「ばーか。そんなことあるわけないだろ」
苦し紛れに呟く自身の言葉に呆れる。それでも、俺は空を見上げることは止めなかった。いや、止められなかった。
白昼夢。
何かに侵食されているような感覚。
溶けてしまうような……とは、言い当て妙だ。最近どうも、現実と夢の境界線が曖昧になってきている。
「貴殿は……」
そこまで言って、ヨハンナは言葉を詰まらせた。目を伏せ、ぐっと唇を噛む。
「ヨハンナ?」
「……言うべきではなかった」
「えっ?」
それは形容しがたい声音だった。後悔。悲哀。憤怒。全てのマイナスの感情が込められているかのような、闇に吐き捨てられた言葉だった。
「なぁ、それってどういう―――ー」
「……失礼する」
聞き返す前に、ヨハンナは立ち上がった。
俺の顔を一度だけ見て、無言で十字を切る。それは首を掻き切る仕草のようにも見えた。
ヨハンナはそれ以上何も語らず、踵を返して足早に歩き去って行った。
「一体、なんなんだよ……」
ヨハンナの後ろ姿を見送りながら、漠然とした不安が胸に溢れた。俺にヨハンナは何を感じ取ったのか。そして、俺は一体何に溶けようとしている?
修道院の秘密を探ろうとすると、それを邪魔するかのようにぼやける思考。間隔がどんどん狭くなる白昼夢。
水溶性のようにあやふやで輪郭がないその恐ろしさに、ひどく陰惨なため息が漏れた。
***
廊下を歩く。
湿った風が頬を撫で、通り抜けていく。
薄暗さと相まって、どこかおどろおどろしい雰囲気。
自身の足音が時を刻むようにコツコツと響く。それを聞きながら、どこに向かうとも考えず足を進めた。
「――ー―黒のお方」
呼ばれて、首だけ振り返る。
トゥニカの上からスカプリラオを着て、修道帽を被った男が静かに佇んでいた。特徴的な鷲鼻を撫で擦り、微笑んでいる。
「……ベネディクト修道司祭」
「黒のお方、ご機嫌は如何かな」
「ええ、ぼちぼちです」
「そうですが、それは良かった」
ベネディクト修道司祭は、そう言って小さく頷く。そして、複雑な感情を乗せた瞳で俺を静かに見つめた。
「ときに……貴方は神を信じますか?」
脈絡もないその問い掛けに、どきりと心臓が踊る。何故なら本当の意味で、俺は神様を信じていない。見咎めまれたような気持ちになり、思わず唾を飲み込んだ。
浅く呼吸をしてから、俺は肯定の言葉を口にした。思ってもいないことを、口にした。
「……はい。それは当然のことでしょう?」
「ええ、そうでしょう。そうでしょうとも。しかして黒のお方、そうであるなら決して祈りを止めないことです。それが、唯一我らにできることなのですから。ああ、どうか貴方に神のご加護があるように。アーメン」
「……修道司祭様にも。アーメン」
十字切る。
数秒、黙祷を捧げる。
それから、ベネディクト修道司祭は俺の顔を見て深く頷いた。彼は確かめるように、鷲鼻を撫で目だけで礼をする。
「……結構。では、私は礼拝がある故これで」
そう言って、修道司祭は俺を追い越して行った。
その後ろ姿を見ながら、俺は彼に問われた言葉を胸の内で問いかけた。
―――ー貴方は、神を信じますか?
「……居てほしいとは、思うよ」
俺にとって、神様はその程度の存在だ。その程度の存在であるべきだなのだ。脇目もふらず、信じてはいない。ただ、居てほしいとは思う。
正月には、一年の無病息災を祈る。神社へ七五三に詣でる。受験の際に、合格祈願をする。
それは年中行事や自身の願いを叶えるためのもので、信仰とは言えない。そうやって、育ってきたのだ。俺と彼らでは祈りの質が違う。
「……それでも、信じろというのか」
頭を振って、自身の呟きを打ち払った。くだらないことだ。信じるものを信じれば良い。そう心の中で何度も復唱した。
瞳を閉じる。
脳裏で、どろりとした闇を幻視した。
***
気が付けば自室の扉の前にいた。
俺の一番落ち着ける場所。
俺はひどくゆっくりと怠慢な動きで扉を開ける。
「アンディ様っ!」
部屋に足を踏み入れたと同時に名前を呼ばれる。それからすぐに、ぱふんと胸に衝撃を受けた。目線を下げるとキラキラと輝く銀色の髪が目に入る。
ふりふりと全力で尻尾を振る子犬みたいな雰囲気で、アマルは俺に抱き付く。相変わらず押しが強い。この甘えん坊の子犬め。意識して、少し雑に頭を撫でてやる。むふー、と満足げな声が聞こえた。嬉しそうで何より。
「こら、アマル。いきなり抱きついてくると、びっくりするっていつも言ってるだろ」
「ふふっ、申し訳ありません」
アマルはそう言って、悪戯が成功した子どものように笑った。1ミリも申し訳ないとは思っていない顔だった。あざとい。そして、可愛い。俺の彼女は世界一可愛い。顔が自然と緩む。
そんな俺を尻目に、アマルは俺の手を取ると、すんと匂いを嗅いで眉をひそめた。それから、すぐに甲に口付けを落とした。何度もそれを繰り返してから、アマルは戸惑いなく俺の指を咥えた。舌が執拗に指をなぶる。ちゅぷちゅぷっ、と唾液の音が響いた。指の一本一体、丁寧に舌で舐められる。それから掌も。ねっとりとした唾液に濡れた俺の手は、どこか淫靡な雰囲気を醸し出していた。
14歳、いやもう15歳か、そんな少女に手を舐められる28歳の図。
……何この、羞恥プレイ。
「……おい、アマル何してんだ」
「んっ、消毒……ですっ」
「消毒……?」
「ん、ヨハンナ・スコトゥスの……臭いがしました」
ああ、なるほど。マーキングと言う訳か。
なら納得だなって、いやいや!?
「だからって、お前なぁ!」
「……大事なことです。アンディ様は、私の恋人なのですから、私の匂いだけを身に纏うべきなのです。それ以外は許しませんから」
「あの、もう手、べとべとなんだけど……」
「我慢してください」
アマルは俺の言葉を一瞥もなく切り捨てた。
いつも誤字脱字の訂正ありがとうございます!