思いの外、早くに畑仕事が一段落した。
いつものように、汗を井戸で流す。井戸水を頭から被って、火照った身体を冷やす。身体を念入りに洗ってから、滴り落ちる水滴を身を震わせ払い落とした。
現代の衛生の知識を持っている身としては、清潔に人一倍気を使う。
(病気になると、まともな治療が受けられないから気を付けないといけないな。現代なら問題ないちょっとした風邪や伝染病でもここでは命取りになる)
公衆衛生が発展したのは、産業革命以降のことだと記憶している。それは鉄道などの交通機関の発展や工場を中心とした都市の発展。さらにその都市に働き口を求め、農村部の人口が流れることにより、感染症が流行したためであった。
逆に、中世ヨーロッパではキリスト教的思想から、疫病はあくまでも神の意思であり、懲罰であると考えられていた。つまるところ、信じる者は救われる。救われないのは、神への愛が足りないからだ……と言う訳である。
なぜ疫病が起こるのか、というそもそもの原因に目を向けることはなく、予防という概念すら存在しなかった。医療はキリスト教思想の支配下に置かれ、停滞していたと言える。
その停滞が疫病による多くの死者を生んだのは、ある意味当然の帰結であろう。それどころか、疫病自体を神の懲罰としながらも、目には見えない恐怖を消化するため人々がとった行動は、他者への攻撃であったのだから全く始末に終えない。
不幸なことに、金貸しなどが多く富裕であったユダヤ人は、その差別の矛先に立たされることになる。
また、宗教的狂気は黒死病を恐れる民衆によって、魔女狩りという形で大量虐殺を招いたのだから、公衆衛生の概念が如何に大切か伺い知れることができる。
宗教に基づく正義は正統であるが、異端にもなり得る。つまるところ、何を善とするか悪とするかはその時の時世や社会背景、各々の文化によって変動する。正義とは、そんな二律背反で不確かなものなのだ。
そこまで考えて、俺は思わず身震いをした。
宗教というものは、考え方によって人を救うこともあれば、人を殺すこともある。信仰そのものは悪ではない。問題は、信仰が盲信や狂気にすり変わることなのだ。
(……取り扱いには、十分注意ってことだな。でも、こんなこと考えてること自体アウトなんだろうけど)
公衆衛生もそうだが、科学的思考を持つ者は弾圧された時代だ。地動説を唱えたガリレオも、聖書の教義に反するとされ異端審問を受け有罪となった。なんにせよ、中世ヨーロッパは知識人にとって、生き辛い世の中だったのは間違いない。
特に、キリスト教は排他的な思想だ。現代の価値観を持つ俺は弾圧の対象になるだろう。だからこそ、息を潜めじっと隠れていなければならない。下手なことを言って、罰せられるのは勘弁願いたい。
禁固刑ならまだしも……いや、禁固刑も本当に嫌だが、それ以上に処刑なんてされたら目にも当てられない。
現代でさえ、LGBTQであると言うだけで、異端とされ犯罪として刑罰の対象になり、最悪死刑が規定されている国もあるのだ。その根本には宗教が関わっているのは公然の事実だ。それが中世ともなれば、もっと根深いだろう。
触らぬ神に祟りなし、とはまさにこの事である。
「――ーーそこで間抜けに立ち呆けていると、風邪を引きますよ」
涼やかな声音。
冷たいながらも、どこか柔らかい口調。
「……誰が間抜けに突っ立ってるって?」
振り返る。
濃い金髪、蒼穹の瞳。
辛辣な物言いに相反して、優しげな表情。
俺の顔を見て、ヨハンナは微かに唇を緩めた。
こいつ、俺が井戸で水浴びしているときに高確率で出現するな。そんなに見たいのか。
……嘘です、すいません。
「誰もなにも、それはご自身が一番分かっていらっしゃるでしょう?」
そんなことも分からないのですが? と、首を傾げて、こちらを見つめてくる。可愛らしい動作なのに、可愛くない。何なら、口元が蠢いてる。どう見ても、俺の反応を見て楽しんでるぞちくしょうめ。
「……うっせ、このドSが」
ボソリと呟いた俺の言葉を聞いて、ヨハンナは悪戯をした子どもを嗜めるような顔をした。怒っているふりをしながらも、瞳は微睡みの中にいるように穏やかだった。止めろ。そんな優しい顔をするな。ときめいちゃうだろうが。
