「……ねぇ、安藤君。忙しいところ申し訳ないけど、一件患者さんの転送お願いしてもいい?」
後ろから声をかけられ、俺はパソコンを打つ手を止め振り返った。長い黒髪をきっちりアップし、パンツスーツを着こなした女性が申し訳なさそうにこちらを見ている。
「ええ、渋谷さん大丈夫ですよ」
俺はそれに鷹揚に頷く。
同僚の女性、渋谷さんはほっとしたように顔を輝かせた。元々とても美人な女性なので、その表情だけで場が華やかになる。
「ありがとう! 本当に助かるわ。今、丁度急ぎの転院調整をしていて、手が離せないの」
「開業医訪問の報告書作成が終わって、ちょうど手が空いたところなんで気にしないで下さい」
俺の職場は病院の地域連携室。地域連携室はざっくり言うと営業部のような部署である。……とは言っても、仕事は多岐に渡る。他病院への入院調整や予約調整、開業医訪問等々。忙しいがやりがいがある仕事だ。
「はい、これが診療情報よ」
「了解です」
渋谷さんから診療情報を受け取りざっと流し読む。急性期適応外のため療養型病院へ転院。腰痛……安静にして経過観察で大丈夫な患者さんか。なるほど、高齢で独居だから家には帰れない、と。
「仕事を頼んだ私が言うのも何だけど、安藤君きちんと休めているの? 最近、夜も遅いでしょう?」
「いや、お盆に墓参りも行きたくて、その前に色々終わらせておきたいんですよ」
「そっか。……でも、ちゃんと休んで息抜きもしないとダメよ? え、えっと。その、もし良かったら、なのだけど。気分転換に食事でも、どう? む、無理なら、良いのよ全然っ! 予定が空いていたらで良いから!」
渋谷さんは顔を真っ赤にして、すがるような眼差しを向けてくる。必死な姿が、失礼かもしれないけど可愛かった。思わず笑う。
「食事、良いですね。美味しいとこ探しときます」
「ほんと!?」
「ははっ、嘘言ってどうするんですか?」
「そうよね……」
頬を押さえて、彼女は微笑んだ。それから約束よ、っと念を押される。俺はそれに深くて頷いて見せた。
前から渋谷さんが好意を向けてくれていたのは、気付いていた。俺ももう27歳だし、良い機会だ。
お盆明けに食事の約束をして、俺は仕事に戻った。お盆明けが、少し楽しみになった。
***
意識が浮上する。
辺りはまだ薄暗い。夜はまだ明けていないようだった。
それにしても懐かしい夢を見ていた。
もう一年半以上前の出来事だ。
俺はお盆の墓参りの帰りに、このストーンハースト修道院に迷い混んでしまった。だから、ついぞお盆明けに食事に行くという、渋谷さんとの約束を守れなかった。それに対して、申し訳なく思う。
そもそも向こうでは、俺の扱いはどうなっているんだろう。行方不明とかか。時間だってさだかではない。もしかして、俺が消えてから時間がそれほどたっていないかもしれない。勿論、何十年もたっている可能性だってある。
俺はげんなりして、ため息を吐いた。
(日本の皆に心配……かけているんだろうな)
それを差し置いて、俺は何してんだろ。一回りも年下で未成年の女の子と懇ろな関係になって、あっちなら即逮捕ものだ。アマルを抱いたことは、後悔していないが……。
隣に寝ている少女の甘い匂いを感じながら、ちょっとした自己嫌悪。
(……少し頭冷やすか)
俺はアマルを起こさないように気を付けて、ベッドから這い出る。手探りで服を着て、そっとアマルの様子を伺う。
すぅすぅ、と可愛らしい寝息が聞こえ頬が緩んだ。今晩もずいぶん激しく何度も身体を合わせたので、疲れから眠りが深いのだろう。それを確認してから部屋を抜け出す。
真っ暗闇に包まれた廊下を歩く。
コツコツと、自身の足音が反響する。静寂故に、その音が妙に耳に残った。暫く歩くと沈黙の回廊に出た。柱を背に静かに座り込む。
空を見上げると、丸々とした大きな月が優しい光を振り撒いていた。今日は見事な満月だ。
――ー―どれくらいそれに見いっていただろうか。
急に何かの気配がして、俺は視線を空から外した。
回廊のちょうど真ん中に、誰かが立っていた。
どくり、と心臓が跳ねる。
全く気が付かなかった。
廊下を歩く音も聞こえなかったし、気配も先程まで全く感じなかった。まるで、急にそこに現れたような……。
満月の光が、その人物を照らす。
光に縁取られ、王冠のように輝く銀色の長髪。透き通るほど真っ白な肌。そして、印象的な紅眼。この世のものとは思えない幻想的な美貌。
「……アマル、どうしたんだ?」
俺の呼び掛けに少女は答えない。
ゆっくり、近づいてくる。
不協和音が聞こえる。
近づいてくるほど、その音は大きくなっていく。
「あ、まる……?」
「ええ、アンディ様」
小さく掠れる声が聞こえた。
それは間違いなくアマルの声だった。
―――ーでも、本当に?
「君は、いったい……」
アマルは、そこで初めて微笑んだ。泣いているように、微笑んだ。
「アンディ様、私はアマルティアですよ。……それ以外の何者でもありません」
「そうか。そうだよな……」
俺は自分に言い聞かせるように呟く。
どこか漠然とした違和感を覚えながらも、少女の手を引っ張って、存在を確かめるよう抱き締めた。