「ヨハンナ?」
思わず問いかけると、彼女はハッと我に返ったように長い睫毛を震わせ、幾度か瞬きをした。
「んん……こほん、何でもありません。黒殿、私が先ほど申し上げたことを
わざとらしい咳払いで声を整えた彼女は、いつもの頑な修道女の仮面を被り直した。
唐突に切り出されたその言葉に、俺は怪訝に眉を寄せる。
「対抗する術って、さっきの呪文みたいなやつのことか?」
「ええ、その通りです。
「結構、何でもありな呪文なんだな」
少しでもこの場に漂う重苦しい空気を和らげたくて、俺はわざと茶化すように笑ってみせた。けれど、ヨハンナの表情は微塵も緩まない。彼女はむしろ、さらに視線を鋭くして言葉を重ねた。
「そうですね。これは私が知る中で最も汎用性が高い呪文のひとつです。エフェソスの文字は、
ヨハンナは一歩、俺との距離を詰めて踏み込んできた。彼女がまとっている衣服から、微かに檸檬の落ち着く匂いが鼻腔をくすぐる。しかし、それ以上に彼女の真剣な眼差しが、俺の瞳の奥をじっと射抜いていた。
「この呪文を貴殿にお教えするのは、これが一番、貴殿との相性が良いと考えたからです」
「俺と相性が良い? ヘラスの言葉なんて、俺の生まれ育ったとこじゃあ学術書か博物館の石碑でしか見かけない代物だぞ」
「生まれや言語など、人間が定めた表面上の都合など意味を成しません。神秘の領域において重要なのは、その系譜です。この文字は、かつてエフェソスのアルテミス神像に刻まれていたもの。……貴殿には、それが何を意味するかもうお分かりでしょう?」
「――ああ」
なるほど、と俺は頷く。
ギリシア神話における光明神アポロンと、月の女神アルテミス。二人は同じ母から生まれた双子の兄妹、あるいは姉弟とされる。
今の俺がアポロンの役割を背負わされているのだとしたら、その半身とも言える女神の呪文が馴染むという理屈は、確かに腑に落ちるものだった。
「それだけではありません。アルテミスは、三位一体の女神ヘカテーとも深い繋がりがある女神です。ご説明したとおり、ヘカテーは魔術と境界、そして道行く者の選択を司る女神。黒殿は、遥か遠い未来から境界を越え、このストーンハーストに来訪された。また、以前貴殿にお渡しした
ヨハンナはさらに言葉を紡ぐ。
「エフェソスの文字と四辻の護符を合わせれば、白痴の者の干渉や悪意ある呪いを、さらに強固に防ぐことができるでしょう」
「確かに、この護符を貰ってから悪夢を見ることがほとんどなくなったな。毎晩のように得体の知れない悪夢に押し潰されそうな感覚に陥っていたのが、嘘みたいだ。ヨハンナには、本当に感謝してる」
俺は無意識のうちに、胸元にある護符へと手を触れていた。その護符は、不思議と仄かにあたたかい。
俺が護符に手を触れるその動作を、ヨハンナはなぞるように見つめ、それから寂しげに細い眉をひそめて目を伏せた。
「貴殿には、改めて忠告を」
ぽつり、と彼女の唇から零れ落ちた言葉は、これまでの魔術的な解説とは明らかに一線を画す、感情の質量を秘めているように思えた。
「あのお方は、確かに貴殿を守護している。その強大すぎる力で、貴殿の肉体を、その命を、あらゆる外敵から遠ざけているでしょう。ですが……それだけでは足りない。あのお方は、一番重要な、貴殿の『心』を護ることができない。なぜなら――――」
彼女の唇が、目に見えて躊躇うように小刻みに震えた。何か恐ろしい禁忌を口にしてしまうかのように、胸の前でその白い両手を固く重ね合わせる。
指先が白くなるほどに強く握り締められたその両手は、まるで届かぬ神への祈りのようでもあり、あるいは己の内に燃える不敬な感情を押し殺すための枷のようでもあった。
「――――あの方は、人の心が分からない」
祈りとは、一体誰に届くのだろう。
