ーーーーぐっぐ、ぺちり、ぐりぐぐ、ぺちん。
生地を練りながら、俺は昨日のヨハンナとのやり取りを頭に思い浮かべていた。
ペルセウス、竜蛇殺し、アルテミス、大地母神、そして青い衣の女神。
思考を巡らせながら、機械的に生地を机に叩きつけ、折り返し、体重をかけ練っていく。
「黒の旦那、どうしたんですかい? そんな辛気臭い顔をして、いけねぇ。そりゃ幸せが逃げるってもんでさぁ」
「あ、フランチェスコ?」
今日のお勤めはパン作り。
そういやフランチェスコと一緒に作業をしていたんだったけ。考え込みすぎて、意識がおざなりになっていた。バツが悪い表情を浮かべた俺をフランチェスコは数秒眺めにっこり笑った。
「へぃ、あっしはフランチェスコでさぁ。お忘れでぃ?」
「いや、忘れるわけないよ。底抜けに明るいやつは、この修道院でお前くらいだからな。すまん、ちょっとぼんやりしてた」
「良いんでぇさぁ。あっしの明るさは、聖霊の光みたいなもんで。旦那の心の内側から灯し光らせやすぜ」
「そんな大層なもんじゃないだろ。というか、聖霊の光を安売りしすぎ。他の修道士に聞かれたら長い長いお説教が始まるぞ」
「そりゃ、勘弁してつかぁさい。そんな長い説教は子守唄にちげぃねぇ」
「ははっ、それについては俺も完全に同意だな」
「ありゃ、旦那も悪ですねぇ」
「いやいや、フランチェスコほどでは……」
「へへっ」
「ははっ」
どこぞの悪代官と越後屋のようなやり取りをして、お互い我慢できず笑い合う。
独特の訛りがあるフランチェスコの言い回しは、場を和ましてくれる。そこに居るだけで、明るい気分にさせてくれるのは、商家で培われた彼の話術によるものなのか。いや、きっとフランチェスコ本来の気質なのだろう。
「フランチェスコ」
「何でさぁ?」
「ありがとな」
「へぇい」
間延びした返事。力が抜ける声は、気にするなの合図だった。
フランチェスコは、じゃあ本腰入れてパンをこねますかね、と右手を閉じたり開いたりする。俺もそうだなと頷く。
今、俺達が作っているのはライ麦パン、所謂黒パンと呼ばれるものだ。
この黒パンがここでの主食である。
黒パンは酸味が強い癖のあるパンで、皿代わりに使われるほど硬く食べるのにも一苦労だ。一週間から二週間ほど日持ちするということもあって、後半になるほどパンの水分が抜け硬くなっていく。食べるときには、パンをふやかすスープやワイン、ビールなどが必需品である。
ストーンハーストで作られる黒パンは、ビール酵母とハチミツを混ぜたタネを使用する。それとは別に、ミサ儀礼や聖別に使われる酵母なしの円型薄焼きパン、ホスチアも作る。
ホスチアは、ラテン語で「いけにえ、犠牲」を意味している。ここでのいけにえはキリストの身体。ちなみに、ワインはキリストの血を指している。
修道院でワインが盛んに作られている理由は、儀礼に必ず必要なものであるからだ。
それはそうと、ホスチアなんとも物騒な名前だ。
さて、と肩を回し気合を入れ直す。
今日はひたすらパンをこね、焼く作業を繰り返す一日だ。
今は慣れてしまったが、パン作りは結構な重労働。日本にいた頃には、味わうことがなかった苦労だ。それも悪くない、と思う。
ーーーーぐっぐ、ぺちり、ぐりぐぐ、ぺちん。
打つべし。
打つべし。
打つべし。
無心になって、生地を打ち付ける。
最近、色々考えることが多すぎた。
心を空っぽにする時間が俺には必要だった。
そして、何よりフランチェスコとくだらないことを言って笑い合える、そんなありふれた日常が必要だったのだ。
「いた、いたたたた。ふぐぅうう!!!」
そんなことを思っていると、隣から悲痛な叫び声が消えた。
慌てて横を見ると、蹲り脂汗を浮かべ唸るフランチェスコがいた。
「フランチェスコっ!? どうしたんだ、大丈夫か!!」
まさか、何かの発作か?
心筋梗塞?
虫垂炎?
尿路結石か?
「いででで、うううぅ、ぎぎぎ、ぅう!!」
「しっかりしろ、フランチェスコ!」
肩に手を置いて、声をかけ続ける。
バイタルを確認を、いや、脈や呼吸数を測ったってここでは何もできない。フランチェスコを独りにするのは、危険だが俺だけではどうしようもない。助けを呼びに行こう。
「フランチェスコ、気をしっかり持て。すぐに、すぐに助けを呼んで来るからな!」
「黒の旦那ぁ」
フランチェスコは、俺を引き止めるように腕を掴んだ。
「フランチェスコ?」
「痛てぇです」
「分かったから、そのままじっと」
してろ、そう言葉を続けようとして、フランチェスコに遮られた。
「腰が痛てぇですううぅぅううううッッ…………!!」
「いや、ギックリ腰かよっ!!!!」
ーー俺の叫びはブドウ畑の手入れをしていたシメオンさんにも聞こえたという。
そろそろ平和な話をいれておかなきゃ。