聖者の牢獄   作:桂太郎(テムヒ)

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何のために十字を切るか

 

 

 

 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。

 

 ああ、主よ。

 

 暗闇が貴方を隠し、妨げようとも。

 

 その姿が見えなくとも。

 

 過去、現在、そして後に来る、永遠のお方よ。

 

 

 ――貴方だけが、聖なるお方。

 

 

 

 ***

 

 

「黒殿……大丈夫ですか? 顔が真っ青ですが」

 

 書庫を抜け出し、廊下を歩いているとヨハンナに声をかけられた。どうやら、ミサが終わったらしい。考えるのに夢中で、聖堂の扉の音が聞こえていなかったのだろう。俺は極力目を合わないようにして答える。正直、まともに話せる精神状態じゃない。

 

「あ、ああ、俺は大丈夫だよ」

 

 ヨハンナはそんな俺の顔をじっと観察して、そっと目を伏せた。それはまるで痛々しいものを見たかのような仕草だった。指先が震える。止めてくれ。そんな顔をしないでくれ。きしりと、錆びた心が悲鳴をあげた。

 

「……貴殿は、嘘が下手だな」

 

 見透かされた、と思った。不安や恐怖を抱えながら震えている情けない俺の心を。だからこそ、俺は笑った。それはせめてもの抵抗だった。

 

 

「…………うな」

 

「えっ?」

 

「そんな泣きそうな顔で笑うな」

 

 ぐっと、手を掴まれた。

 

「黒殿、こちらへ」

 

「ーーえっ? ちょっ、ヨハンナ!?」

 

 強い力で押さえ込まれ、抵抗ができない。情けなく、されるがままに連行される。

 

 ヨハンナは足早に廊下を通り抜け、俺を彼女の自室へと引き込んだ。扉を固く閉め、中から鍵をかける。驚くまもなく、背中を押されベットに座るよう促された。

 

「おい、ヨハンナっ!」

 

「しっ、静かに。じっとしてください」

 

 ヨハンナは俺の言葉を制すると、こめかみに手を押し当て、ゆっくりマッサージした。彼女の両手の暖かさがじんわりと伝わり、ほっと肩の力が抜けた。ヨハンナの柑橘系の体臭が、更に気分を落ち着かせる。

 

「少しは……落ち着きましたか?」

 

「ああ、ありがとう。ヨハンナ」

 

 ヨハンナは俺の様子を見て、優しく微笑む。暖かい日溜まりのような瞳だった。それを見て、俺は無性に泣きたくなった。

 

「……暫くこうしていましょう」

 

「ーーうん。よろしく頼む」

 

 ヨハンナの柔らかい言葉に頷く。

 アマルが知ったら、間違いなく激怒するだろう。しかし、今はこの温もりにすがっていたかった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「実は言うと、後悔しているのです」

 

 俺のこめかみに手を当てながら、ヨハンナはポツリと囁くように呟いた。俺は分からず首を傾げる。

 

「……後悔って、何に?」

 

「貴殿に……お伝えしたことを、です」

 

「……もしかして、修道院の過去を探るようにってやつか?」

 

 ヨハンナは答える代わりに、目を細めた。

 

「貴殿のことを思うなら、決して言うべきではなかった。私の考えが甘かったのだ」

 

「……ヨハンナ?」

 

「黒殿、どうかこれ以上はお止めください。近付いてはいけない。見てはいけない。話してもならない。それに気づいてしまったら……いいえ、気づかれてしまったらもう遅いのです」

 

「ヨハンナ、お前は何を言ってる。何のことを言ってるんだ」

 

「……すまない」

 

 分かってくれと、ヨハンナは懇願した。辛くて堪らないという表情。

 

「そんな顔するなよ」

 

「すまない」

 

「謝るな。ヨハンナは俺のことを想って言ってくれたんだろ? お前は本当に優しいやつだ。禁を犯しても、俺に助言をくれたり、こうやって守ろうとしてくれてる」

 

「黒、殿……」

 

「それより、ヨハンナの方こそ大丈夫なのか? 俺を助けることで、危ない目にあったりしてないよな!」

 

 はっ、とする。

 そこまで考えがいってなかった。

 そうだ。ヨハンナは禁忌とされる情報を俺に伝えてくれた。危険な目にあっていないのだろうか。そんなことになれば、償っても償いきれない。

 

「心配せずとも、私は大丈夫だ」

 

「本当だろうな? 無理してないか?」

 

「していない。私だけは本当に大丈夫なのだ」

 

「そっか。良かった。でも、無理するな。危険なことは絶対しないでくれ。俺のことは気にしないで、助けなくても良いから自分のことを大切にしろ」

 

 俺の言葉を聞いて、ヨハンナは眉を下げた。もごもごと、何かを口にしようとしたが、諦めるように顔を振った。

 

「私は……罪深い。こんな想いは、決して許されないことだ」

 

 その言葉を口にして、自身を戒めているヨハンナを見て俺は何とも言えない気持ちになった。彼女の中で、どのような感情が渦巻いているのだろうか。

 

 ヨハンナは俺の頭から手を離なす。

 

「……顔色、良くなりましたね。さあ、お部屋に戻って、今日はもうゆっくり休んでください」

 

 俺は言葉を発しようとして、止めた。何故なら、反論すること自体、ヨハンナの眼差しが拒絶していたからだ。

 

「分かった。今日はもう休むよ」

 

「それが良いでしょう」

 

 ヨハンナは優しげに微笑んだ。それから、静かに天井を見上げて十字を切る。それは神に祈るようにも、首を差し出しかき切る動作のようにも見えた。

 

 その瞬間、血に濡れるヨハンナの姿を幻視した。

 

 止めろ。

 

 心臓が、うるさい。

 

 何かに飢えるように、鼓動する。

 

 どくり。

 どくり。

 どくり。

 

 それを押さえ込むように、左胸を握る。

 

 俺は目を瞑った。

 そして、天井に阻まれ見えない空を仰ぐ。

  

 ……見えないはずの空を仰ぐ。

 

 

 ――咎人よ。

 

 ――目覚めよ、夜はまだ明けぬ。

 

 

 そんな声が脳裏に響いた。

 

 

 

 

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