夢を見ている、と思った。
それは彼女……ヨハンナの記憶をなぞるような夢だった。この夢が本当に過去にあった出来事なのか、俺には分からない。それ程ここに来てから、俺はあまりにも多くの夢を見すぎた。だからこそ、夢と現実の境界線がひどく曖昧だった。
どこまでが夢なのか。どこまでも夢なのか。
ここは現実か。
この世界は現実か。
ああ、空が落ちてくる。
どこまでも青い深淵が堕ちてくる。
そして、あの赤黒いーーー
夢を見ている。
***
司祭室の扉をノックする前に、深呼吸をして精神を落ち着かせる。私はベネディクト修道司祭にあまり良くない感情を抱いている。平たく言うと、どうも彼が苦手なのだ。
考え方が合わないということもあるかもしれない。それ以上に、柵に雁字搦めにされている姿は私と同じく見るに耐えない。つまるところ、その感情の根本は私の身勝手な自己嫌悪なのだ。
そこまで考えて、頭をふる。どうしようもない。どうしようもできないことだ。
こんこん、と控えめに扉を叩く。
「入りたまえ。……ああ、修道女ヨハンナ・スコトゥス。良く来てくれたね」
「…………失礼します」
「さて、君を呼び立てたのは、他でもない。頼みたいことがあってね」
「それは私にでしょうか? それとも、スコトゥスにてしょうか?」
「おかしなことを言うのだな。修道女ヨハンナ・スコトゥス。どちらも君のことだろう。そもそも君以外にスコトゥスを継ぐものがいるとでも?」
「――――そう、ですね」
ああ、愚問だった。
心の中で自分自身に向け嘲笑する。
ベネディクト修道司祭から見れば、同じことなのだ。私もスコトゥスもその終着点は決まっている。言うまでもないことだ。それ以外の答えなどないはずなのに、私はそれ以上を求めてしまったらしい。何とも愚かなことだ。
はっ、と小さく喘ぐように息を吐く。
それは自身の存在を主張するために出た息なのか。責務に押し潰されそうになる精神の脆弱さを自覚したからか。
救われたいと思いながら、救われないと信じている私には、その答など永遠に分かるまい。そうでないといけない。理由など求めるべきではない。スコトゥスは元よりそういう
「まぁ、良い。頼みというのは、君に彼の世話をお願いしたいのだ」
「彼?」
「外から来たる者、だ」
ベネディクト修道司祭は掠れる声で小さく呟いた。
「……
修道司祭は、私の言葉に無言で頷く。一拍おいて、迷うように目を伏せ言葉を発した。
「彼の名はアンドリュー。いや、もはや名を呼ぶことはできまい。ペレグリヌスは個であってはならない。故に名を言葉に出すべきではない……」
幾ばくかの静寂の後に、彼は呟いた。鷲鼻を擦る癖は、自身の不安を無意識に落ち着かせるためなのだろう。精神の空洞を埋めるのではなく、逆に深く掘り進めているからこそ感じるものだ。
「あの深淵のような黒髪。ああ、そうだね。これから彼を黒のお方とでもお呼びしょう」
「……承知しました。今代のペレグリヌスは黒殿とお呼び致します」
「ああ、そうすると良い。そうするべきだ。ヨハンナ・スコトゥス、十字に誓い役目を果たしたまえ。そのために、そのためだけに君はこのストーンハーストに存在しているのだ。……そうだろう?」
ロザリオを握る。
このロザリオは、スコトゥスの守りである。これがあるからこそ、私は私でいられる。
「私の、いや、それがスコトゥスの存在意義であることは百も承知している。修道司祭、スコトゥスは予てからそういうものなのだろう。ああ、勿論理解しているとも」
「なるほど、愚問であったか。ならば、ヨハンナ・スコトゥス。祈りたまえよ。一時の救いを求めるならば、我らは斯くあるべきなのだ。かつて、多くの先人がそうしたように、ただ祈りたまえよ」
ベネディクト修道司祭は私の言葉を聞き目を細め呟いた。その眼差しに微かな憐憫の情を感じ、思わず眉を顰める。祈りを捧げたところで、私は救われなどしない。それを理解しているからこそ、向けられる憐れみはもはや毒でしかない。
「黒のお方が滞在する部屋は……ああ、ちょうど半年前に地に堕ちた者がいたか。その空き部屋を使っていただこう。修道女ヨハンナ・スコトゥス、すぐに準備をするように」
小さく頷く。
此度の異邦人は、どのようなお方なのだろうか。
……できれば、悪人であれば良い。罪人であるが良い。さすれば、私のこの迷いを捨てれることができるかもしれない。
「修道女ヨハンナ・スコトゥス。祈りたまえよ。
私はそれに答えず、踵を翻し司祭室の扉を開けた。
「ーーーー祈りたまえよ」
ベネディクト修道司祭の囁きが微かに鼓膜を震わせる。それはまるで自らに言い聞かせるような声音だった。
私はもう一度、十字架を握る。
我らは生まれながら罪を背をっている。罪から来る報酬が死だと言うならば、ベネディクト修道司祭、私たちは正しくそうあるべきなのだ。
それが我らの贖い。
神に祈り、神を求め、神を隠し、殺した我らの贖い。
首を天井に向け、その先にある空を見る。
神は空から舞い降り、地に堕ちた。だからこそ、深淵に神秘が宿る。満ちて満ちて、溢れ出る。
それを押し止めるために、私は私の役割を果たそう。