斎主が祝詞を奏上する。
「庫裏蹄に神留坐す遠矢射る神漏美、祓へ清め給へ。我らの罪は在らじと、祓へ給ひ淸め給へ」
大祓詞に似ているが、内容は全く別ものだ。それは両胡村のみに伝わる独自の祝詞である。
祝詞を奏上し終わると、巫女はオヤザ様に供えた神饌を口にする。つまり、直会……神人共食を行うのである。
ここで飲む御神酒は乳酒だ。おそらく、オヤザ様が獣、得に牛や山羊の特徴を持つ大地母神であることからきているのだろう。
この母胎洞に居る人間は、兄である斎主。斎主の子を孕んだ巫女、そして、その赤子。
巫女は祭壇に横たわり、何度も独自の呼吸を行う。これはラマーズ法ではなく、歌を歌うような呼吸法である。おそらくは、無音祝詞の一種だろう。……おそらく、と言ったのはその呼吸法について斎主は何も知らないからだ。巫女の立ち振舞いの大枠は知っているものの、その意味や由来など知らされていないことが多くある。無言祝詞もそのひとつである。
巫女は腹が痙攣のように動く、つまり産気づくまでその呼吸法を行う。
斎主は産気づいた巫女の腹に銀鏡をのせる。ただの道具ではない。これは“卸し鏡”——神霊が地上へと滑り降りるための、門……子宮口である。
儀式の本質は、命の誕生ではない。その命に、神を“宿す”こと。だからこそ、この瞬間には畏怖が伴う。人の子に、神の核を据える——それは祝福ではなく、呪詛にも等しい。
故に、斎主と巫女以外の人間は赤子を見ざる聞きざる言わざるよう、村人たちに言い伝えられている。斎員が母胎洞に立ち入らないのもそのためだ。
赤子は人ではない理外のもの、神である。
赤子が産まれた瞬間から、その父母である斎主と巫女は「ヒト」の境界を越えるのだ。神の子を産んだマリアが、聖母になったように。神を産み出した者たちが、ただの人であってはならない、そういうことなのだろう。
斎主と巫女が神を目の前にして、正気を保っていられるのも「境界の外」、つまり人間界から切り取られた存在であることに他ならない。人であれば、すぐ地に堕ち狂気に陥ることがあっても、耐えぬくことができるのは、つまるところ彼らが人の理から外れているからだ。
そのため、斎主と巫女は、理外のものに対して一次的狂気や不定の狂気に陥ることはあっても、永久的的狂気に陥ることはない。そうでなかれば、とうに狂い死んでいる。
オヤザ様を降ろし、赤子が産まれたその後はーーーーその後……その、後は?
頭が痛む。
キィーーン、と弦を引いたような甲高い音が聞こえたような気がした。その音は、ストーンハーストに来る直前に聞いた音に似ていた。
俺は何故、気付かなかったのだろう。いや、気付かないようにされていたのか。
これは鳴弦の儀。
悪霊の侵入を防ぐ儀式の音。
「つまり、斎員たちはずっと鳴弦の儀を行っていた? ……死んでからも、ずっと母胎洞の入口で」
儀式は終わってなかった。いや、終わったが、霊となって生前と同じ行いを何度も繰り返している。
(……もしかして、静代も?)
そうであったなら、俺は儀式の真っ只中に両胡村に戻ってきたことになる。
俺が逃げ出したあの場所、あの儀式。
もしかして、俺は電車に乗っていたのではなく、母胎洞にーーーー
「……黒殿?」
慣れ親しんだ顔が俺の視界に飛び込んできた。全く気配がなかった。思考が邪魔されたが、どこかホッとしている俺がいた
「……ヨハンナ、驚かすなよ」
「その割には驚いていないようですが」
そんなことないさ。俺は、空々しく呟いた。彼女は目を細めて俺を見ると、小さなため息をひとつ吐き出した。
「何か前も似たようなやり取りをしていたよな」
「……そうでしょうか?」
「ああ、お前はいつも俺を気遣っていてくれたからな。どうせ、ここで寝っ転がって難しそうな顔をしている俺を心配して見に来てくれたんだろう?」
「……………………」
「沈黙は肯定と判断するが?」
ヨハンナは金糸のような髪を耳にかけ、頬を少し赤らめた。青々しい薫りの風が俺とヨハンナの間を抜けていく。
「全く、貴殿は私に対して遠慮がなくなった」
「ヨハンナに遠慮しても、な。俺はお前に対して、遠慮することを遠慮するようにしたんだ」
「……たわけ。言葉遊びもほどほどにしないか」
ぐっ、と眉間を押された。新たな天罰が下った。やることがいちいち可愛いくないか? ほっこりしてしまう。
悪かった、とこれっぽっちも悪く思っていない謝りを入れて、俺は上半身を起こした。
軽く腕を伸ばしストレッチをしてから、俺はポンポンと右隣の芝生を叩き、座るようヨハンナに促す。ヨハンナは少し迷ったように瞳をさ迷わせたが、俺が再度芝生を叩くと観念したように身を屈めた。
「それで、何を悩んでいたのですか?」
「あーー、その」
「話しにくいことなら、無理に聞きません。ただ、私は貴殿の力になりたい、いつだってそう思っています」
ヨハンナはそう言って淡く微笑んだ。ああ、そうだ。お前はそういうやつだった。いつだって、俺を想いやってくれていた。誰よりも優しい女の子だった。
……きっと、この感情は違う世界の「俺」の想いなのだろう。それほど強い想いの残滓なのだ。今ならそれが分かる気がした。