ヨハンナと別れ、低く抜けるような陽気さで鼻歌を歌いながら修道院に入る。廊下を暫く歩き、自室にたどり着いた。部屋の扉を開こうとして気付く。
(あれ……これってヤバくないか?)
ヨハンナに耳元で囁かれただけで、香りがべったりついていると以前アマルは怒り狂ったことがある。
今回、ヨハンナの香りが移ったハンカチで顔や髪を拭かれ、手を握ったし、耳元で囁かれた。アマルで言うと、これってどうなのだろう。香水をそのまま被ったぐらい濃く匂うのだろうか。
(いや、でも待ってくれ。俺は疚しいことは何もしていないぞ!)
俺は自分にそう言い聞かせた。ヨハンナのことは親しい友人だと思っている。だが、それはあくまでも俺の認識であって、アマルの認識ではない。あっ、駄目な気がしてきた。
長身を屈め、頭を抱える。
アマルよりもずっと大きく、柔らかさも優しさもない自身の掌で、乱雑に頭をかき回した。
「ひとまわり年下の女の子に、尻にしかれている気がする……。うわ、俺情けなさすぎでは?」
アマルはこの掌が大好きだと笑っていたが、プルプル震えている手を見てもそう言えるのだろうか。いや、絶対に好きだって言う気がする。アマルは駄目男製造機(俺専用)だし。
まぁ、それはそれとして、ちゃんと説明したら分かってくれるはずだ。たぶん。……分かってくれたら良いなぁ。
(……うん、やっぱもう一回水を浴びてこよう)
危ない橋は渡らない。
慎重さが必要となる場合もある。
踵を返そうとしてーー
「アンディさま? お帰りになられたのですか?」
ーー部屋の中にいるアマルに呼び止められた。
汗が頬を伝う。喉はカラカラに渇いている。何か声を発する前に扉が開いた。
銀髪の髪がふわりと舞い、現実離れした妖精のような美貌が顔を覗かせる。俺の姿を認めると、少女は嬉しくて堪らないという笑顔を浮かべた。
「アンディ様、おかえりなさいませっ!」
「あ、ああ、ただいま」
「はい。ずっと、お待ちしておりました。ふふっ、アンディ様、ぎゅっとしてください」
そう言って、抱きついてくる。10代の少女特有の柔らかさを感じる。アマルは俺の胸にぐりぐりと顔を押し付け、匂いを嗅いでピタリと身体の動きを止めた。
(あっ、終わった)
いや、まだ諦めるには早すぎる。頑張れ俺!
意を決して、弁明を試みる。
「あの、違うからな!」
「……私まだ何も申し上げておりませんが?」
出鼻を挫かれた。
感情の籠っていない声に思わず怯んでしまう。一回り年下の女の子に尻に敷かれている気がする、というか実際に敷かれている自分が情けなくて、俺はがっくりと肩を落とした。
「アンディ様、またヨハンナ・スコトゥスと……」
何も言わずして、相手がヨハンナであることを当ててきたのはそこまで驚いていない。前回の匂いを覚えていたのだろう。
アマルは顔を伏せて、声を震わした。聞き取ることも難しい声音で呟く。聞こえて欲しくないとでも言うようだった。
「アンディ様は、ヨハンナ・スコトゥスを……す、好いていらっしゃるのですか?」
「俺がヨハンナを?」
「はい」
「それはまさか、恋愛対象としてってことか?」
「……は、い」
ヨハンナに対して嫉妬するなら分かる。
でもこの問いは、俺の気持ち自体を疑っている、という風に捉えられる。というか、疑ってるんだろうなぁ。正直、面白くない。
「なぁ、仮に俺がヨハンナのことを女として好きだと言ったら、どうするんだ?」
そう言った瞬間、アマルの瞳からぼろぼろと水滴が落ちてきた。上手く呼吸ができないのか喘鳴が聞こえる。顔は真っ青になって、今にも倒れそうだった。
「……し、死にますっ! あの女とアンディ様が一緒になるなんて絶対に耐えられません。私、死にますからっ!」
……極端すぎるだろ。
俺はアマルを抱きしめた。
背中を撫でて、落ち着かせる。