救いを求め、これまで幾人の人間が祈りを積み重ねてきたのだろうか。その無数の祈りは、果たして天上の神へと届いたのか。それとも、ただ
「貴殿がこのストーンハーストに迷い込み、何も知らぬまま、あの方に救いの手を差し伸べた。そして、あのお方は……その手を取った。……取ってしまったのです」
まるで告解室の奥で罪を告白する信徒のようなその姿を見て、ズキリと俺の胸が軋む。
「あのお方は貴殿の温もりを知り、初めて己という存在を自覚した。それまでただそこに在るだけだったあの方が、貴殿という存在を通じて己を得たのです。……長い、長い幼年期は、そこで終わった。あの方は、貴殿を父のように敬い、兄のように慕い、そして――ひとりの殿方として愛しているでしょう。……狂おしいほどに」
ヨハンナが口にしたその言葉の響きには、祝福など微塵も存在しなかった。それはまるで、触れれば全てを焼き尽くす劫火か、あるいは底無しの沼のような、昏い気配を孕んでいた。
「ですが、黒殿。忘れてはなりません。幼年期を終えたとて、あの方の心はなお幼く、圧倒的に脆い。だからこそ、人間の細やかな心の
彼女が懸念しているのは、あの方――おそらく、アマルの未熟な心故の危うさなのだろう。
アマルが気付かない間に、俺の心が白痴の者に侵食され、音もなく内側から壊れてしまうのではないか。ヨハンナはそれを危惧しているのだ。
アマルは時折、まるで俺の全てを見透かすような、心を読むような鋭さを見せることがあるが、それは人間的な共感や理解によるものではない。それだけは、理解できた。
そもそも、俺はアマルのことを何も知らない。彼女の過去も、その真実も、その無垢な心の内側に潜む深淵も。
俺が何度目かの自己嫌悪に沈みそうになったその時、ヨハンナが、俺の頬へとその指先を添えた。
「黒殿、貴殿は己の心を自ら守る術を身に付ける必要がある。貴殿を狙う濁った闇に、その精神ごと呑み込まれぬために。……幸いなことに、私はそれを教えることができる。毒を知るからこそ、解毒の法を説けるのです。……ああ、この穢れた魔女がお役に立てるとは、なんと
彼女はそこで力なく、自嘲の笑みをその薄い唇に刻んだ。自分を蔑むことで、どうにかこの場に踏みとどまっているかのような、痛々しい笑みだった。
「頼むから、そんなこと言うなよ」
自嘲する彼女の言葉を、俺は強い口調で遮った。これ以上、彼女が自分自身を傷つけるような言葉を聞き続けることなんてできなかった。俺は添えられた彼女の手に重ねる。
「ヨハンナは穢れてなんかいない。……お前は、誰よりも優しい女の子だよ」
俺の言葉を聞いたヨハンナは、驚いたように目を見開いたが、すぐにそれを伏せた。肯定も否定もせず、ただ今にも水溶性の絵具のように溶けて消え入りそうなほど淡く微笑んだ。
「ヨハンナ――」
「――黒殿、これもお渡ししておきましょう」
俺が紡ぎかけた声を遮るように、彼女は静かに、いつもの理知的な声調で言葉を重ねた。
何でもないことのように、俺の頬から己の手を引き抜く。そして、彼女の指先が、流れるような動作で俺の右手を下からすくい上げた。そのまま手のひらを上へと向けさせ、包み込むようにして小さな固形物を握らせる。
彼女の手が静かに離れていく。
そっと拳を開くと、そこには暖炉の光を吸い込んだような、鮮紅の石があった。よく見ると、鬣を持つどこかおどろおどろしい表情を浮かべた人と、その下に麦のような植物が彫られている。
「えっと、これは?」
「
宝石魔術?
なんかまた新たな用語がでてきた。色んな意味で、理解が追い付かない。あまりにも短時間に、超自然的な内容を叩き付けられ精神力がごりごり削れていく。
「……そ、そうだな。ありがとう。ちなみに、この鬣のある怖い顔をした人って」
「ああ、それはゴルゴーン。それと、それは鬣ではなく蛇です」
何それこっわ。
思わず顔がひきつった。