膝に乗って、正面から抱きつくアマル。
簡単に言うと、対面座位の格好だ。イヤらしい意味ではなく。言葉のまま受け止めて欲しい。イヤらしい意味ではなく。
……大切なことだから二回言いました。
彼女は首筋に顔を埋め、すんすんと匂いを嗅ぐ。
「あの、もしかして臭うか?」
「いいえ。ただ違う臭いが混ざって……私の……れ…てる」
最後まで聞き取れず、思わず首をかしげる。数秒鼻を鳴らしてから、アマルはパっと顔を上げ、苛立った瞳を隠さず俺を見た。尖った声で、詰め寄ってくる。
「アンディ様、私以外の女人の香りがします」
「はぁ? 何言ってるんだ」
「……香りが、付いています。私以外の臭いがべったりと付いているのです。まさか、その腕で抱いたのですか。抱き締めて、愛を囁いたのですか!」
「どうしてそうなるんだ! そんな覚えなんて……あっ」
先程、ヨハンナの部屋での会話を思い出す。最後の場面で、ヨハンナは俺に近づき耳元で囁いた。その時に香りが移ったのだろうか。いや、まさか本当にそれだけで?
俺の反応を見て、アマルは目を見開き唇を強く噛んだ。
「アンディ様には、私がいるのに。……私には、手を出してくれなかったのに。許してくれなかったのに。その女よりも絶対に、アマルの方がアンディ様をお慕いしています。一体私に、何が足りないというのですかっ!」
「あの、いや、ち、違う。俺とヨハンナは話していただけだ!」
その言葉を聞いて、アマルはゆっくりと顔を伏せた。陽炎が揺らめくように、何かが蠢く。チリチリと、首の後ろがむず痒い。危険を知らせるように、心臓が早打った。
「ーー話していただけで、香りが移るものですかっ」
アマルは吐き捨てるよう呟いた。それを見て俺は何も言えなくなった。ヨハンナとの会話の内容についてなど、話せる訳もない。咄嗟に嘘をつけるほど、器用じゃない自分がこの時ばかりは恨めしい。
「ヨハンナ……ヨハンナ・スコトゥスっ! 修道会の犬、略奪者であり征服者の系譜に連なるもの。よくも、よくも、アンディ様を誑かして……!」
血のような深紅の瞳に暗い影を落とし、アマルは唸った。
「……あ、アマル?」
「アンディ様、貴方様は以前、嫌なことがあれば言うようにと仰いましたね。……アマルは他の女人にアンディ様を取られるのが嫌です。触るのも話しかけるのも、笑い合うのも嫌です。誰にも渡したくない。貴方様が私以外を望もうと、絶対に。絶対にっ!」
俺は呆然とアマルの苛烈な変貌を眺める。
狂信的なほどの慕情、執着、それがアマルを突き動かしている。心をくべて、情念を燃やし、その後にいったい何が残る。灰か、塵か。
――それとも炭のように硬く凝縮された、憎悪か。
***
いつにも増して静謐な夜だった。
あの後、俺はアマルと会話をすることなく寝る準備に取りかかった。
彼女は俺の顔色を伺うように、チラチラと何度も俺を見てきたが、あえて気づかない振りをした。アマルはそれを繰り返して、その都度泣きそうに視線を落す。
勿論、アマルを嫌いになった訳ではない。ただ、今彼女にどう接して良いのか分からなかった。
アマルはローブを脱いで、シュミーズになった。俺も上を脱いで上半身裸になり、ズボンを履き替える。その時に、
……アンディ様と、震えたか細い声で名前を呼ばれた。
透き通った声音に、心臓が跳ねる。そんな俺を尻目に、アマルは手を迷わせ、何度も躊躇するように引っ込めたり伸ばしたり。一拍置いてから、意を決し伸ばされたその手を、俺は反射的に払ってしまった。それは、どこか自己防衛の動作にも似ていた。アマルに何かされる訳でもないのに、俺は何故彼女の手を払ったのだろうか?
「えっ、あ……んでぃ、さま?」
アマルは呆然と振り払われた自身の手と俺の顔を交互に見て、固まった。息を止めたように、微動だにしない。
数十秒たちやっと状況が飲み込めたのか、顔を真っ青にしてこの世の終わりのような表情を浮かべた。
「ご、ごめんなさい、アンディ様。アマルが何か粗相をしたなら謝ります。許して、許してください」
ずるすると冷たい石床に座り込んだアマルは、平伏して祈るように何度も許しを懇願する。
「よせ、そんなことしなくて良い!」
「いや、いやぁ! 離して! 離してよぉ! ごめんなさいしないと、アンディ様が遠くに行っちゃう。
以前カタリナの件でも、精神的に不安定になり錯乱した。しかし今回は、それよりももっと根が深いように思えた。目の前にいる俺のことも見えてないようだった。
「アマルっ! 俺を見ろ! 俺を見るんだ!」
暴れるアマルを何とか抱き寄せる。頬を挟み俺の顔に向き合わさせる。彼女はボロボロと大粒の涙を流しながら、嗚咽を漏らし続けている。アマルと、何度も名前を呼ぶ。
少しして平常心を失い虚ろだった瞳に光が戻り、俺の存在を認ると安心したように抵抗を止めた。
「……ああ、アンディ様、ごめんなさいっ」
「謝らなくても良いよ。お前は悪いことなんてしてないだろ。手を払って悪かった。びっくりしただけなんだ。アマル、俺を許してくれるか?」
「は、はい! 許します! だから、だからっ! どこにも行かないで!」
「ああ、分かった。分かったから、ほら立って。寝巻きに埃が付いちゃったな。ああ、顔にも付いてるぞ」
アマルを引っ張って立たせると、シュミーズに付いた埃を払ってやる。それから、頬や額に付いた汚れを優しく拭った。
彼女は俺が手を払った理由も分からないようだったのに、自分が悪いのだ許してほしいと顔を床に擦り付けた。俺に拒絶されたのがショックで、悲しくて、それでも行かないでと泣いたのだ。たったひとつの糸を繋ぎ止めるために、戸惑いなく土下座をした。そうさせてしまった自身に、強い憤りを感じる。
俺はいつだってそうだった。大切な人を思う気持ちが空回る。そう、あの時だってーーー
ーーーノイズが走る。
蠢く影。
あの場所。
俺を、呼ぶ声。
(違う。俺は、あの時とは違う。止めろ。止めてくれ。俺は置いて行ったりしない。俺は、もう二度と……)
深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。どくり、と騒がしく躍動する心臓に、くそったれ静かにしろっ、と心の中で毒づいた。
「置いていかないよ」
「はいっ、っはい、アンディ様」
喘ぐような頼りない声。アマルは俺の背中に手を回し、身体を寄せる。離さない、離れない。そんな気持ちが伝わってきた。
俺の行動ひとつで、ジェンガのように崩れ落ちる。アマルはそれほど俺に依存している。彼女は俺との繋がりを命綱に、毎日を過ごしていたのだろうか。
……そこに、アマルの心の闇を垣間見た気がした。