重苦しい静寂が、空気をじりじりと侵食していく。目の前に立つヨハンナは、いつになく真剣な、それでいてどこか祈るような眼差しを俺に向けていた。
「……グノーティ・セアウトン?」
聞き慣れない響きに、俺は思わずその言葉を繰り返した。舌の上で転がる音は、ひどく冷たく、無機質な食感がした。
「ああ、すまない。黒殿はヘラスの神々についてご存知だから、ついヘラスの言葉を使ってしまった。――γνῶθι σεαυτόν.『汝自身を知れ』。デルポイのアポロン神殿に刻まれていた言葉だ」
ヨハンナは微かに目を伏せ、謝罪とともにその意味を説いた。彼女の唇から零れるヘラスの言葉……古代ギリシア語は、重圧を伴って鼓膜を震わせる。
「ああ、その格言なら知っている。ソクラテスの言葉だろう?」
記憶の片隅にある教科書的な知識を引っ張り出すと、彼女は小さく首を横に振った。
「広くはそう伝わっている。だが正確には、あれはアポロン神殿の古き格言だ。ソクラテスは、それをもって人の魂を問うたのだ」
「無知の知、ってやつか」
「前から思っていたが、貴殿は妙なところで博識だな」
ヨハンナは少しだけ口角を上げたが、その瞳の奥にある陰りは消えない。彼女は一呼吸置き、静かに言葉を継いだ。
「……しかし、本来あの言葉は、己の無知を知れという意味ではない」
「そうなのか?」
意外な答えに眉を寄せると、彼女の表情から温度が消えた。
「『人は神ではない』。ヘラスの神々は、ὕβρις――傲慢を何より嫌った。己を神と同列に置こうとする者、運命すら超えられると思い上がる者をな」
「……神話によくある話だな」
俺の脳裏に、数々の悲劇が浮かぶ。空を飛ぼうとして墜落したイカロス、自らの美しさを誇って怪物に変えられたメドゥーサ。そのすべてが、残酷なまでの分相応を強いる物語だ。
「ああ。栄華を極めた王が一夜で破滅する。英雄が己の力に酔い、神罰を受ける。そうした物語は枚挙に暇がない」
彼女の声は、まるで冷たい雨のように淡々と、俺の心の奥底に染み込んでくる。
「つまり、汝自身を知れってのは――」
「『お前は死にゆく運命の人間に過ぎない』。つまり、思い上がり、己の器を見誤るな、という警句の言葉なのですよ」
ヨハンナは、射抜くような視線を逸らさず、静かに続ける。
「黒殿、どうか忘れないでほしい。貴殿は太陽神の役割を与えられたとて、ただひとりの人間なのです」
「…………」
そうだ、俺はただの人間だ。なのに、状況そのものが、いつの間にか俺に人であることを辞めさせようとしている。
「己は人であると、常に心に留めなさい。神になろうとしてはならない。私はね、黒殿。黒殿には――黒殿らしくあり続けてほしいのです」
それは、彼女なりの精一杯の慈しみだったのだろう。
しばしの沈黙の後、俺は肺の底に溜まった重苦しい空気を追い出すように、小さく息を吐いた。
「……ヨハンナ」
その名を呼ぶ俺の声は、自分でも驚くほど、ひどく掠れていた。
「最近、自分が本当に自分なのか。分からなくなってくるんだ。俺の中に色んなモノが入ってきて……訳が分からなくなる」
独白するように漏れた言葉は、自身の影に吸い込まれていった。流れ込んでくる記憶。それらが濁流となって俺の境界線を削り取り、内側を塗りつぶしていく。自分の顔さえ、誰かの仮面のように思えてくる。俺は本当に俺か?
「どうか、一度だけ御名をお呼びすることをお赦しください」
ヨハンナは、一瞬だけ誰かに赦しを得るように修道院の方へと視線を送り、胸元にそっと手を置いた。
「恐れないで、大丈夫。私の瞳に映る貴殿は、間違いなく……アンドリュー殿なのですから」
――あ、俺、はじめてヨハンナに名前を呼ばれた。
ぽかんと口を開けて呆然とする俺に向けられた眼差しが、あまりにも暖かくて、思わず泣きそうになる。情けない。でも、嬉しい。
「無駄に幸せそうに笑うお人好し。頼りがいがあると思えば、どこか抜けている。硬派を気取った、無自覚なすけこまし。私が知る黒殿は、そんなお方だ。だから、安心してください。貴殿が己を見失おうとも、私が貴殿のことを覚えている」
淀みのない言葉で羅列された俺の輪郭。それはひどく不格好なものだった。けれど、彼女が紡ぐその言葉の一つ一つが、バラバラになりかけていた俺を繋ぎ止めていく。
「ヨハンナ……その、ありがとう」
胸のつかえが少しだけ取れ、俺の口元には自嘲気味な、けれど確かな苦笑が浮かんだ。
「あと、俺、すけこましじゃないからな」
俺の名誉のため、精一杯の反論を口にする。
「たわけ。やはり、黒殿は黒殿だ」
ヨハンナは呆れたように吐息をつくと、ふっと視線を斜め下へと逸らした。
「……このような殿方が何人もいては困る。とても、困る」
消え入りそうなほど小さな、独り言のような呟きだった。