「――ヘカテー?」
低く抑えた声は、空気中に溶けて消えた。修道院の通用路からも外れたこの場所。ここは意図して近づかなければ、決して辿り着かない。
人の足音も届かない。ここには空と、そして俺たち二人しか存在しない。
「はい」
ヨハンナは静かに答えた。
周囲を窺う仕草すらない。誰かに聞かれる心配がないと、最初から分かり切っているかのようだ。
「ヘカテーって、どんな女神なんだ?」
問い自体は単純だ。
だが口にした瞬間、自分の声が思ったより硬いことに気づく。そんな自分自身に戸惑いを覚える。分からない。分からないからこそ、俺は「恐ろしい」と思った。そうあるべきだ、と思った。
一拍の沈黙。
ヨハンナは修道院の壁に落ちる影を一度だけ見やり、微かに息を吐いた。昏く淀むような彼女の空気が微かに震えた。
「ヨハンナ?」
「そうですね。ヘカテーは……」
ヨハンナは小さく頷いた。頷いて、何かを躊躇するように唇をきゅっと噛んだ。胸の前で指を組み合わせ、祈る――赦しを請うように。
赦されるべきではない、と思っている癖に。
お前は祈ることを止めない。
……お前は優しく、情け深く、だからこそ誰よりも脆い。その清廉さが、お前の弱さだ。いつもそうだ。もっと俺を頼ってくれ。俺にお前を守らせてくれ。お前が俺を愛するように、俺もお前を……。
そこまで思考を巡らせ、慌ててヨハンナから視線を逸らす。そして、自覚した。
(ああ、なるほど。今、また俺は自分ではない『俺』に、侵食されかけていたんだ。……きっと、認知してしまったからだろう。可能性のその先を。どいつもこいつも、俺の心に土足で上がって来やがって)
闖入者を威嚇するように、息をゆっくり吐く。数秒おいて、俺はヨハンナに再度問う。
「ヘカテーって?」
彼女は改めて、言葉を紡ぐ。
「境界を見守る夜の護り手。境界を跨ぐ者の足元に灯を置く女神。ヘカテーは、月と冥界、魔術、そして『境界』を司る女神です。特に、道が交わる場所、岐点の守護者とされてきました」
すぅ、と風が通り抜けた。
だが音はなく、ただ空気が動いた感触だけが残る。
無秩序に浮かんだ記憶。
どこまでも、落ちていく。
空白。スペース。ブランク。
暗い。寒い。寂しい。
あなた。あなたを。あなただけを。
衝き。浸き。憑き。月。
あの赤黒い――
ずっと、ずっと、ずっと。
――――見ている。
あの時/俺は/確かに/彼女の/手を取った。
「黒殿?」
ヨハンナの声に、引き戻される。
「いや、悪い。何でもない。続けてくれ」
「……ヘラスでは、四辻は世界が重なる場所と考えられていました。生者と死者、光と影、人と霊。その境界が薄くなる場所こそ四辻であり、ヘカテーの力がもっとも強く働く場とされています」
ヨハンナは組んだ指を解き胸元で、ゆっくりと十字を切る。
これまでキリストへの祈りだと思っていたその仕草は、ヘカテーに捧げる祈りだったのだろうか。
そう理解した瞬間、世界から余計な音がすべて剥ぎ取られた気がした。
視線が、首元のロザリオ――否、四辻の護符へと落ちる。俺はキリストへの信仰の象徴ではなく、境界の印を片手で握った。
「それはどのような場所にいても、悪しきものを退ける印になります」
彼女は一度、言葉を切る。
「貴殿は……あのトロスまで誘われていただろう?」
「トロス?」
はじめて聞いた言葉だった。英語でも、ラテン語でもない。だからこそ、俺には意味を理解できない。
「貴殿が森の奥に迷い込み、触れようとしていたもの。それがトロスです」
「ああ、なるほど。あのストーンサークルのことか。あれトロスって、言うのか」
ヨハンナは無言で頷いた。
「それは黒殿をトロスに誘った存在から、貴殿を守るための護符なのです」
空はどこまでも青い。
それでも、この場所の空気は冷えていた。
否定は、喉元まで込み上げた。
だが、ここでは虚勢も沈黙も意味をなさない。
「……前から、知っていたんだな」
俺が
「ええ、あの時からずっと」
「そっか」
「……私を責めないのですか?」
「責めるわけないだろう。むしろ、助けたくれていたことに気が付かなくて、ごめん。そして、ありがとう」
「……っ」
「何度だって言わせてくれ。ヨハンナ、俺と出会ってくれてありがとう」
「黒殿、私も――」
それに続く言葉は無かった。
だけど、それで良いんだ。
その先を聞いてしまえば、俺はヨハンナを抱き締めたくなる。彼女の全てを奪ってしまいたくなる。
アマルを選んだこの『俺』に、その資格はない。