聖者の牢獄   作:桂太郎(テムヒ)

157 / 160
資格を持たぬ者

   

 

「――ヘカテー?」

 

 

 低く抑えた声は、空気中に溶けて消えた。修道院の通用路からも外れたこの場所。ここは意図して近づかなければ、決して辿り着かない。

 

 人の足音も届かない。ここには空と、そして俺たち二人しか存在しない。

 

「はい」

 

 ヨハンナは静かに答えた。

 周囲を窺う仕草すらない。誰かに聞かれる心配がないと、最初から分かり切っているかのようだ。

 

「ヘカテーって、どんな女神なんだ?」

 

 問い自体は単純だ。

 だが口にした瞬間、自分の声が思ったより硬いことに気づく。そんな自分自身に戸惑いを覚える。分からない。分からないからこそ、俺は「恐ろしい」と思った。そうあるべきだ、と思った。

 

 一拍の沈黙。

 

 ヨハンナは修道院の壁に落ちる影を一度だけ見やり、微かに息を吐いた。昏く淀むような彼女の空気が微かに震えた。 

 

「ヨハンナ?」

「そうですね。ヘカテーは……」

 

 ヨハンナは小さく頷いた。頷いて、何かを躊躇するように唇をきゅっと噛んだ。胸の前で指を組み合わせ、祈る――赦しを請うように。

 

 赦されるべきではない、と思っている癖に。

 お前は祈ることを止めない。

 

 ……お前は優しく、情け深く、だからこそ誰よりも脆い。その清廉さが、お前の弱さだ。いつもそうだ。もっと俺を頼ってくれ。俺にお前を守らせてくれ。お前が俺を愛するように、俺もお前を……。

 

 そこまで思考を巡らせ、慌ててヨハンナから視線を逸らす。そして、自覚した。

 

(ああ、なるほど。今、また俺は自分ではない『俺』に、侵食されかけていたんだ。……きっと、認知してしまったからだろう。可能性のその先を。どいつもこいつも、俺の心に土足で上がって来やがって)

 

 闖入者を威嚇するように、息をゆっくり吐く。数秒おいて、俺はヨハンナに再度問う。

 

「ヘカテーって?」

 

 彼女は改めて、言葉を紡ぐ。

 

「境界を見守る夜の護り手。境界を跨ぐ者の足元に灯を置く女神。ヘカテーは、月と冥界、魔術、そして『境界』を司る女神です。特に、道が交わる場所、岐点の守護者とされてきました」

 

 すぅ、と風が通り抜けた。

 だが音はなく、ただ空気が動いた感触だけが残る。

 

 無秩序に浮かんだ記憶。

 どこまでも、落ちていく。

 

 空白。スペース。ブランク。

 

 暗い。寒い。寂しい。

 あなた。あなたを。あなただけを。

 

 衝き。浸き。憑き。月。

 

 あの赤黒い――(つき)

 

 ずっと、ずっと、ずっと。

 

 

 ――――見ている。

 

 

 あの時/俺は/確かに/彼女の/手を取った。

 

 

「黒殿?」

 

 ヨハンナの声に、引き戻される。

 

「いや、悪い。何でもない。続けてくれ」

「……ヘラスでは、四辻は世界が重なる場所と考えられていました。生者と死者、光と影、人と霊。その境界が薄くなる場所こそ四辻であり、ヘカテーの力がもっとも強く働く場とされています」

 

 ヨハンナは組んだ指を解き胸元で、ゆっくりと十字を切る。

 

 これまでキリストへの祈りだと思っていたその仕草は、ヘカテーに捧げる祈りだったのだろうか。

 そう理解した瞬間、世界から余計な音がすべて剥ぎ取られた気がした。

 

 視線が、首元のロザリオ――否、四辻の護符へと落ちる。俺はキリストへの信仰の象徴ではなく、境界の印を片手で握った。

 

「それはどのような場所にいても、悪しきものを退ける印になります」

 

 彼女は一度、言葉を切る。

 

「貴殿は……あのトロスまで誘われていただろう?」

「トロス?」

 

 はじめて聞いた言葉だった。英語でも、ラテン語でもない。だからこそ、俺には意味を理解できない。

 

「貴殿が森の奥に迷い込み、触れようとしていたもの。それがトロスです」

「ああ、なるほど。あのストーンサークルのことか。あれトロスって、言うのか」

 

 ヨハンナは無言で頷いた。

 

「それは黒殿をトロスに誘った存在から、貴殿を守るための護符なのです」

 

 空はどこまでも青い。

 それでも、この場所の空気は冷えていた。

 否定は、喉元まで込み上げた。

 だが、ここでは虚勢も沈黙も意味をなさない。

 

「……前から、知っていたんだな」

 

 俺が白痴の者(カエルム)に囚われていたことを。

 

「ええ、あの時からずっと」

「そっか」

「……私を責めないのですか?」

「責めるわけないだろう。むしろ、助けたくれていたことに気が付かなくて、ごめん。そして、ありがとう」

「……っ」

「何度だって言わせてくれ。ヨハンナ、俺と出会ってくれてありがとう」

「黒殿、私も――」

 

 それに続く言葉は無かった。

 だけど、それで良いんだ。

 

 その先を聞いてしまえば、俺はヨハンナを抱き締めたくなる。彼女の全てを奪ってしまいたくなる。

 

 アマルを選んだこの『俺』に、その資格はない。

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。