この世に産まれてからなのか。
この世に生まれたからなのか。
二度と戻れないその道をいつから見失ったのか。
静代の遺体と対面したあの日、警察官は何と言っていた。記憶の
思い出せないのではない。思い出したくないだけだ。感情に蓋をして、何もかも忘れた振りをした。でも、違う。違うだろう。忘れられるはずもない。俺にとって静代はそんな軽い存在ではなかった。
静代を置いて逃げ出した罪悪感を抱え、耳を塞いで膝を抱えている。心の中に、あの時のまま時が止まった幼い自分がいる。
拳を強く握りしめ胸に置いた。それは、もう逃げないという意思表示。ありし日の自身に対しての決別だった。
空白。
『……死因は、一酸化炭素中毒。発見場所は……地下室。火から逃れようと地下室へ……おそらく、地下室から洞窟に――しかし、不振な点が――』
逃げるな。
頭の中で、警察官の言葉を反芻する。
空白を埋めろ。
『死因は、一酸化炭素中毒でした。発見場所はご自宅の地下室です。妹さんは、火から逃れようと地下室へ向かわれたのでしょう。おそらく、地下室から洞窟に逃げ込もうとしたと考えられます。しかし、そこに不振な点があります』
そうだ。
静代は火災から逃れるために、地下室へ向かった。地下室は母胎洞に直接繋がっている。俺たちは神事を行う際、いつもそこから出入りをしていたのだ。
母胎洞は内臓のように地下を張り巡り、様々な場所に繋がっていた。空気を逃がす穴など沢山存在するはずだ。逃げ込むには、絶好の場所だろう。静代の判断は間違っていない。
まだ、足りない。
思い出せ。
警察官は何と言っていた。
『……足裏に傷が多く、裸足で岩の上を歩――。倒れた身体の向きが……洞窟の入口の方ではな……地下室の扉を向いて。洞窟の奥まで煙は届かない。そのまま……助かったはず。しかし――妹さんは洞窟に逃げ、何故かもう一度戻――』
空白を埋め、埋葬していた記憶を掘り起こす。そんな相反する行為を何度も行う。
『妹さんの足裏に傷が多く見受けられました。裸足で岩の上を歩いたのでしょう。それに倒れた身体の向きが、洞窟の入口の方ではなく、地下室の扉を向いていました。洞窟の奥まで煙は届かない。地下室から洞窟に逃げれば、おそらくそのまま助かったはずです。しかし、そうはならなかった。それに、妹さんは全身水で濡れていました。洞窟の中で身を浸す程の水があるのは、最深部の泉くらいだ。安藤さん、良いですか。つまり、妹さんは洞窟の最深部まで逃げ込み……何故か、もう一度地下室に戻ってきたんですよーーー』
これは、最後の一欠片だ。
『ーーーご遺族の前で、こんなことを言いたくはないですがね。火に包まれて、黒煙が広がる場所に敢えて戻るなんて、それは自ら死に行ったようなものですよ』
「静代が死に行った?」
違う。
それは、違う。
逆だ。逆なんだ。
人は死ぬと母胎に戻り、羊水を浴びることで、新たな生を得え、産道を通り外に出る。
それこそ安藤家が取り仕切る儀式。
母胎洞の入り口である地下室、産道から子之宮に入り死を纏う『死宮之儀』。
そして、羊水の役割を持つ母之泉で御祓を行い、穢れを取り払われた無垢な身体に神を降ろす『新宮之儀』。
産道を通り母胎洞を出ることで、神は新たな生を得る。
静代。
お前は、その儀式を行ったのか。
たったひとりで。
「産まれ直し、生まれ変わった」
しかし、本来儀式は3人で行うもの。俺と静代、そして無垢なる赤子の3人で。だからこそ、致命的なほど不完全だ。最初から失敗することが分かっていただろう。
「それでも、儀式を執り行った。……もしかして、俺が戻って来ないことに痺れを切らして、親父や村人が強引に押し進めたのか」
嫌悪感が胸からせり上がり、胃液が逆流する。それを吐き出しそうになり、手で口を押さえた。寸前のとところで飲み込む。狼狽えてどうする。
「……ちくしょうめっ」
悲鳴にも似た呻き声を上げ、俺は目を閉じる。
「失敗したんだ」
安藤家の次期当主として、儀式は失敗に終わった際何が起こるとされているのか俺は知っていた。
それは、流産になぞらえてこう呼ばれていた。
「ーーーー黄泉流レ」
黄泉が流れる。
死が現世に洪水の如く流れる
それがどんな形のものなのか分からない。神は神秘そのもの。人の理解を越えた存在だ。何が起きてもおかしくない。それに、古文書にも黄泉が流れるとしか書かれていなかった。しかし、もし『黄泉流レ』が原因となり村が火災に襲われたとしたら?
偶然でもなく、村はなるべくして滅んだんだ。
……静代の命を引き金に。
一度誤ったら戻れない。元より、その道しか彼女にはなかった。だからこそ、歩むと決めた。二度と戻れない産道を叶わなかった夢と共に、歩むと決めた。