聖者の牢獄   作:桂太郎(テムヒ)

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ヨスガの残影

 

 

 

 正当と異端。

 

 中世ヨーロッパにおいて、それは決して避けることができない問題である。

 

 例えば、正当たるキリスト教以外の宗教は異端とされた。

 

 例えば、聖書の編纂において、正当なる福音書、それ以外の外典福音書は排除された。

 

 例えば、男性は整然とし正当な存在だが、女性は異端であり混沌な存在というキリスト教的女性蔑視の思想があった。

 

 「例えば」を探せば、際限なく涌き出てくる。その例えばの中でも取り分け興味深いものは、言語の正当と異端だ。

 

 今でこそ音声言語と書記言語は統一されているが、中世ヨーロッパでは明確に分離されていた。

 

 ラテン語と俗語。

 

 聖なるものと、俗なるもの。

 

 キリスト教の権威が猛威を振るった時代、公的な文章は全てラテン語で書かれていた。これに関しては、日本でも近世まで、漢文が公用語であったことと通じる。

 つまるところ、ラテン語であれ、漢文であれ、上流階級や知識人としてのステータスシンボルの役割を担っていたのである。

 

 中世ヨーロッパの識字率の低さの要因のひとつは、上層階級と下層階級との隔たりが生んだと言っても良いだろう。

 

 書記言語、ここではラテン語を指し、音声言語は俗語を指す。

 俗語は、ラテン語以外の人々が日常的に使っていた口語のことだ。今では公用語として使われるフランス語やドイツ語も、中世ヨーロッパでは俗語としての立ち位置だった。

 

 それが明確に分かる事柄は、ジャンヌ・ダルクの処刑裁判だ。ジャンヌ・ダルク……言わずもがな、フランスの偉人としてもっとも有名な女性のひとりである。

 

 ジャンヌが処刑裁判にかけられた際、勿論のこと証言は記録された。ジャンヌが話した内容は、まず俗語であるフランス語で書き留められる。

 

 しかし、教会はその俗語の文章を改めてラテン語に翻訳し直す。これは特別なことではなく、普遍的に行われていたことだ。ラテン語にすることによって初めて、公的な文章として成り立ったのである。

 

 問題なのは、その翻訳がどこまで正しいものなのか、ということだ。事実、裁判の記録はフランス語で書かれた原文書と差異があった。

 

 結果的に、ジャンヌが処刑されたことが何よりの証拠だ。得てして、聖なるとされた教会は、堕落し腐臭に満々ていたのだ。

 

 

 ――正当と異端、はたしてどちらが真に聖なるものであったのだろうか。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

「大分遅れちまったな……」

 

 廊下を歩きながら毒付く。

 

 葡萄畑の手入れに夢中になり、気付けば夕暮れ時だった。最近、遅くなるとアマルがくっついて離れなくなる。いや、ずっと前からそんな感じだが、それよりも強くだ。

 

 何度も舌を交わす深いキスを求め、長時間離してくれないのは序の口で、晩飯も食べずに抱いて欲しいと誘惑してきたり、トイレまで一緒に付いて来ようとしたり、依存度がどんどん高まっている気がする。

 

 

 ――というか、高まっている。

 

 

 回廊に出る。

 

 微かに夕色が差し込んだ。

 

 日没が近い。

 

 黄昏時だ。

 

 そう思うと、忘れていた記憶が甦った。

 今みたいな夕暮れ、民俗学を専攻していた大学の友人と帰路についていた時のことだ。

 

 

「今日は綺麗な夕暮れだな……」

 

 空を見上げる。

 

 夕色と藍色が混合し、夜がすぐ側まで迫っていた。

 

「ああ、確かにもう黄昏時だな。まぁ、正しくはたそかれ時なんだが」

 

 隣を歩く友人が、空を見上げて呟いた。いきなりなんだ、と俺は首を傾げる。

 

「たそ、かれ? 何だそれ?」

 

「うん、たそかれ。()(かれ)時だ。夕日が差し、逆光で隣の人の顔さえ見えなくなる時間帯。貴方は本当に自身が知る人なのか。それとも、もっと別の()()なのか。だから、誰そ彼(貴方は誰)時」

 

「へぇ、黄昏ってそういう謂れがあるんだな」

 

「ああ、それに黄昏時は『逢魔時』とも言ってな、人ならざる魔の者たちに逢いやすいとも言われているんだ。つまり、あの世とこの世の境界があやふやになる時間帯と言う訳だ」

 

 どこか不気味なトーンで彼は言葉を続けた。

 

「そう……だから、気を付けたまえよ。あちら側の住人は、いつだって君のすぐ側にいる」

 

 友人は嗤った。

 

『さてさて、俺は本当に君が知る俺なのかな――?』

 

 逆光で彼の顔が見えない。

 

 真っ黒い顔がこちらを見つめている。

 

 心臓が早打つ。

 喉が乾く。

 

 俺が答えずにいると、彼は冗談だと言って、息を吐くようにふっと笑った。

 

 

 

 ――ちりん

 

 

 

 鈴が鳴る音で、はっと我に返る。

 音の鳴った方向を見ると、そこにはアマルの部屋とあの礼拝堂に続く扉があった。

 

 自身を落ち着かせようと、瞳を閉じため息をつく。それから、目を開き扉に視線を戻すと、どくりと心臓が悲鳴を上げた。胸を抑える。暴れるな。落ち着け、何をそんなに色めきたっている。そう自身に言い聞かせながら、目の前の光景から目を離せない。

 

「ーーーー嘘、だろ」

 

 長い黒髪の女性が、扉の前に立っていた。先程は居なかった女性が、立っていたのだ。俺はたった数秒目を瞑っただけだ。一体これはどういうことだ。俺はまた白昼夢を見ているのか。

 

 女性はこちらに背を向け、顔は伺うことができない。

 

 でも、俺は彼女を()()()()()――

 

「……まさか、そんなはずない。あり得ない。絶対に。だって――」 

 

 

 ……お前は――死んだはずじゃないか。

 

 

 




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