「こら、簡単に死ぬとか言うなよ。仮にって言ったろう。あのなぁ、ヨハンナとはただの友達だ。なんでそこを疑うんだよ」
「でも、でもっ! アンディ様……」
でも、と言いながらすがり付いてくる。べそをかき不安でしようがない、と言った様子。捨てられた子犬がふるふる震えてるような感じだ。そこに可愛さを見い出す俺も、相当この少女にやられていると思った。
「お前は俺の歴とした彼女なんだから、自信持ってくれよ」
「彼女……?」
「恋人ってこと。……俺はお前のこと、ちゃんと、その……愛して、いますので」
面と向かって、愛を囁くのが苦手なのは俺が日本人だからだろうと、心の中で言い訳する。自身の下手くそな告白に辟易としているが、後悔はない。ただ羞恥は捨てきれず、自分でも顔が赤くなってることを自覚している。
俺の言葉を聞いて、アマルは後光が差すような眩しい笑顔を浮かべた。先程までべそをかいていたのに、この変わり身の早さ。まさに今泣いた烏がもう笑った状態である。
「私も! 私も、アンディ様を愛していますっ!」
「うん、知ってる。ありがとな」
ぎゅうぎゅうと、強く抱きついてくる子犬を横抱きに抱き上げる。アマルは短く悲鳴をあげで、俺の首に手を回した。
少女は華奢で、とても軽い。
楽しくなって、部屋の中をくるくる回わる。銀髪が天の川みたいに広がった。アマルは目を白黒させ、必死に体を寄せてくる。俺は笑って、彼女を抱き上げたままベットに腰かけた。
「もうっ、アンディ様ったら!」
「あはは、悪い悪い。嫌だったか?」
「……アンディ様は意地悪です。アマルがどう思っているか分かってるくせに」
頬を膨らませ、拗ねるアマル。
バレたか、と微笑んで、その膨らんだ頬を両手で挟んで揉む。瑞々しい肌が手に吸い付いてくる。
そういや、前もこうやって頬を挟んだことがあったっけ。その時は、まだ覚悟もなくてアマルの鼻を摘まんで誤魔化したんだ。でも今は違う。堂々とアマルを受け止めることができる。
俺はそのまま顔を寄せて、少女に唇を落とした。何度かバードキスを繰り返す。可憐な唇を舌で濡らして、軽く噛みつく。そして、恥ずかしそうに開いた唇の隙間に、すかさず舌を滑り込ませた。控えに縮こまった舌を探り当て、絡め取る。緊張を解すように優しく舌を吸って、歯茎をなぞる。
アマルも俺の求めについてこようと必死に、だが不器用に舌を這わせた。その不馴れでたどたどしい様が愛しくて、角度を変えて更に深く唇を合わせた。
暫くそうして舌を絡ませ合い、これ以上は理性が保てなくなる、というタイミングで唇を離す。それに合わせ、つぅーと唾液が糸を引いた。
アマルは恍惚とした表情を浮かべ、それから俺の胸に体を預けて、そっと呟く。
「アンディ様は……私を恋人にして下さるのですか?」
「何を今さら。俺はお前を受け入れてからずっとお前を彼女だって思ってたんだが」
「嬉しいっ! 私、アンディ様の恋人なのですね!」
アマルは俺の身体をベットに押し倒すやいなや、顔中にキスの雨を降らした。くすぐったい、と言いながらも満更じゃない俺である。
ただ、今までアマルが俺との関係をどう思っていたのか。ここまで不安がった理由を察して、少しげんなりした。
こいつは間違いなく俺が初恋なのだろう。
だからこそ勝手が分からないのは至極当然で。きっと恋のいろはを、教えてくれる存在すらこの少女にはいなかったのだろう。
それに教会は女性を子どもを産むための存在として捉え、それ以外なんのために存在しているのだというスタンスであったし、恋愛は結婚を前提にしたもので、その結婚すら親同士のやり取りの中でのみ交わされた。そういう背景も手伝って、アマルの恋愛観に影を落としているのだろう。
だから、年上として俺がちゃんとリードしてやらねばならないのだ。その責任重大さに、思わずため息が漏れた。