畑仕事が終わり、無言で井戸に向かう。
先程の声は何だったのだろうか。どこかで聞いたことのあるような、それでいて聞いたことのないような声。その相反する音が耳に残る。澄んだソプラノの声から推測しただけだが、声の主はおそらく少女だろう。
「……普通に考えると幻聴だよな」
シメオンさんと話していたとき、周囲に該当するような女性はいなかった。
(そういえば、前もこんなことがあったような……)
あれは確か部屋で座りながら、うたた寝をしていた時だ。
『―――私はだぁれ?』
あの時も同じように幻聴だと思った。覚醒しきれない脳が、勘違いしただけなのだと。しかし、もしそれが幻聴ではないとしたら? 声の持ち主は、一体俺に何を伝えようとしたのだろうか。
……いや、違うな。俺に何かを伝えようとした意図は感じられなった。どちらかと言うと、俺に何かを求めているようだった。
(……まさか俺に気付いて欲しかった、のか?)
敢えて正体を口にせず、試すような口振り。俺に存在を知って欲しい。あるいは、認知をして欲しい。今思えば、そんなニュアンスを含んでいたようにも感じる。
仮にその少女が本当に存在したとする。ともすれば、彼女は何らかの方法で直接頭に話しかけてきたとでも言うのか。
そんなことはありえない。そんな超自然的なことは……。
でも、と固くなった眉間を指で揉み込む。俺だって超自然的な現象によってこの世界に迷い込んだではないか。一概に、ありえないと言えないのではないか。
ゾクリと、首筋が疼く。それを押さえるように掌で首を撫でた。今日の彼女の言葉を振り返る。
『貴方は私だけのものよ』
俺に対する執着。独占欲。それらを感じさせる言葉。少女は何故俺にそのような感情を抱くのだろうか。
あの甘ったるい恋人に向けるような口調で、俺に囁いた少女。
……彼女は一体何者なんだ。
思考が纏まらない。
俺は頭を乱暴に掻き回して深いため息をついた。
とりあえず、汗を流そう。
上着を脱いで半裸になる。それから井戸に桶を投げ入れ、水を汲み上げる。桶を持ち上げて、顔を洗った。冷たい。気持ちが良い。
残りの水を頭にぶちまける。水に濡れた髪を絞って、もう一度桶を井戸に投げ入れる。それを数回繰り返してやっと一息ついた。
「……黒殿」
呼ばれて振り向く。
凛とした雰囲気。美人と形容するしかない容貌の女性、ヨハンナがそこに立っていた。濃い金髪は珍しく解かれて、風に靡いている。その美しい髪は背中まで伸びていた。こんなに長かったのか。普段はアップしているから分からなかった。
「おう、ヨハンナ」
「また、水浴びをしているのですね」
「畑仕事で汗をかいたからな」
「ふふっ、そうでなくても、毎日水浴びをしているでしょう?」
「まあな。日本人は綺麗好きなんだ。それはさておき……俺が水浴びをしていたら、高確率でヨハンナに話し掛けられる気がするんだが、まさか毎回覗き見してんのか? うわ、やらしー」
「っ!? たわけ! そ、そんなことをするわけないであろう!」
からかう俺の言葉に、顔を真っ赤にして抗議するヨハンナ。わたわたと手を振り、身体全体で反論する。
なるほど、こういう話題には耐性ないんだ。まぁ、そりゃそうか。ヨハンナは修道女だもんな。思わず笑みが漏れる。
「ははっ、冗談だ。ヨハンナってば狼狽えすぎ」
「き、貴殿がおかしなことを言うからだっ!」
「分かったから、落ち着け。どうどう」
「私は馬ではないっ!」
ぐむむ、と唸るヨハンナ。大人びて見えるから忘れがちだが、彼女はまだ17歳だ。こういう姿を見ると、それを実感する。宥めるように手を上げて、話しかける。
「悪かった。機嫌直せよ」
「……むっ、本当に黒殿は人が悪い」
「でも、そんな俺をお前はいつも許してくれるだろう?」
俺の言葉に、ヨハンナは一瞬目を見開いた。それから悔しそうに唇を尖らせ、小さくたわけ、と呟く。
表面上ヨハンナはクールに振る舞うが、心根は優しく女性的な柔らかさを持っている。彼女はそれを隠すように、意識的に行動しているように感じる。そこには、きっとそうせざるを得ない理由があるのだろう。
「で、ヨハンナは俺に何か用があったのか?」
「……ただ様子を見に来ただけで、用と言う用はありません」
ヨハンナは憮然と答える。あー、これは拗ねてるな。
「……そっか」
「ええ、そうです」
ヨハンナなりに俺を心配してくれてるんだな。水浴びの時にあえて話し掛けられるのは、おそらく周囲に人がいないからだろう。
何故なら井戸は醸造所の側にあり、その醸造所が壁となって畑や修道院から井戸を隠しているからだ。
ストーンハーストには、異邦人の俺に優しくしてくれる者もいるが、修道院の中にはサルスを筆頭に俺のことをよく思っていない者もいる。彼らは修道院の者と俺が関わることを良しとしていない。
ヨハンナはそれを知っているため、あえてこの時を狙って様子を見に来てくれているんだ。
「ヨハンナ、ありがとな」
心が温かくなって、笑みがこぼれ出た。
ヨハンナは俺の顔を見て、何故か唇を震わせた。
「あっ、……いいえ、何でもないことです。そう、何でも」
何かを言いかけて、彼女は弱々しく首を振る。そして、戒めるように両手を胸の前で組んだ。
いつもと違うヨハンナの様子に違和感を感じながらも、俺はそれにそっと蓋をした。そうしなければいけない、と思った。