暗い暗い闇の中。
目的もなく、さまよい歩く。
どこへ行くかも分からない。
どこにいるかも分からない。
それでも、歩みを止めないのは、
いつか見た日溜まりを、忘れられないからだろう。
――忘れたくはないからだろう。
***
深夜。
密かな尿意から、目が覚める。まだ暗闇に包まれる静寂な部屋の中、自分以外の吐息が聞こえた。胸に暖かく華奢な身体が絡み付き、甘い香りが鼻を擽る。
アマルと同じベッドで寝始め暫くたったが、目覚めた時に彼女の顔が近くにあると、未だに胸が踊る。まるで思春期真っ盛りの中学生みたいだ、と自分自身に呆れてしまう。
「全く童貞じゃあるまいに、いい年をした大人が情けない」
そう呟いて、唇の片端を歪ませた。社会に揉まれ、俺もずいぶん汚れちまった。それでも尚、心の片隅に純情という化石が残っていたらしい。世紀の大発見かもしれないな。
……この話はもう止めよう。悲しくなってきた。
少女の髪にそっと顔を寄せて、その匂いを吸い込む。果実の熟れた香り、花が虫を誘うような蠱惑的な匂い。香水の刺激臭ではなく、仄かに香る体臭が心地いい。
満足するまで匂いを嗅いで、そっと身体を離す。起こさないように起き上がり、ベッドに腰かける。
手探りで何とか上着を着て、俺は静かに自室を後にする。厠は修道院の外にある。毎回外に出るのも面倒だが、こればかりは仕方がない。
視界は真っ暗闇に包まれている。恐怖はない。自身が闇に溶け同化しているからなのだろうか。そんなくだらないことを考えながら、歩きだす。
夜に修道院の中を彷徨くのも怖くて、蝋燭を片手にびくびくしながら歩いていた1年前の自分が懐かしい。今では、道順を覚え暗くとも歩けるまでになった。蝋燭は貴重だ。使わないにこしたことはない。それに、今日は満月。それがあるから、光には困らないだろう。
静かに廊下を歩いていると、微かに話し声が聞こえた。その声を辿るように視線を向ける。そうすると、図書室と扉の隙間から明かりがこぼれているのを見つけた。
誰かが図書室の中にいるのか。起床時間でもないこの時間に何だろう。扉の前まで行き、無作法だとは思ったが好奇心に負け耳を澄ませる。
「どうかご決断を……いつまで放置するおつもりか!」
「しかし……我々には誓約がある。それを破ることはできまい」
「その誓約なぞ、いかほどのものか! 王が崩御された今、何の効力もないでしょう。……貴方は一体何を恐れるのです」
(……この声はサルスとベネディクト修道司祭か?)
何の話だろうか。少なくとも不穏な話題であろうことは分かるが。重々しい雰囲気が伝わってくる。
「だが、秘密は隠さねばなるまい。それを分かって言っているのか」
「もちろんですとも。確かに、秘密は甘美なものだ。……でも、お気づきでしょう? その甘美さは人を惑わし滅びへと誘う悪腫でもある。だからこそ、暴き鉄槌を下さねばならぬ。恐ろしい、死を植え付けねばならぬ」
誓約に、秘密。それと、王の崩御がどのような関係あるのだろうか。
「王の庇護を失った今でないとなし得ないことだ。カエサルのものはカエサルに、神のものは神に。我々は、ただそう動けばよいのです」
ベネディクト修道司祭は、それを聞いて黙り込んだ。サルスはそのまま言葉を続ける。
「好奇は、自身を傷つけるやもしれません。それが、どうというのです。秘密を白日の元にさらすことができれば、教会の威信を強めることにも繋がります。主もそれを望んでいらっしゃる。これは、正しい行いなのです」
「……少し、考えさせてくれぬか」
いいでしょうと、憎たらしいサルスの声が聞こえた。ならば、またお答えを聞かせてもらいます。それと同時にこちらに向かう足音が響いた。
――まずい、こっちに来る。
慌てて、俺は音を立てないように廊下を移動した。廊下の角に身体を潜め、図書室の扉を伺う。ぎぃ、と悲鳴のような音が鳴って、扉が開けられた。サルスは燭台を持って、ゆっくりと自室の方に向かって歩いていった。
「それでも、原初にして白痴の悪夢は終わらぬよ。だからこそ、我らは役目を果たさねばならぬ。……ああ、ニールセン。君はそれさえも忘れたか。残念だ。誠に残念だよ、ニールセン」
ベネディクト修道司祭の悲痛な声が、暗闇の中に消えていった。
***
トイレを済ませて、俺は自室に戻ってきた。
先程のサルスとベネディクト修道司祭のやり取りを思い出して、背筋がぞくりとする。あのサルスの言葉。まさか、アマルに関係があることなのだろうか。
俺は布団に入り、冷めた身体を暖める。するりと、細い腕が首に回された。
「あんでぃさまぁ、どこにいっていたのですか。わたくしをひとりにしないでぇ。あまるは、あまるはとてもさびしいです」
「アマル、起こしたか。悪かった。ちゃんと戻ってきたから」
「はい、でももうどこにもいかないで。わたくしといっしょ。ずっといっしょ。あまるはあんでぃさまと、いっしょがいい」
寝ぼけているのか、呂律が回らない口調で話しかけられる。可愛い。ほっとする。
「アマル、お前こそ俺の側にいろ。離れるなよ」
頭を撫でて、細い腰に手を回す。アマルの存在を確かめるように、引き寄せた。
俺が守ってやらないと。
この嫉妬深く甘えん坊で、寂しがり屋な上打たれ弱い……ただひとりの女の子を、俺は守ってやらないと。アマルを強く抱きしめて、頭に顔を埋める。甘い匂いに誘われて、俺は瞼をゆっくりと閉じた。