今日の俺とフランチェスコの担当は、巡礼棟の掃除であった。箒や布巾を持って、巡礼棟に入る。
居間には誰も居ない。ソフィアさんは、まだ眠っているのだろうか。もう昼間なのに、しっかり者のソフィアさんにしては珍しいことだ。
居間の掃除をフランチェスコに任せ、俺は2階の共同寝室に向かった。扉を叩いて、声をかける。
「ソフィアさん? いらっしゃいますか? アンドリューです」
返事はない。
ただ、微かに声が聞こえる。
中にいるのは間違いないようだ。
「ソフィアさん、聞こえていますか? 掃除をしに来たました。開けても大丈夫ですか?」
また、返事がない。
これは本格的におかしい。
「すいません。ソフィアさん、入りますよ!」
寝室の扉を開くと、部屋の奥でソフィアさんが踞っているが見えた。慌てて駆け寄る。
「ソフィアさん、大丈夫ですか!」
肩を揺すって、声をかけるが反応はない。ただ、じんわりと手に体温が伝わり少しほっとする。しかし、正常な状態ではないのは確かだ。
「ソフィアさん……?」
ソフィアさんは、一心不乱に何かを呟いているようだ。耳をすませる。
「エ……レ、タニ……。リ……マ、サ……。ああ、エリ……ク……!」
これは、座り込んでいるのではなく、祈りを捧げているのだろうか? ただ内容は切れと切れで、意味までは分からない。
「ソフィアさん、俺だ。アンドリューだ。大丈夫だから、こっちを見て」
ソフィアさんは、身体を震わした。
「見る……見る? ああああっ、いや、いやっ、離して、来ないで!!!」
ソフィアさんはいきなり叫び出す。慌てて身体を抑える。完全に錯乱状態に陥っている。
「ソフィアさんっ、おち、落ち着いて! フランチェスコーっ! フランチェスコ、来てくれっ! ソフィアさんが、ソフィアさんが!」
大声でフランチェスコを呼ぶ。
少しして、ドタバタと階段を上がる音が聞こえ、フランチェスコが部屋に飛び込んできた。
「黒の旦那っ! これは一体どうしたんですかい!?」
「分からない! ソフィアさんが、突然こうなったんだ。さっきから様子がおかしくて……」
「いや、いやっ!! 止めて、笑わないで、嗤わないで、笑わないで、嗤わないでっ!!!」
髪を振り乱し、暴れるソフィアさんを抱き締める。俺は背中を撫でながら、声をかける。
「大丈夫……大丈夫だから。ソフィアさん、落ち着いて。ゆっくり、息を吸って」
何度も背中を撫でていると、次第に呼吸も落ち着いくる。ソフィアさんは身体を震わせて、温もりを求めるように俺に必死にすがり付いきた。
「ああ、っ、ふぅ……見て、近づいて……うっ、跡が、床に跡が……跡が跡が!!」
「床に跡?」
ソフィアさんの言葉を聞き、床に目を向けるが特に何か変わった様子はない。一体何の跡のことを言っているのだろう?
「まさか……そんな、ありえない」
「……フランチェスコ?」
ひきつったフランチェスコの声に思わず振り向く。フランチェスコは顔を真っ青にして、目を見開いていた。
「ソフィアさん、アンタ……まさか。……でも、そんなことはあるはずない。そうでさぁ、今まで一度だってそんなことはなかった。なかったんだ」
フランチェスコは、小刻みに震える自身の指を隠すように胸の前で両手を重ね合わせた。それは祈りの動作に似ていた。
「もう決まっている。決まっているんでさ。それ以上を求めるのは、道理から外れてるってもんじゃねぇかい」
「フランチェスコ、お前まで一体どうしたんだ?」
「旦那、ソフィアさんは……」
いや、とフランチェスコは頭を振った。ひんやりとした空気が場を満たす。
「……旦那、今日のお勤めはこれて終わりにしやしょう。それと、ソフィアさんはあっしが預かります。きっと夢見が悪かったのでしょう。ええ、そうに違いありやせん。旦那にも、そういう日もありますでしょう? ここは……そう、少し息が詰まりますから」
フランチェスコは早口で俺にそう言い聞かせた。反論を許さないような口調だった。
「さぁ、今日のところは大丈夫ですので、お部屋に戻ってゆっくりして下せぃ」
「でも……いや、分かったよ。ここはフランチェスコに任せる」
強く促され、ソフィアさんをフランチェスコに託す。俺は立ち上がって扉へと歩いて行く。
「ーーー黒の旦那」
フランチェスコに呼び止められ、顔だけ後ろを振り返った。
「……どうか、お気をつけてつかぁさい」
「修道院に戻るだけだぞ。大袈裟だな」
「……だからこそ、ですよ。黒の旦那は抜けていますからね。帰る途中で転ばないように気をつけてつかぁさい」
「あのな、俺は子どもか!」
すいやせん、とフランチェスコは困ったように笑った。それはあまりにも不格好で歪な笑みだった。