ヨハンナのおかげで、だいぶ気が晴れた。
いや、あいつのせいで随分疲れもしたが、そこだけは感謝してやっても良い。むしろ、そこだけしか感謝できない。神に祈る前に、そのドSっぷりを悔い改めろってんだ。
本人がいない間に、心の中で毒づく俺である。面と向かって言う度胸はない。ヘタレ? いいや、これこそ平和主義の賜物だ。日本人として当然の姿勢である。……自分でも正直無理があると思ったことは秘密だ。
俺は芝生から立ち上がって、身体についた草をはたき落とす。ぐっと背伸びをしてから、深呼吸。
このままで修道院に戻るのは芸がないので、散歩がてらに敷地を歩くことにした。修道院の敷地は広大だ。歩きがいがある。
ストーンハースト……知らない場所、知らない世界。日本ではないどこかに、修道院はひっそりと佇んでいる。
何故俺はここにいるのか。自身が存在する意義なんて、ついぞ俺は見出すことはできなかった。それでも、尚ここに自身の存在理由を求め続ける。それは、一種の義務感に似た感情だった。
ゆっくりと、足を進める。
葡萄畑、新緑の香り、揺らめく木々。
聖堂から聞こえる讃美歌。
全てが心地よい。
たまにはこういう日があっても良いだろう。春の陽気に包まれて、穏やかに過ごす日があって良いだろう。
***
夜、自室にて。
ベッドに寝転がり気を抜いてる俺の横に腰かけたアマルが、俺の顔を見てぽつりと呟いた。
「アンディ様、なんだか表情がお変わりになりましたね」
「そうか? 別にいつもと変わらないと思うけど」
「いいえ、お変わりになりました。私には分かります」
即答だった。
アマルは真剣に俺の顔を見詰める。ぐっと顔を寄せてくる。キスする一歩手前の距離。鮮紅色の瞳が、俺を離さない。視界一杯に、女神のような美貌が広がる。艶のある桃色の唇から甘い吐息が漏れ、俺の唇にあたる。息でキスしてるみたいだった。
くそ、思考がそっち方面に行ってしまう。止まれ俺の桃色思考。アマルを引き離そうと伸ばした手が、彼女の柔らかすぎる胸に当たった。
「ひゃん、あっ、アンディ様っ」
ああ、主よ、なぜ我を見捨てたもう。
オウマイゴッド、ホーリーシットっ!
思わず、祈っているようでそうでない罵倒を心の中で吐き捨てる。
「違う。故意ではないんだ。偶然手が胸に当たったというか。なんというか。すごく柔らかくて、大変素晴らしい……正直、すまんかった」
「アンディ様、その、もっと、お触りになりますか?」
「ーーーーすぅ」
えっ、いいの? と、思わず聞き返しそうになる自分を深呼吸して必死に押し止める。危ない。マジ、危ない。引っかけ問題よりたちが悪い。
「近い近い」
アマルの額を押す。
心臓に悪い。美人は至近距離で見ても美人だから始末に終えない。本当にやめてほしい。アマルはむっとした表情。それすらも可愛い。美人って得だなぁ。
「近くないです。これが私とアンディ様の適正距離です」
「そんな訳あるか!」
「むぅ」
嘘をつけ。
堂々とした物言いに、一瞬納得しかけてしまったじゃないか。アマルは日々強くなっている。主に俺に対して。その成長っぷりに、末恐ろしささえ感じる今日この頃。
「俺なんかよりアマルの方が変わったと思うぞ」
「変わってません」
「いいや、変わった」
アマルは怪訝そうに首をかしげ、眉をひそめた。俺はその様子を見て微笑む。
「どこが変わったと言うのですか?」
「んー、そうだなぁ」
思い出すのは、その無機質な紅瞳。どこかを見て、どこも見ていない空虚な視線。人工物のように整いすぎた冷たい美貌。さらさらとした、銀糸の髪。
―ーそして、断続的に音を出す壊れたラジオみたいな雰囲気。いや、壊れながらそれでも……それでも必死に音を出し続けているラジオみたいな、そんな雰囲気。
「全部。表情とか、声音とか。態度も。会ったばっかりは、言っちゃ悪いが無表情で人形みたいな感じだった。でも今は、すぐにヤキモチ妬いて泣くし、甘えん坊、その上寂しがり屋で、……打たれ弱い」
「ううっ、アンディさまぁ」
良いところなんて1つもないではないですかぁ。と、泣き言を漏らすアマルに、よしよしと頭を撫でる。
……ほら、やっぱり打たれ弱い。
「――でも、俺は今のアマルの方が好きだ。すぐにヤキモチ妬いて泣くのは、その分俺を想ってくれてのことだし。甘えん坊なところはすごく可愛い。寂しがり屋なアマルを守ってやりたいと思うし、打たれ弱いお前を俺はちゃんと慰めたいと思う。――そうか、そういう意味なら、確かに俺も変わったな」
なるほど、納得である。捨てられた子犬みたいなアマルをほっとけなかった。つい構い倒して、甘やかし、それから、ずるずるとこういう関係になっていった。絆されるとは、まさにこのことか。
俺は笑ってアマルを見やる。アマルは首元まで真っ赤に染めて、固まっていた。瞳を潤ませ、唇を震わせている。
「……アマル?」
「ずるい」
アマルは顔を伏せ、シュミーズの裾を強く握った。
「ずるい、ずるいずるい! アンディ様はずるい!」
「おいおい、何がずるいんだよ」
「私ばかりずるい!」
「……意味分からん」
「もうっ、何故分からないのです!」
「怒るなよ」
「怒っていません!」
ずるいずるいと、ぐずるアマルを諌めながら、ため息をつく。
女の子は不思議なことに、何故か突然怒り出す。そういうときは、何も言わず話を聞いてやることが一番良い。下手に突っつくと爆発する。正に、やぶ蛇というやつだ。故に、沈黙こそ賢い男の行動なのだ。
マザーグースの童謡の一説にこういうものがある。
――女の子は何でできている?
――女の子は砂糖にスパイス、それに素敵な何かでできている。
俺が思うに、きっとその素敵な何かを男は一生理解できない、そういう風に神様が作ったのだろう。だから、女の子が突然怒ったり、泣き出したり、笑ったりしても動揺するな。
きっとそれは、素敵な何かのせいなのだ。
理解できないなら、それでもいい。分かり合うのではなく、歩調を合わせるのではなく。お互いちぐはぐでも、側にいて話を聞くよと、言えばいい。
女の子が求めるのは、いつだってたったひとつ。
そのたったひとつだけなのである。
「むぅ、ずるいっ、ずるいです!」
「だから、怒るなって。ちゃんとお前の話を聞くからさ」
「アマルは怒っていませんッ。……怒ってないですから、とりあえずぎゅっとして下さい」
この応酬は、もう暫く続きそうだ。
誤字脱字の訂正ありがとうございます。