「俺は本当に、本当にどうしようもない男だな」
風に紛れて消えてしまいそうな声で呟く。己を戒めるように。数秒、空を見上げてから、ヨハンナへと微笑みを向けた。
――うまく笑えているだろうか。
頬が引きつる。俺の中で、何かが軋んでいる。
「黒殿?」
「お願いだ。続きを」
教えてくれ、と彼女の言葉を遮るように告げる。
俺は本来、ここにいるはずのない未来の存在だ。
ヨハンナの言うとおり、俺がアポロンの役割を担っているのだとすれば、予言の権能――未来にして過去をも見通す観測の力を持っていることになる。
それが単一の未来に限らず、多元世界に分岐した未来までも射程に収めるのだと拡大解釈――いや、こじつけるなら、俺は無意識のうちに分岐世界線の情報を夢として受け取っていたことになる。
何度も見た、俺ではない俺の記憶。
そう考えれば、すべて辻褄が合ってしまう。
神話的な予言の力のくせに、やけにSFじみている。まるで三流小説の設定だ。
じゃあ、この世界はいったい何のジャンルだ。ファンタジーか? SFか? それともホラーか。少なくとも、ラブコメではないことは確かだ。
――お前の選択は、お前ひとりのものではない。なあ、そうだろう。
それは、俺の声なのか。
それとも、どこか別の世界の俺か。
答える者はいない。
それでも――大丈夫だ。
俺はまだ、俺でいられている。
そう言い聞かせるように、護符を握った。
「黒殿……いえ、承知しました。続けましょう」
ヨハンナは何か言いたげに名を呼びかけ、しかし途中で言葉を切り、頷いた。
「黒殿は疑問に思われたでしょう? なぜ、私がヘラスやローマ、ペルシアの神々の話をしたのか。なぜ、ヘカテーの護符を持っていたのか」
「確かに、どうしてだろうとは思っていたけど」
「黒殿……」
言葉が途切れる。
躊躇。
ヨハンナは胸元を握りしめた。それは、俺に渡したロザリオ――四辻の護符へと縋る無意識の仕草だ。
ヨハンナは一度、目を閉じる。
息を吸い、吐き――覚悟を固めるように。
「……私は異端者なのです」
「えっ、異端者?」
「そうです、黒殿。そもそもおかしいでしょう? 神に仕える修道女でありながら、四辻の女神に祈る術を知っている。その矛盾こそ、スコトゥスの血族が忌むべき罪の証左に他なりません」
「ヨハンナ」
「黒殿、私は――教会が嫌悪し、迫害すべき異端者、魔女なのです」
「待ってくれ、ヨハンナ」
ヨハンナが、魔女?
理解が追いつかない。だが、胸の奥で何かがざわつく。彼女の言葉の奥に潜む何かが揺らいでいる。
「いいえ、黒殿。聞いてください。私は修道会の犬として飼い慣らされた魔女です。略奪者にして征服者の系譜に連なる者」
修道会の犬。略奪者にして征服者の系譜。その響きが、妙に胸に引っかかる。俺はその言葉を、どこかで聞いた気がする。
「……私の祖先は、ヘラスのヘカテーに仕えた巫女でした。申し上げた通り、ヘカテーは境界、月、冥界、そして魔術を司る女神。魔女の守護者としての神格を持っているのです」
「ヘラスって……ギリシアのことだよな。そのギリシア、ヘラスにいたヘカテーの巫女が、なぜここストーンハーストに?」
「……十字軍です」
「十字軍?」
「ええ。しかし、黒殿。あれは巡礼の名を借りた征服でした。聖地への往還の途上で、あるいは東方遠征の混乱の中で、多くの村が踏みにじられました。修道騎士の剣は、祈りと同じだけの血を吸ったのです」
その光景が、脳裏に浮かぶ。
燃える村。
叫び声。
血と灰。
死。
「……」
「修道騎士に村を焼かれ、連れ去られたあげく、凌辱を受け、子を孕んだヘカテーの巫女がいました。――その末裔が、私ヨハンナ・スコトゥスなのです」
彼女は僅かに視線を伏せ、強く、強く手を握る。
ぽたり。鮮紅の血が、白い指先から滴り落ちる。芝生の上に、小さな十字のような染みを作った。
「巫女の血と、修道騎士の血。異教と十字の血が、私の中に流れている」
黒殿、私は、私はね。
穢れた混ざりものなのだよ――そうヨハンナは呟き、嗤った。それは、彼女が他ならぬ彼女自身に向けた笑みだった。
「信仰は、本来、純粋であるべきなのでしょう。巫女の血だけなら、祈りは月に届いたでしょう。騎士の血だけなら、征服者として迷いなく剣を振るえたでしょう」
だが、と彼女は続ける。
「私は、そのどちらでもない」
声は低く沈む。空気が底へと沈む。闇がこちらを見る――いや、闇の奥で、何かが目を開く。
「
「仕えるべき主って……」
ヨハンナは僅かに首を振り、視線を上げた。
それには答えられない。
いや――答えてはならない。
「黒殿……私から、ただひとつ警句を。γνῶθι σεαυτόν。たとえ境界の外から来た御身であろうと、その一線だけは越えてはなりません。ὕβρις――それこそが、もっとも忌むべき罪なのです」
「ヨハンナ……」
「黒殿。人であることを止めてはいけない。だからこそ、γνῶθι σεαυτόν」
彼女の瞳が、まっすぐ俺を射抜く。
「貴殿は、斯くあるべきなのです」