聖者の牢獄   作:桂太郎(テムヒ)

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死んでもいいわ

 

 

 

 

 この地上で争いが絶えないのは、神への祈りが足りないからだ、と誰かが言った。

 

 ――いいえ、それは違う。

 

 たとえ私たちが何百何千の蟻を踏み潰しても、それを悲しむことはないでしょう。気付くことさえないでしょう。

 

 そう……神にとっての蟻は人なのです。

 故に争うが争いまいが、生きようが生きまいが、そこに何の意味もない。何の価値もないのです。

 

 祈りが足りないのではない。

 ただ、届かないだけなのです。

 

 私たちが人である限り、決して届くことはないのです。

 

 ああ、だからこそ高みを求めなさい。

 

 救いとはそこにたどり着けて初めて、得られるものなのですから――ーー 

 

 

 ***

 

           

 アマルの頭を撫でながら、俺は行為の余韻に浸っていた。華奢で小さな身体なのに、驚くほど良いプロポーションの身体。それを押し付けるように抱き付いてくるアマル。張りのある滑らかなアマルの肌がぴたりとくっつく。

 

「……アンディ様」

 

「ん、なんだ?」

 

 首を傾げる。アマルはそんな俺を見て、愛しくて堪らないと言うように瞳を細めた。

 

「アンディ様、アマルは今とても幸せです」

 

「……そっか。それはなによりだ」

 

「はい。私、こんな幸せになれるなんて、以前は思ってすらいませんでした。……アンディ様が隣にいてくれるなら、他に何もいらない。他の誰もいらない。アンディ様だけで良い。貴方様が私に微笑みかけ、優しく抱き締めてくださるなら、もういつ死んでもいいの」

 

 アマルは静かにそう言った。優しく穏やかな世界を彼女は、俺を通して見出だしたのだろう。それはどこか歪で、どこまでも純粋な想いだった。

 

「――お前、まるで二葉亭四迷みたいなこと言うんだな」

 

「フタバテイ、シメイ……ですか?」

 

「ああ。俺の国の文豪だよ。彼は外国の書物の一節に出てくる『私はあなたのものよ』という言葉を『死んでもいいわ』と訳したんだ。それは『愛してる』を『月が綺麗ですね』と訳した別の文豪の言葉の返しとして有名なんだけどな」

 

「ああ、それはとても素敵ですね……」

 

 アマルはうっとりと頬を緩めた。女子はこういう話題好きだよな。それは時代も国も変わらずというやつだ。

 

「そうか? まあ、日本人はそんなストレートに好意を伝えることはあまりしないからって、あえてそう訳したんだろうけどさ。正直、回りくどくないか?」

 

「そう、でしょうか……」

 

 アマルは何かを思案したように目を閉じた。それから数秒して、開眼すると真っ直ぐに俺の瞳を見詰めた。その真剣な表情に思わず背筋伸ばす。

 

「アンディ様、月が綺麗ですね」

 

「……もう死んでもいいよ」

 

「ーーーーッ!」

 

 アマルは身体を震わせ、軽く足を踏み鳴らした。どうやら、嬉しすぎて悶絶しているらしい。アマルにしっぽがあったら、全力でバタバタ振っている。

 

(何が『死んでも良いわ』、だ。正しい翻訳は『あなたのものよ』だろうが。……いや、まぁ、それも相当甘い言葉だけど。何にせよ、恨むぞ二葉亭四迷。このロマンチストの文豪家め)

 

 即座に反応できた自分を褒めてやりたい。普通に告白するより、こっぱずかしい。顔が熱くなる。この時ばかりはにっこりと嬉しそうに笑うアマルが恨めしかった。

 

「……アンディ様と一緒なら、こんな汚泥にまみれた世界でも美しく見えるのです。だから最後の瞬間でも、私はきっと笑って終われるでしょう」 

 

「あんまり縁起悪いことばかり言うもんじゃないぞ」 

 

 諌める俺の顔を見て、アマルは微笑んだ。それから、俺の胸板を指先でなぞりあげる。

 

「ふふっ、すいません。……でも、本当のことだもの」

 

 お淑やかな声音なのに、俺の胸を撫でる仕草は娼婦のように色っぽい。十代中頃の娘とは思えない色気だ。俺を撫でる手を取って、指を絡ませる。

 

「……まったく、そんなこと言うならアマルを最後の女になんてしてやらないからな。お前が死んだら、すっかり忘れて、別の女と付き合って結婚する。それでも良いのか?」 

 

 冗談めかして言った俺の言葉を聞いて、アマルは目を見開き、数秒フリーズした。それから、すぐに大きく肩を震わし、涙を流した。嗚咽しながら、すがり付いてくる。

 

「い、いや! いやです! そのようなことおっしゃらないで、お願い、お願い……うっ、ひっく、私、わたくしの、わたしくだけのアンディ様なの。アンディ様、アンディ様っ」

 

「あー、冗談に決まってるだろ? 泣くな泣くな。悪かった。……でも、それが嫌ならちゃんと長生きしてくれよ?」

 

 背中を撫でて落ち着かせる。抱き締めて、涙を拭いてやる。強く抱き締め返された。

 

「します。しますから、約束。約束してください。他の女のところになど行かないと……っ。アマルだけだって!」

 

「あ、ああ、分かった。……約束だ」

 

 蒼白な顔を上げて、アマルは俺を見た。涙で晴れた瞼が痛々しい。俺のちょっとした一言で、ここまで情緒不安定になるのだから発言には気を付けないといけないな。自身を戒める。

 

 錆び付いた声が聞こえた。

 

「アンディ様……ごめんなさい。でも、止められない。どうしようもないの。愛しています。ずっと、ずっと。だから……愛して」

 

 どんなに愛を交わしても、どんなに愛を誓ってもアマルは常に恐れているのだ。幸せの真ん中で、いつかかならず終わりが来るのだと膝を抱えて震えてる。

 だから、俺が側にいるうちに、死んでしまいたいと言うのだろう。死んでしまいさえすれば、少女の中で俺は永遠になるからだ。

 

 置いていくくせに、俺に対して「アマルだけだ」と約束を求めることに罪悪感を覚えている。それでも尚、言わずにいられない。

 

 そんなアマルを、俺は絶対に幸せにしてやりたい、と思った。もう怯えないように、震えないように、泣かないように。不器用でも、ぎこちなくても、情けなくても、手を握って彼女の悪夢が覚めるまで。

 

 いや、覚めてからもずっと一緒にいると笑うんだ。

 

 

 

 

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