聖者の牢獄   作:桂太郎(テムヒ)

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暗く啜り泣くもの

 

 

「静代、覚えておきなさい。オヤザ様は、本来暗囁(あんしょう)様ではなく、暗啜(あんてつ)様とお呼びするべきなのです」

 

 錆びた鉄のような声を出して、祖母は私を見詰めた。感情の揺さぶりさえ感じさせない表情。人間と言う個を極限まで削ぎ落とせば、きっとこうなるのだろう。

 

 幼い頃から変わらない。……変われない祖母の表情を眺めながら私、安藤静代はそう思った。そこに何の感傷もない。いや、正しくは興味がないのだ。

 

 私には、隆兄さんしかいない。それ以外、どうでも良い。私が個として名を記憶している存在は、兄さんだけだ。私にとって唯一の光明。私だけの救い主。

 

 だから、それ以外の者など必要ないだろう?

 

 一族郎党の名など、全て等しく記憶していない。そもそも、記憶する必要を感じない。目の前の祖母の名も、私は諳じることすらできないのだ。

 

 ああ、なるほど、と納得する。

 私も祖母のことを悪しく言えない。

 兄さん以外を自身から削ぎ落とした私も人として、間違いなく欠陥品なのだろう。

 

 だからこそ、私が本懐を遂げることができる場所は、この両胡村以外に存在しない。私はこの地に縋り生きていく道しかない。

 

「囁いてなどいるものですか。ただ、啜り泣いていらっしゃるのです。……ああ、ああ、何とも憐れではありませんか」

 

 冷たく静まりかえった室内に、祖母の無機質な言葉が反響する。寒ざむしい。ここには、暖かみがない。しかし、私たちのような存在にはお似合いの場所なのかもしれない。私たちは、ここ以外では決して生きていけない。そうあるべきだ。

 

「片割れから引き離され、山神様に捧げられた憐れなお方。その嘆きの声が、堕ちた赤子の産声が聞こえぬか」

 

 祖母はゆっくりと語りかける。

 

 ――御柱神社の奥宮、両祓堂(こふつどう)

 

 それは安藤家直系の女しか入ることがてきない神域。母は他家から輿入れしたため、ここに入れる者は私と祖母だけだった。

 

 蝋燭のぼんやりとした灯りが怪しく揺らめき、古びた木造の堂内を黄昏色に染めあげている。神秘的と言うには、いささかここは陰りが深すぎる。

 

 オヤザ様のご神体の前で、ぴんと正座する祖母の背中を眺める。

 

「片割れを失った悲しみは、永遠に癒えない。だからこそ、私たちは、私は、この手で、片割れを、捧げました」

 

 途切れ途切れの掠れた声。どこか哀愁を漂わせる祖母に思わず眉をひそめた。

 

 何故なら祖母が纏った白装束が、一瞬死装束に思えたからだ。御祓のための白装束。それが死と言う穢れを連想させるなどあってはならない。

 

(――ああ、この人はもう長くない)

 

 直感ではない。

 確信だった。

 

 祖母の死期を悟っても、私の心は動かなかった。

 

(この人は死ぬのか)

 

 そこに悲しみの感情ではなく、ただ事実を淡々と受け入れた。それだけだった。

 

「オヤザ様を慰め、鎮めるために、安藤家の者たちは片割れを捧げてきたのです。姉妹であれば、妹を。……兄妹であれば、娘を」

 

 何かを口にする前に、祖母は答えた。まるで、私の言葉を最初から知っているとでも言うように。

 

「オヤザ様が求めるものは、ひとつではないからです。妹を捧げるのは慰めに、娘を捧げるのは還るために。それが()()の望みなのか。それとも、()()のご意志なのか。あるいは、両方か。ああ……栓無きことを申しました。忘れてください」

 

 違和感を感じた。

 祖母らしからぬ感情。後悔――とも違う。言葉では言い表せないもの。その何かを祖母が抱いているのか?

 

 そんな祖母に少し戸惑う。袖口を掴み気持ちを落ち着かせた。祖母の中に潜む何かを探るために、私はあえて感情を揺さぶるように問いかける。

 

「……オヤザ様を恨んではいないのですか?」

 

 首だけ振り返り、怪訝そうに祖母は目を細めた。意味が分からない、そんな表情を浮かべている。

 

「恨む? ああ、そうですね。そうでした。きっと恨めれば楽になれた。けれど、けれどね。私はその心さえ失いました。私たちは不完全ではありましたが、見て聞いて触れたのです。分かるでしょう? 残滓とて、それは間違いなく神秘の先触れだった。そう……人が耐えられるはずもない。そうあるべきなのです。それが人である唯一の証明なのですから」

 

 そうか、と納得する。

 個を削ぎ落としたのではない。削ぎ落とされたのだ。片割れを捧げ、神秘と繋がった。その繋がりが時を重ね強くなるほど、人は狂い堕ちていく。

 

 人間性を失い、ずるずると地を這う蛇のような存在に成り果てる。その存在を私たちは、狂い憑きと呼ぶ。

 

 平常に見えて、祖母はとうに狂っていたのだ。

 

「悲願の末、貴方たちは我が一族に産まれた男女の双子なのだから。全てをどうか終わらしてください。貴方たちは、選ばれたのです。――ひとつになり、全てを受け入れるのです。どうか、忘れないで」

 

 忘れるも何もない。そもそも覚えていないのだ。

 

「贄となった、私たちを忘れないで」

 

 私の心には何も響かない。

 

 

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