聖者の牢獄   作:桂太郎(テムヒ)

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這いずる音

 

 

 

 

 ―――ズルズル。

 

 闇から、這いずる音が聞こえる。

 冒涜的で穢らわしい獣。

 恐ろしくも憐れな空身よ。

 濁った血に呪われるがいい。

 堕ちた赤子の声を聞くがいい。

 殺戮の報いを受けるがいい。

 

 ずっと、ずっと終わりなく。

 

 その罪を贖うその日まで、覚めぬ悪夢を見るがよい。

 

 

 

 ***

 

 

 目が覚めた。

 恐ろしい夢を見ていた。恐ろしい夢を見ていたことは理解しているが、内容は何故か思い出せない。

 

 冷や汗が頬を伝う。胸が痛いくらい鼓動していた。思わず胸を押さえる。静まれ。騒ぐな。深呼吸して、気持ちを落ち着かせる。心が平静を取り戻すと、感覚を取り戻すことができた。

 

「……っはぁ、悪夢を見ていたことは覚えているのに、その中身は空っぽだ。そういうのが一番、モヤモヤする。……って」

 

 左肩に程よい重さを感じる。身動ぐとそれに合わせて、鼻にかかった可愛らしい声が漏れた。

 

「……アマル」

 

「ふにゅ、えへへ」

 

 緩みきった寝顔だった。良い夢を見ているのだろうか。是非ともあやかりたいものである。

 そっと、アマルの髪に顔を埋める。安心する匂い。

 

(……似ている)

 

 ああ、とても懐かしい匂いだ。全く違う人間なのに、アマルはアイツと雰囲気が似ている。

 

 目を閉じ、意識して息を吸う。

 そして、何故だろう、と思った。こんなにも胸が切なくなるのは、何故だろう。そう疑問を投じてはみたが、別段その答えなんて持ち合わせてないし、求めてもいなかった。 

 

 そもそも、自分が今どんな感情を抱いているのさえ、水溶性の絵の具みたいにあやふやだ。嬉しいのか。悲しいのか。苦しいのか。俺は他人以上に自分のことが分からない。ツンっと、鼻の奥が傷んだ。

 

「んっ、あんでぃ……さま?」

 

「……ああ、悪い。起こしちゃったな」 

 

「ふふっ、良いのですよ。アンディ様、おはようございます」

 

「おう、おはよう」

 

 俺は頭をひと撫でしてから起き上がり、ベッドを降りて手探りで燭台に明かりを灯す。室内が蝋燭の暖かい光で包まれた。

 

 後ろを振り返るとアマルは身を起こして、髪を手櫛で整えていた。とはいっても、艶やかな腰まである髪に、寝癖がついているところなんて、今まで一度だって見たことがない。俺の視線に気がついたのか、恥ずかしげに目を伏せ、頬に朱を差した。それがひどく可愛らしかった。

 

 俺が着替えようとするのを見ると、アマルはベッドから降りて足早に駆け寄ってくる。そしてタンスから服を取り出し、そっと差し出てくれた。

 

 礼を言って、上着を着る。更にズボンを履き替えると、アマルは甲斐甲斐しく脱いだズボンを回収し、それを畳んでから机の上に置いた。

 

「悪いな、アマル」

 

「いいえ。アンディ様のお世話をすることが、何より私の喜びなのです」

 

 胸に寄り添い、上目遣い。いじらしく、潤んだ瞳。控えめに服を引っ張られる。その静かな主張に思わず苦笑して、身を屈ませアマルの瑞々しい唇に合わせるだけのキスをした。

 

 

 

 ***

 

 

 

 ミサの時間を狙って、書庫に入る。

 

 埃とカビの臭いが漂う。それを大きく肺に吸い込んで、思わず咳込んでしまった。咳が落ち着いてから、気を取り直し俺は本の背表紙をひとつひとつ確認していく。

 

 修道院の歴史が分かる類の書籍。

 

「んー、ないなぁ」

 

 書庫内の本棚を何周かしてみたが、それらしき本は見当たらない。上の棚も調べたが何もない。無駄足だったか。困ったな。八方塞がりだ。こめかみを揉んで、小さくため息を吐いた。あてが外れて、がっくりとする。

 

 そういや以前異教のことを調べたときも、今回のように何も出てこなかった。そう古びた羊皮紙ぐらいで……あれ、羊皮紙? 

 

 そう言えば、途切れ途切れの書きなぐりの羊皮紙に、誓約という言葉がはいっていなかったか?

 

 俺は記憶の糸を手繰り寄せる。

 

 何かの戒律と思って、そのとき気にしていなかったのがだが、あれこそ秘密を守るための誓約なのではないだろうか。

 

(あの後、俺は羊皮紙をどうしてんだっけ……)

 

 確かミサの終わりを告げる聖堂の扉が開く音が聞こえて、羊皮紙を元の場所に戻すことももどかしく、そのまま服のポケットに突っ込んだ。それから、それから……。

 

 思い出せない。

 とりあえず、部屋に戻ろう。

 書庫に戻した記憶がないということは、部屋にまだあるということだ。まだ希望はある。

 

 はやる気持ちを押さえ、書庫を出る。澄まし顔で廊下を歩く。頭の中はあの羊皮紙で一杯だ。だって、羊皮紙が見つかれば、真実に一歩近づく……かもしれない。もちろん、無関係の可能性もあるが。

 

 くそ、駄目だ。考えが纏まらない。俺はこんなにもできない男だったのか。思考が濃霧にのまれたようだ。方向性を失った人は、足を容易に踏み外す。慎重にならないと、そう自分に言い聞かせる。大丈夫。濃霧はいつか必ず晴れるものだ。

 

 俺は回廊を進む。そして、廊下を曲がろうとしたところで嫌な奴と出会った。

 

「……ふんっ、朝から嫌な顔を見たものだ」 

 

「それはこちらの台詞だ」

 

 出会い頭に、嫌味を言うサルスにいらっとしながら、憮然として答える。性格が悪いくせに、イケメンだから余計腹が立つ。ハゲてしまえ。

 

「そう言ってられるのも今のうちだぞ、この異教徒め」

 

「異教徒って、サルス……いや、めんどくさいな。はぁ、言いたいことがそれだけなら、俺はもう行くぞ」

 

「……あの女も終わりだ。穢れた獣。異教の胎児。それに魅入られた貴様も同じこと。それが運のつきだったな」

 

「サルス、お前何を言ってるんだ……」

 

「もうすぐだ。もうすぐ。貴様らに神の鉄槌が下されるだろう。それまで泡沫の夢を見るがいい。―――それが悪夢に変わるまで」

 

「…………っ、お前」 

 

「くは、ふはは」

 

 淀んだ目で、サルスは俺を眺めて嗤った。

 茫然と固まる俺を置いて、高笑いしながら回廊を後にした。それがひどく腹立たしかった。

 

 

 

 


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