いつものように畑仕事を一通り終わらせ、礼拝のため先に戻るフランチェスコを見送った。
俺は、ひとり井戸で汗を流す。冷たい井戸水が今は心地良い。
「Amazing grace! How sweet the sound! That saved a wretch like me! I once was lost, but now I am found Was blind, but now I see――」
歌う。
鼻歌混じりに。何とはなしに。
低い声で旋律をなぞる。
特に理由はなかったけど、歌いたい気分だった。
その時、頭に浮かんだのがこの曲で。
目を閉じる。
柔らかい夕日が、瞼を通してぼんやりと射し込んだ。
「――Twas grace that taught my heart to fear, and grace my fears relieved. How precious did that grace appear. The hour I first believed」
そこまで歌うと一息ついて、水に濡れる髪を後ろに撫で付ける。
パチパチと、後ろから手を叩く音がした。
恐る恐る振り返る。
そこには赤みがかった陽光に照らされたヨハンナが佇んでいた。
歌を聞かれていたことに、恥ずかしさを覚える。決まりが悪くてそっぽを向いた。
「な、なんだよ。聞いてたのかよ」
「ええ、とても……素晴らしい歌でした」
「ぐっ、うるさい。……でも、そのありがと」
恥ずかしいのに誉められて、嬉しくなる。我ながら単純だな、と思う。
ヨハンナは、目を細めて優しげに微笑んだ。
それから、俺の側まで近付いて、懐からハンカチを取り出した。濡れた頬を、そっと拭いてくれる。その女性らしい仕草に、不本意ながら胸が踊った。ハンカチから、良い香りがする。柑橘系の爽やかな匂いだ。
「そのハンカチ、だいぶ濡れちゃったな……」
「ああ、気にして頂かなくて結構です。好きでしたことですから」
俺はハンカチを持つヨハンナの手を握った。それから、ハンカチを引っ張って奪い取る。
「馬鹿、気にする。これちゃんと洗って返すから」
「……っ」
言葉を発しても返事がなく、不思議に思ってヨハンナを見る。只でさえ夕日に照らされているのに、さらにその顔を真っ赤にさせて固まっていた。
「おーい。ヨハンナ? ヨハンナさん? 大丈夫? 聞いてるかー?」
顔の前で手を上下に振ってみる。
ぺたり、と力なく手を叩かれて止められた。
ヨハンナはぐっと唇を噛み、こちらを睨み付けてくる。それに合わせて長い睫毛が震えた。威嚇してるようだけど逆効果で、むしろ――ーー。
「―――ー可愛い」
ヨハンナの息を呑む音を聞いて、俺は正気に返った。自分の言葉を反芻して、今度はこっちが真っ赤になる。
「あああっ! 今の、今のなし! 違うから、そんなんじゃないから! 俺にはアマルがいるから!」
「む、無論だ」
ヨハンナはこくこくと何度も頷く。
俺は赤くなった顔を隠すため、片手で顔を覆った。
暫く気まずい沈黙が続く。
それを破ったのは、ヨハンナの方だった。
「……そのような讃美歌、初めて聞きました」
「えっ? ああ、『Amazing Grace』のことか。この歌は元々船乗りが作った歌なんだよ」
「船乗り……ですか?」
「うん。でもただの船乗りじゃない。奴隷貿易に関わる奴隷船の船長だったんだ。横柄な人柄で、強引に連れてきた奴隷を家畜以下に扱っていた。でもある日の航海で大嵐に遭遇し、船は難破しかける。その時、彼は初めて心から神に祈った。その祈りが届いたのか沈没は免れ、命は救われた」
空を仰ぐ。
黄昏の空が柔らかくこの世界を包んでいる。
「きっとその時思ったんだ。船乗りは自分の手が、どんなに汚れていたのか。自身が死にそうになってはじめて、その痛みを苦しみを、そして死を奴隷たちに与えてたことに気づいた。……自身の罪深さに気づいたんだよ」
脳裏に礼拝堂で見たあの光景が浮かんだ。きっとあれはここで実際に起こった過去なのだろう。
「そうか……ならば、その船乗りは正しく幸福だ」
「……ヨハンナ?」
「自身でその罪深さに気付けたのだから」
ヨハンナは修道院に視線をやった。
「……私たちはいつになったら、それに気付けると言うのだろうな」
その姿はとても不安定で、消え去りそうだった。
止めろ。お前にそんな顔似合わない。ふんぞり反って、意地悪く笑えよ。
ヨハンナは俺の顔を見て驚いたように、目を見開いた。
「そんな悲しい顔されては、困ります……」
「それは俺の台詞だ! ああもうっ、調子狂うな!」
「私、そんな顔をしていましたか?」
「ああ、してた。……お前さ。真面目なのは良いけど、あんまり抱え込み過ぎんなよ。辛いなら、俺に言ってくれ。何もできなくても、一緒に悩んでやることはできるから」
ヨハンナの手を握った。
指は細いのに、掌は硬かった。野球好きの叔父が、このような掌をしていたのを思い出した。何かを長い間振るっていた者の手だ。
「黒殿は本当に……間抜けだな」
「なんだと!? 俺がせっかく心配してるのにだな」
耳元で囁かれた。
「忘れたのですか? 私はあの方を殺すためにここにいるのですよ」
「……忘れてない。でも、お前はそんなことしない。1年間一緒に生活をおくってるんだ。それぐらい分かる。俺はお前を信じてる。ヨハンナだからこそ、信じてる」
「黒殿は本当に、ずるいお方だ。だからこそ私は……」
日溜まりのように微笑んだヨハンナは、とても綺麗だった。
「歌って、頂けるでしょうか。その歌の続きを――ーー」
そっと繋いだ手を握り返してくる。柔らかい口調で発せられた言葉に答え、歌を紡いだ。
「Amazing grace. How sweet the soundーーーー」
――ー―それは、なんて素晴らしき神の恩寵。