。何もかも気に入らない。空が色褪せていく。静代はこの村の古臭い価値観よって、雁字搦めにされているのだ。

 

 静代こそ、誰よりも自由になるべきだ。

 

「妹が兄に意見してはいけないなんて、いったい誰が決めたんだ? お前はもっと俺に色々忖度なく言えよ。良いことも悪いことも、怒りだってぶつけるべきだ。誰にも文句は言わせない!」

 

「兄さん。それでも、私は……」

 

 静代の言葉がそこで途切れる。少し間をおいて、静代は俺を見詰めた。

 

「兄さんは、神様を……オヤザ様を信じていますか?」

 

 脈略のない問いに、思わず眉をひそめる。しかし、静代の真剣な眼差しを受け、俺は自身の考えを整理しながら途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

 

「信じて、なんて、いないさ。でも……居て、欲しい、とは思う」

 

「それは、どうしてですか?」

 

「500年。……500年もの間、俺達はオヤザ様に祈りを捧げてきた。母胎洞をひたすら練り歩く。それに全く意味がなく、ただの徒労だったなんて思いたくはないだろう? 信じてはいないけど、居て欲しい。いや、居ないと許せない。絶対に許せない。……それに、神様がいなければ、いったい他の誰を恨めって言うんだ」

 

「そう、ですか」

 

「静代こそどうなんだ?」

 

 静代は俺の問いに僅かに身動ぎをした。そして、視線を地面に落とした。深淵を覗き込むように、ただひたすらに地面を……いや、その奥深くにある母胎洞を眺めている。

 

「私は……信じています。その存在も、そのあり方も。それにオヤザ様がいなければ、私の望みは叶わない。決して、叶わない」

 

「静代の望み?」

 

 俺の呟きに答えることもなく、静代はポツリポツリと囁く。その囁きは、静代の影に呑まれていく。

 

「オヤザ様は、兄さんをずっと待っています。私がそう望んだから、オヤザ様もそう望んでいるのです。だから、どうか―――」

 

 その先の言葉は、影の中の闇に沈みかき消えた。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。