聖者の牢獄   作:桂太郎(テムヒ)

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赤黒い泥の中

 

 

 人体彫刻に手が触れた瞬間、頭の中に直接何かが大量に流れ込んできた。

 

 真っ白なキャンパスに、絵の具をぐちゃぐちゃと塗りたくられる感覚。頭が割れるように痛い。

 

 熱い。

 苦しい。

 血が沸騰する。

 どうにかなってしまいそうだ。

 

 テレビの砂嵐の音に似たノイズが断続的に聞こえる。

 

 数秒かあるいは数分して、脳のキャパシティが臨界点に達したのか、一気に意識が遠退いていった。

 

 

 ***

 

 

 その日までは、平穏な日々であった。

 

 麦穂の海。その海原に吹き渡る風の音。楽しげな娘たちの歌声。透き通る歌声に励まされ、男たちは畑を耕し、狩に勤しむ。それを尻目に、元気に走り回る子どもたち。その様子を微笑ましく見つめる老人たち。

 

 ずっと続くと思っていた。

 日溜まりで、誰もが笑っていた。

 刺激はないが、柔らかい幸せの中で私たちは生きていた。

 

 その微睡みの日々を切り裂き、お前たちはやって来た。剣を携え、鎧を身に纏った無慈悲なる征服者。

 

 ―――悲鳴が聞こえる。

 

 炎に包まれた視界。喉が焼けるほど燃え上がった空気。焦げた死の臭い。

 

 そこに家屋、動物、人、境界線などない。生きているのも死んでいるのも等しく同じだ。概念的な話ではない。遅いか早いかの違いである。

 

 死んでるもの。いまから死ぬもの。

 ただそれだけの違いだ。

 

 埋め尽くさんばかりの死。

 黒焦げ砕け散らばる死。

 無惨にも切り捨てられた死。

 

 死んでいる死ぬ死死死死死死死――死ね。

 

 嘆きも恐怖も恨みも、全てを内包した泥がこの世界を侵食する。器から死が溢れ、我らを侵蝕する。ズルズルと、死が這いずる音がする。

 

 ああ、ほらまた死んだ。 

 炎で、その剣で、その憎悪で。

 

 お前たちの信じる神は死んだのだ、と征服者の声が聞こえた。

 

 違う、死んだのはお前たちの神だ。その冒涜的な傲慢の果てに、地へと堕ちたのだ。

 

 お前たちも同じこと。名誉も栄光も虚構。暴虐と殺戮、獣のような貪欲さ。

 

 人でありながら、人を見失った者たちよ。

 お前たちは死ぬ。ここで死ぬ。我らの神が殺す。

 お前たちは、もう終わりだ。

 

 ああ。

 しかし、良いだろう。

 空虚なお前たちの主に従い、今は奪うが良い。犯すが良い。殺すが良い。

 

 だが、いつか贖いたまえよ。

 

 その血をもって。

 ずっとずっと先の先、この汚泥が洗い流されるそのときまで。

 

 征服者よ。

 赤い十字に誓い、捧げよ。

 その胎を、その赤子を、その血を捧げよ。

 

 我らの神は、ここにいる。

 見つかる。

 見ている。

 目が合う。

 合ってしまう……あの―――

 

 

 

 

「……ディっ……まっ! アン……ディさま! アンディ様!」

 

 俺を呼ぶ声が聞こえる。

 

「このお方は、汝らが望む赤子ではない。穢れた血を継ぐ者などでは決してないっ!」

 

 影がざわめく。

 赤黒い泥が、欲しがっている。

 手まねいている。

 俺を見つめている。

 

「下がれ! たとえ汝らでも、冒してはならないものがあろうっ! このお方に手を出すことは妾が許さぬ。泥の中に戻るがよい。妾の愛しきお方に、これ以上近付くなっ!」

 

 強く抱き締められる。

 落ち着く匂いが鼻腔に広がった。

 咲きほこる花のような、熟れた果実のような。

 

 何故かとても安心して、意識が再び落ちていった。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 目が覚めると、そこはもう礼拝堂ではなかった。

 

(ここは……俺の部屋、か?)

 

 むくりと、身体を起こす。詰めていた息を吐いて、深く空気を吸い込む。もう沢山だ、と心の中で毒づいた。ストーンハーストに来てから、現実と夢の境界があやふやになる。考えも纏まらない。頭が空っぽになり、自分が自分でなくなってしまう感覚に苛まれる。

 

 まだ、夢を……悪夢を見ている気分だ。

 

(俺は……どうなっていくんだろう。どうなってしまうんだろう)

 

 ぼんやりと、俺は答えのない問いを虚空に投げ掛けた。安藤隆という存在は、ストーンハーストにおいて異物でしかない。そして、俺はそれを自覚しながら、異物である事実にどこか安堵を覚えていたのかもしれない。

 

 修道士たちから腫れ物のように扱われることに、居心地の悪さを感じながらも、俺はまだこちらの世界の住人ではないと思っていたかったのか。何とも格好が悪い。

 

 顔を上げ、部屋を見渡す。夜が明け、朝日が窓から差し込んでいる。脳が覚醒するまで、窓から差し込む陽光を眺める。暫くそうしていると、隣で呻き声が聞こえた。

 

 視線を隣に向ける。

 川のように広がる銀糸の髪。透き通るほど白い肌。幼さを残した完璧な美貌。

 

「……アマル?」

 

 魘されているようだった。苦しそうな声を何度も漏らして、眉をひそめている。悪夢でも見ているのだろうか。

 

 アマルの身体を揺すり、声をかける。

 

「アマル、アマル起きろ。大丈夫か?」

 

「……んっ、はぁっ、あ、アンディ、さまぁ」

 

 うっすら目を開けて、アマルは小さく俺の名を呼んだ。焦点の合わない瞳が、俺の姿を認めると急激に視線が定まる。

 彼女は直ぐに身を起こすと、強く抱きついてきた。

 

「アンディさまっ! ああっ、ようございました。アンディ様は礼拝堂で倒れていたのですよ。私生きた心地がしませんでした」

 

「……ごめん。心配かけちゃったな」

 

「どこか……どこか痛いところやおかしいところはございませんか?」

 

 身体をペタペタと触られる。

 くすぐったい。

 その必死な表情に、思わず顔が緩む。

 

「大丈夫だよ」

 

 短くそう答えて、アマルの細い手を優しく絡めとり、自身の頬に当てた。アマルは俺の顔を穴が空くほど見詰めて、安心したように息をついた。

 

「貴方様が無事で本当に良かった。アンディ様……愛しています。だから、どうかどこにも行かないで」

 

「ああ、俺はどこにも行かないよ」

 

 俺がそう言うと、アマルは瞳を潤ませた。

 上目遣いで俺を見てから、服を引っ張り屈むようにおねだり。俺が屈むと顔を寄せ、祈るように唇を重ねた。何度も触れるだけの甘く蕩ける口づけを繰り返す。しっとりと柔らかい唇が追い縋り、求めてくる。

 

 思えば、アマルからキスをしてきたのは初めてかもしれない。催促されたことはあれど、自分からというのはなかった。俺は嬉しくなって、少女の背中に手を回す。

 

 折れてしまうぐらい華奢で小さな身体をそっと抱き締めた。

 

 

 

 

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