聖なる者の声
巡礼の旅は長く、過酷だ。
だからこそ、神への信仰を深めることができる。苦しみ、痛み、悲しみ、その中にこそ真の救いはあるのだ。
そのためには、旅を続けなければならない。しかし、所詮女ひとりの旅路だ。外は危険に溢れ、常に死がこちらを見詰めている。
私はどこまでこの道を歩んで行けるのだろうか……。
ある村に訪れた際に村人から、森の奥深くにある修道院の話を聞いた。
曰く、祖父の祖父、そのまた祖父が子どもだった頃、その森には悪竜が住みついていた。その竜は地を這い、毒を吐き、森に入る人々を悉く闇へと引きずり込んだという。
これに困り果てた人々は、竜に許しを求めると竜はこう言ったそうだ。
「命が欲しくば、穢れなきものを我に捧げよ」
それを聞き人々は、清らかな乙女を竜の巫女として差し出した。
ある聖人がその話を聞いて、竜を退治しようとこの地にやって来た。聖人は神に祈りを捧げ、天の助けを借りて竜を討ち滅ぼした。
私はその話を聞き、好奇心からストーンハースト修道院を訪れることにした。
ストーンハーストへと鬱蒼と繁る木々にうんざりしながら、私は浅くため息をつく。頬に伝う汗を軽く拭い、気を取り直して前へと進む。
昼でも暗く淀んだ森へと足を踏み入れたのはいいが、直ぐに道を見失ってしまった。
どれくらいの時間を歩いたのか分からない。数時間なのか、あるいは数日なのか。疲労と空腹で意識が混濁しながらも、私はひたすら森の中をさ迷い歩いた。
幸い道中で力尽きる前に、私はこのストーンハースト修道院にたどり着くことができた。
これも神が与えた試練なのだろう。
***
ふと、気づけばストーンハースト修道院で暮らし始め、数週間が過ぎていた。
それは本当にあっという間のことで、自身の記憶が断続的に抜け落ちてしまっているのではないかと錯覚してしまう。そんな馬鹿なことありはしないのに、と私は誰でもなく自分自身を嘲笑した。
(……でも、何故かしら)
この修道院は、今まで見てきた修道院とどこか違うように思えた。
何故だかは、分からない。
ただ、言うなれば違和感……そう、漠然とした違和感を感じるのだ。
ここは本当に聖人が悪竜を神の威光により滅ぼした地なのだろうか。そこまで考えて、私は頭を振る。そんなことを考えて何になる。
水溶性じみた曖昧な答えしか、私は言葉にできない。何とも無知蒙昧であろうか。
やはり人とは生まれながら、罪深く愚かなのだ。
***
夜。
微かな音がして、目が覚めた。
巡礼棟には、私しか居ないため背筋が凍る。もしかして、慮外者が忍んで来たのかもしれない。このようなことは、何度も経験している。枕元に置いた護身用の短刀を掴む。
息を止めて、じっと扉を睨み付けた。
一瞬、強い風が吹き思わず目を瞑る。
再び目を開けると、何かがそこにいた。
クスクス。
「……えっ?」
笑い声が聞こえる。
軽やかな、そして透き通るような声音。
その声は、男の声ではない。むしろ、少女のそれだった。何故こんなところに少女が、と思うよりも先に名状しがたき恐怖が頭を埋めつくす。息が詰まり、言葉を発することさえままならない。
ソレを前にして、私は自身の虚弱さを呪った。
「はっ、ふっ……はぁ、ああ、あっ、あああ、いや」
クスクス。
笑う声。嗤う声。
囁くように、叫ぶように。
ズルズルと、引きずる音がする。
いや、これは這いずる音だ。
こちらにゆっくりと、向かってくる。
「こ、来ないで、ああ、いや、いやいや、近づかないでっ!」
止まらない。
ゆらゆらと、曖昧な影。
ズルズルと、生々しい音。
甲高い耳鳴りがしたかと思うと、影はピタリと止まった。
――貴方は、神を信じますか?
何を聞かれたのか分からなかった。頭が真っ白になる。
ーー貴方は神を信じますか?
もう一度、ソレは同じ言葉を繰り返した。先ほどまで、感じた威圧感は消えた。しかし、心臓を掌握されているような不快感は残っている。
一拍おいて、私はすがり付くように祈りを捧げた。
「ああ、主よ。どうか我らを罪から救い給え。どうか我らを悪から救い給え!」
――そう、でも神は貴方を信じているでしょうか?
何故か、私はそれにすぐ答えることができなかった。
意識が遠くなる。
床に崩れ落ち、動けない。
ソレは直ぐ側までやって来て、私を見下ろしているようだった。視界がぼやける。
私という存在が溶けていく。自分が矮小な存在であることを突きつけられる。叶わない。敵わない。
クスクス。
笑う。
何がそんなに楽しいのだろうか。
クスクス。
嗤う。
何がそんなに嬉しいのだろうか。
クスクス。
笑わないで。嗤わないで。
クスクス。
私を見て笑うなっ! 嗤うなっ!
クスクス
笑うな嗤うな笑嗤笑笑笑嗤嗤……笑え、嗤えっ!
――最後に見た記憶は、深紅に輝く瞳だった。
***
目が覚める。
全身ぐっしょりと寝汗で濡れている。
あれは夢だったのだろうか。
私はベッドから抜け出して、深いため息をつく。
顔を洗って、気持ちを切り替えよう。
そう思って、一歩踏み出す。そこで、私は目を見開いた。何故なら、床に這いずった跡がくっきりと残されていたからだ。
「ああ、あ、ああああああーーーーッ!!!!」
私は甲高い悲鳴を上げ、その場にへたり込んでしまった。何故、何故、何故。どうして、あれは夢ではなかったの。何故、私がこのような目にあわないといけないの?
主よ。
これはいと貴きあなたのからの試練か。
それとも悪魔からの誘惑か。
私は、ソフィア・ロメは一体なにを見たのだろうか。
エリ・エリ・レマ・サバクタニ。
神よ、何ゆえに我を見捨てたもう。
不幸属性って何か良い。