聖者の牢獄   作:桂太郎(テムヒ)

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黄昏のアムネジア

 

 

 

 

 唸るように音を立てて、扉が開いた。

 

 彼女はこちらに振り返りもせず、静かにその奥へと消えて行く。

 

「――待って、待ってくれっ!」

 

 慌てて追いかける。

 

 そんな訳がない。アイツは死んだはずだ。これは絶対に白昼夢で、幻想なんだ。それなのに……それなのにどうして俺は彼女のあとを追っているんだ。 

 

 脇目も振らずに走った。

 がむしゃらに走った。

 

 走りながら、俺は彼女の存在を否定したいのか、その存在を肯定したいのかどちらなのだろうと考えた。考えて、考えて、結局答えは出なかった。ああ、混沌としたこの思いをどう表せばいいのだろう。

 

 重い扉を力任せで押し開き、廊下の先に視線を走らせた。

 

 奥まで規則的に取り付けられた燭台の蝋燭が揺らぐ。ぼんやりと照らされた通路。灯りがあるのに、真っ暗だと思った。

 

 意識して息を吸う。そのまま酸素を飲み込んで、一歩踏み出す。

 踏み出してしまえば、抵抗もなく闇に溶けることができた。

 

 走り出す。

 慌ただしい足音が反響する。

 

 こんなにも全力で走っているのに、すぐに追い付けないのは何故だろう。でも、そんなことどうでも良い。もう一度、ただもう一度、俺はそれだけで、それだけを――。

 

 黒い髪がふわりと舞う。

 礼拝堂に入っていく女性の姿が見えた。

 

 ――ああ、良かった。追い付けた。今度は間に合った。

 

 俺も続くように礼拝堂に足を踏み入れる。

 

 機械的に並べられた長椅子。湿った生暖かい空気。埃と腐った木の臭い。夥しい蝋燭。写し出される影。

 

 石像の前に立つ腰まで延びた黒髪の女性。俺はゆっくりと歩き、彼女に近づく。声をかける。自身の震えた消え去りそうな音が遅れて耳に入った。

 

「――静代。静代、なのか?」

 

 女性は答えない。

 答えを待つ、数秒が長く感じる。

 しんと静まり返った場所で、俺だけの吐息が妙に生々しく聞こえる。

 

 さらりと、ゆっくり髪が靡く。その動作を見て初めて彼女が振り返ったのだと分かった。恐る恐る顔を見つめる。

 

 冷涼で、つり目がちな黒い瞳。整った鼻筋にほっそりとした輪郭。青白い頬。それに比べて赤い唇。まさしく和風美人と言った容貌。慣れ親しんだ顔。

 

 その女性……安藤静代は無表情なのに、笑っているように見えた。俺はただその顔をじっと見詰めた。見詰めることしかできなかった。喉が乾く。頭がパンクしそうだ。

 

「――兄さん」

 

 ソプラノの落ち着いた声が届いた。ああ、静代。俺の妹。お前なんだな。良かった。ずっと、会いたかったんだ。俺は、お前に。

 

「静代、静代っ!」

 

 叫ぶ。

 

 静代の存在を確かめるように、何度も何度も。声がかれるくらい。いや、枯れても良い。

 

 静代は目を細めた。そこにどんな感情が込められているのかは分からない。喜んでいるのか、悲しんでいるのか……恨んでいるのか。

 

「兄さん……私の、兄さん」

 

「ああ、お前の兄ちゃんだ。安藤隆だ。……静代、会いたかった。ただ、俺はもう一度お前に……っ!」

 

「兄さん……私も会いたかったです。兄さん、貴方だけに、会いたかった」

 

「静代、俺もお前にっ!」

 

「……隆兄さん」

 

 俺の名前を呼ぶ優しい声。

 苦しい。辛い。悲しい。思考が乱れ、揺さぶられる。

 

 ああ、分かってる。分かっているさ。

 

 俺はそっと瞳を閉じた。

 

 ……静代は、死んだんだ。

 

 ほんとうは、分かっている。だって俺は彼女の死体を見た。冷たくなった遺体も、火葬場で焼かれ、細い崩れた骨も。

 

 静代が亡くなってから毎年、墓参りに訪れている。ストーンハーストに来る前も俺は冷たい墓石に手を合わせていた。

 

 だから、これはきっと――。

 

 瞳を開けると、そこには誰も居なかった。最初から、誰も居なかった。

 

 分かっていたのに。

 なぜ俺はこんなにも、悲しいんだ。

 床に水滴が落ちる音が聞こえた。

 

「静代っ……」

 

 ああ、俺は泣いていたのか。

 

 頬を触ると、滴る雫が指を濡らした。そこで初めて自身が涙を流していることに気づいた。

 

「静代、お前が幽霊でも幻想でも良いんだ。お前は俺に、会いに来てくれたんだな。そう思っても良いか。いや、そう思っていたいんだ」

 

 窓がなく空気が通る道などないのに、風が頬を撫でた。

 慰めるように、いたわるように。 

 まるで静代が側に居るように感じた。

 頬に手を当てる。

 

「静代……」

 

 兄さん、と俺を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 

「――お前が、俺をこの場所(ストーンハースト)に連れてきたのか」

 

 答えはいくら待っても返ってこなかった。

 

 

 

 

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