「そんな乱暴な言葉を使うなんて、あまり感心しないな」
そっぽを向く。
無言の抵抗である。
「ふふっ、黒殿は本当に意地っ張りな殿方だ……」
笑い声が聞こえた。
頬に手を添えられ、顔を正面に向かされる。子ども扱いか。ヨハンナは微笑んでいた。水滴を拭うように、頬を何度も撫でられる。恥ずかしくなって、両手で彼女の手を掴んだ。
「馬鹿、止めろ。……その、恥ずかしいだろ。というか距離が近い」
「恥ずかしがることは何もありません。風邪を引かれたら困りますから、こうしているだけです。黒殿は基本だらしないですから」
「お前は俺のオカンか!」
ヨハンナは俺の両手を優しくほどいて、ぺちりと頬を叩いた。
「誰が貴方の母親か。私はまだ18です。こんな大きな子を持った覚えはありません」
「……えっ、ヨハンナって、18歳なのか? サバ読んでない?」
「喧嘩を売っているなら買うが?」
いらっとした口調。怒ってらっしゃる。女性に年齢の話しは禁句だったか。僅かに細められた瞳が、嘘ではないことを物語っていた。
「本当なのか。本当に18歳? 本当に本当?」
「ええ、本当ですが何か問題でも?」
ヨハンナはそう言って、両手を軽く握り前に出す。その構えは、まごうことなきファイティングポーズ。す、隙がない。というか、何故修道女が迷いなくファイティングポーズを構えられるの? 末恐ろしいわ。勝てる気がしない。勝とうとも思わない。
俺は両手を上げて、直ぐに降参した。
だから、武装解除をお願いします。
「スゥーーいえ、問題ありません。ごめんなさい。謝るから拳下げて、その厳つい構えを解いてくださいお願いします」
「……はぁ、全く貴殿は」
何が厳つい構えだ、とヨハンナは苦笑して、拳をさげた。許してくれたらしい。そもそも本気ではなかったのだろう。このお茶目さんが!
しかし、まさかヨハンナが未成年だったとは。いや、まあ、ここでの価値観でいうともう大人なんだろうが、俺的にはアウトだ。
数え年で18歳ならまだ17歳ってことだろう?
若っ、若すぎる。
アマルもそうだが、ヨハンナも大人びていて20代前半ぐらいだと思ってた。西洋人だから余計そう見える。逆に俺は若く見られているのかもしれないな。嫌な予感がするが、一応聞いとくか。本当に嫌な予感がするが。
「なぁ、ヨハンナ。ちなみに俺って何歳ぐらいに見える?」
「何ですか、突然。……そうですね。私と同じぐらいの歳、でしょうか?」
思わずしゃがみこんで、ため息を吐く。嘘だろ。思ったより、ずっと若く見られてた。
上目遣いでヨハンナ見上げ、唸るように呟いた。
「俺、今28歳だから。数えでいうと、29歳か。お前より10歳は年上だ」
「……それは、誠ですか?」
「おう、本当も本当だ。アジア人は若く見られるから、しょうがないけど」
「その……も、申し訳ありません。私、てっきり同じぐらいか年下だと思って、失礼なことを……」
目に見えて、狼狽えるヨハンナ。わたわたと、腕を行ったり来たりさせている。慌てすぎ。
あー、同じか年下だと思ってたから、今までこうやって絡んできてくれたのか。
「確かにお前より年上だけど、気にするな」
「しかし、私は貴殿に対して礼に欠けた行いをしていたのですよ……?」
「俺はお前とこうやって、気安く話すのが嫌いじゃない。……だから良いんだよ。そのままのヨハンナでいてくれ」
「ーーーー分かりました。寛大な貴殿に感謝を」
「そんなことで感謝しなくても良いよ。ヨハンナは真面目だな。……でも、まぁ、それが本当にお前らしい」
「黒殿……」
ヨハンナはしゃがみこむ俺の顔を、まじまじと見つめて頬を染めた。潤んだ瞳で、すがるように瞬かせた。
彼女のその表情を見て、やましいことは何もないのに、妙な罪悪感に見舞われた。それはヨハンナの女性らしい表情に、不覚にもときめいてしまったからだろうか。
俺はそっと目を伏せ、アマルを心に思い浮かべて耐えるように目を瞑った。
誤字脱字の訂正ありがとうございます(五体投地)