あなたは夜な夜な大宇宙を守護し、その前には神霊も不死の神々たちも震え上がる。
あなたは天界の上をも歩き、冥界よりも深い深淵をも歩く。
あなたは始まりであり終わり。
あなただけが万物を支配する。
あなたこそ、支配者を支配する者である。
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さて、とヨハンナは話を区切った。
「話を戻そう。妹君が貴殿をこの場所に
「……意図、か」
「何か心当たりはあるだろうか? 例えば、ストーンハーストと貴殿の故郷の共通点……」
共通点。
山の奥深くにある両胡村。
深い森の中にあるストーンハースト修道院。
枯れた湖跡に建てられ、焼け落ちた村。
──双子。
俺と静代。
アマルと姉。
ふたりとも“片割れ”を失っている。
その運命も、内に残った喪失も、きっと同じ色をしている。
「一番に思いつく共通点は、やっぱり双子の片割れを亡くしたことだと思う」
「……このことは、あの方にも話しているのか?」
「いや、話していない」
「そうか。その方が良いだろう」
ヨハンナはそう言うと、急に静かになった。単に考え込む沈黙ではない。空気がひと息ぶんだけ重くなったように感じる。彼女はそっと視線を伏せ、手を胸の高さで前に出し、手のひらを天に向けた。
それは祈りの所作に似てはいるが、キリスト教の祈りとは違う──
ヨハンナは祈りを終えると、ゆっくりと顔を上げた。
「黒殿、それを手に私の言葉を復唱してください」
ヨハンナは俺に視線で促した。
俺の胸元──以前、彼女が手渡してくれたロザリオを。
言われるままに握る。
それを見ると、ヨハンナは周囲に視線を巡らせた。青空の下なのに、その目だけは光より影を探しているように見えた。それは、まるで“見えない何かの気配”を確かめているようだった。
陽射しは穏やか。
風に揺れる草の匂いも心地いい。
なのに──どうしてこれほど、心臓がざわつくのか。
「
ヨハンナは淡々と、しかしどこか厳かな調子で言葉を紡いだ。
その声は不自然なほど静かで、風の流れすらその瞬間だけ止まったように感じられた。芝生に腰を下ろしているのに、足元が遠のいたような、妙な浮遊感が一瞬だけ胸をよぎる。
「ええ、あ、すきおん? かたす、てと、らてくす、だす、あい……?」
意味どころか、音の構造さえ掴めない。脳が理解を拒むように、自分の声が、さっきより少しだけ掠れて聞こえた。舌が普段と違う動きをしているようで、上手く発音できない。
そんな俺の姿を見て、ヨハンナはほんの少し笑みを浮かべ軽く首を振る。
「黒殿……もう一度、私の言葉をよく聞いて。言葉を理解する必要はない。そもそも、この言葉自体に意味などないのです。重要なことは、意味ではなく“音”。この
「そ、そうなのか。……じゃあ、もう一回頼む」
ヨハンナは軽やかに頷き、再び発音をゆっくり区切って聞かせてくれる。
「ἄσκι κατάσκι λίξ τετράξ δαμναμενεὺς αἴσιον」
俺もそのあとを追うように口を開いた。
「……アスキオン・カタスキオン・リクス・テトラテクス・ダムナメネウス・アイシオン」
「発音が違う。もう一度」
ヨハンナの指示に従い、何度も復唱する。そのたびに舌の位置や母音の伸ばし方を細かく直される。
「ええと、ἄσκι κατάσκι λίξ τετράξ δαμναμενεὺς αἴσιον」
何度目かの発音を口にしたとき、ヨハンナの手がぴたりと止まった。
「……黒殿。もう一度」
促され、俺は再度ゆっくり発音する。
「ἄσκι κατάσκι λίξ τετράξ δαμναμενεὺς αἴσιον」
自分でも驚くほど、先ほどまでのぎこちなさが消えていた。
「ヨハンナ、これって……何なんだ?」
ヨハンナは短く息をつき、小さく頷く。
「これはヘラスの呪術のひとつです。安心してください、黒殿。呪術といっても人を害するものではありません。外から忍び寄る災いを遠ざける言葉です」
そう言いながら、彼女は俺の握るロザリオに視線を落とした。
「……黒殿。実は、貴殿にまだお伝えしていないことがあります」
ヨハンナのその眼差しには、わずかばかりの緊張がにじんでいた。
「そのロザリオについてです。──いえ、正確には“ロザリオではないもの”と言うべきでしょうか」
「……どういうことだ?」
「言葉の通り、それはロザリオではありません。四本の道が交わる“十字路”──四辻をかたどっているのです」
「ええと、四辻……?」
思わず手の中のロザリオを見つめ直す。
ヨハンナはロザリオ──いや、四辻の護符を見つめながら、静かに言葉を継いだ。
「ええ。ヘラスでは、四辻はある女神の象徴でもあります。──境界を見守る、夜の護り手。境界を跨ぐ者の足元に灯を置く女神、その名は────」
ヨハンナはそこで、ふっと言葉を切った。
沈黙が落ちる。
続きがあるはずなのに、あえてやめたような、そんな静けさ。
「────ヘカテー」