寝床から起き上がり、頬にかかった髪を手で払う。思考がぼんやりとはっきりしない。部屋は暗く、まだ夜明けはずっと先だろう。
机の上に置かれた燭台に火をつける。部屋の中が淡く夕日色に染まった。その様子を数分眺め、溜め息をひとつ。
(……はぁ、朝が弱いというのも考えものだな)
他人には見せられない情けない姿だと自嘲する。しかし、どうにもならない。こればかりは、体質なのだから矯正しようもない。
机に置かれた水をはったボールで顔を洗って、眠気を取る。寝巻きを脱ぎ修道女服に着替え、引き出しから櫛を取り出して髪を結い上げた。
身を整えてから、机に向かう。聖書を開いて、文字の羅列を目で追いながら、神の声に耳を傾ける。それが終わると、床に膝をつけて祈りを捧げる。
「天にまします我らの父よ、ねがわくは御名をあがめさせ給え、御国を来らせ給え、御心の天になるごとく地にもなさせ給え、我らの日用の糧を今日も与え給え」
そこまで一息に言って、私はロザリオを握る。
穏やかな日々も、優しい日溜まりも、きっと私、ヨハンナ・スコトゥスには似合わない。
――ーー強く、握る。
ぎしり、聖なる象徴が悲鳴を上げた。
「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるし給え、我らを試みにあわせず悪より救い出し給え、国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」
赦されるだろうか。
この罪を。
赦せるだろうか。
この血を。
「……アーメン」
十字を切る。
それは、首を掻き切る仕草にも似ていた。いや、と思わず口元を歪めた。似ているのではない。実際にそういうジェスチャーなのだ。
かねてから、我らはただそのために存在している。そういうものなのだから。
***
毎朝、ミサを行うため聖堂に向う。
聖堂は修道院の外にある。足早に修道院を出て、葡萄畑を横切る。流れてきた青々とした葉の香りを吸う。空気は澄み、風は心地よい。
視線を上に上げると、朝が足並みを揃えてやって来たのが分かった。東の空は明るく、その光が棚引く雲間を照らしている。きっと今日は気持ちの良い晴れになるだろう。そう思うと、思わず笑みが漏れた。
「――スコトゥス嬢」
ミサが終わり、修道院へ戻る道中声をかけられた。気づかれないように小さく息を吐いて振り向く。
「私に何用か、ニールセン修道士」
色素の薄い金髪の青年、サルス・ニールセンは目を細めてこちらを見つめていた。
「いや、その、昨日貴女があの男と親しげに話しているところを見て」
「……あの男?」
「ええ、あの黒髪の男です」
「黒殿のことか。それがどうしたというのだ」
「あの男と親しくなさるのは、どうかと……」
彼は私の顔色を伺いながら言葉を発した。全く面倒な男だ。彼が私に対してどのような感情を抱いているのか。それを考えるのも億劫だ。私は意識して顔をひそめ、ニールセンに言い放った。
「何故貴殿に、そのような指図を受けねばならぬ。誰と親しくしようと私の勝手だ」
「いえ、その、貴女のような女性が、下卑な異郷の者などと……」
「それ以上は止めて頂きたい。極めて不愉快だ」
全てを言わせない。いや、言わせたくない。歯を噛み締めて、睨み付ける。ニールセンは目に見えて狼狽えた。私はそれを見ながら、感情の籠らない口調で吐き捨てた。
「用件はそれだけだろうか? ならば、私はこれで失礼する」
それだけを言って、踵を返す。
「スコトゥス嬢、あの男はアレに魅入られているのですよ! 何故それが分からないのです!」
焦ったニールセンの声が響く。
振り返りもせず、私はそれに答えた。
「……聞こえなかったか? 私は、止めろと申し伝えたはずだ」
「スコトゥス嬢っ!」
歩みは止めない。
これ以上、話す価値はないからだ。私にとっても、この男にとっても。どちらも主張を曲げるつもりはないなら、無意味なことだ。
(それに……逆だよ、ニールセン)
アンドリュー殿が魅入られているのではない。アンドリュー殿に、あの方が魅入られているのだ。あの方は、彼のためなら何でもするだろう。だが、同時に恐れてもいる。勿論、私たちにではなくアンドリュー殿に捨てられしまうことを、である。
あの方は彼のためなら何でもするが、嫌われることを恐れ
だが、アンドリュー殿が危険に晒されるとなると話は別だ。全力で、こちらを討ちに来る。それこそどんな手を使っても。あの方にはそれができる。容易に我らを蹂躙できるのだ。それが、どうして分からない。
「……全く、ままならないものだな」
私も。
あのお方も。
この
***
「おーい、ヨハンナ!」
修道院へと続く葡萄畑を歩いていると、気の抜けたビールのような声が聞こえた。ふっと、肩が軽くなる。
「ヨハンナ、ヨハンナ! こら、無視するなよ」
「……人聞きの悪いことを言わないでください。私はあえて、見向きもしなかっただけです」
「いや、それもう無視だからな。堂々と言うから、思わず謝りかけたわ」
情けなく眉を下げる、アンドリュー殿。その可愛らしい動作に、思わず笑みが漏れる。
彼は不思議な殿方だ。綺麗な黒髪に、茶色みがかった黒い瞳。顔の彫りは浅く、異国の容貌。男性なのに、女性に対して威張りも見下しもしない。人当たりも良く、こうして私のような不躾者に接してくれる。
「なぁ、ヨハンナ。何かあったのか?」
「いいえ。どうしてですか?」
「ん、辛そうな顔をしてたから。お前、いつも溜め込みすぎなんだよ。もっと発散しろ、発散!」
ああ、敵わない。アンドリュー殿は、どうしてこうも気づいてしまうのか。気づいて、くれるのか。大丈夫。私は大丈夫だよアンドリュー殿。貴方のその優しさに、私はいつだって救われているのだから。
「なら、そうするとしよう。この、たわけがっ!」
「突然の罵倒!? ……発散しろと言ったけど、俺で発散して良いとは言ってないぞ!」
「つい」
「何がついだ。このこの!」
頬を指で優しくつつかれる。くすぐったい。私の無遠慮な言葉に、怒る訳でもなくこうして構ってくれる。それが、とても嬉しくて幸せだ。
駄目だな。もっとと、ねだりたくなる。彼は、あの方の想い人なのに。そうだ……もう、終わりにしないと。
「アン、いや……黒殿、いい加減つつくのを止めないか!」
語気を強めて、力が入らないように気を付けて手を叩き落とす。ぺちりと情けない音が聞こえた。アンドリュー殿は、それを見て嬉しそうに笑った。
「悪い悪い。でも、ちょっとは元気でたか?」
息が止まる。
ああ、名前で、呼びたい。貴殿の名前を。
でも、できない。できないのだ。貴殿の名前を呼べるのは、あの方だけ。私には、私たちには許されない。
「っ……はい、黒殿」
その声は自身で驚くほど、震えていた。
私は心の中で反芻する。
夢とは、叶うものでも、願うものでもない。いつか覚めるものなのだ。
ー――ーだからこそ、何よりも尊く、何よりも残酷だ。