「……アマルティア」
彼女はそう呟いた。静寂に吸い込まれ、かき消されてしまいそうな弱々しい声だった。
「……私はそのように呼称されている。それ以外、私を指す言葉はない。それが名前というものならば、私は正しくアマルティアなのだろう」
そう言って、空を見上げるように、彼女……アマルティアは視線を天井に向けた。遠い、遠いどこかを見ているようで、どこも見ていないような淀んだ瞳。その瞳には一体何が写っているのだろうか。
儚げなその姿を見て、俺はまるで壊れたラジオみたいな雰囲気だな、と思った。いや、正しくは壊れながら、それでも必死に音を出すラジオみたいな、そんな雰囲気。自分でも良く分からない例えだ。思わず苦笑する。
(……それにしても、不思議な言い回しをする人だな)
どこか漠然とした違和感を感じるが、初めて会ったばかりの人に違和感も何もないだろうと思い直す。
しかし、それなのに何故か俺は彼女に親しみすら覚えていた。感覚としては、久しぶりに会った大切な人を想うような気持ち。嬉しくもあり、戸惑いもあるそんな感情だ。
息を浅く吐いて、頭を落ち着かせる。
ひっそりと佇むアマルティアさんを見つめ直す。近くにいるのに、存在感をあまり感じさせない。いや、存在感が無さすぎるのだ。極限まで自我をそぎ落とし、空気に同化しているような印象を受ける。
「……じゃあ、アマルティアさん」
意を決して、名前を呼んでみる。
アマルティアさんは何故か唇を浅く噛み、痛みに耐えるような仕草をした。子犬が震える姿を幻視しまう。
「……私は、敬わられるべき……存在では、ない」
途切れ途切れの素っ気ない口調。
敬う……もしかして、さん付けと敬語が気に触ったのだろうか?
「あー、えっと、じゃあ、アマルティア?」
「……はい」
暗い表情で、小さく頷いた。
言う通りにしたのに浮かない顔。困った。俺はどうしたら良いのだろう。思わず頭を捻る。
それ以上言葉が思い付かなくて、視線をさ迷わせてしまう。
埃っぽい淀んだ空気が吹き抜け、蝋燭の灯が揺らしている。周囲を軽く見渡したが、窓など無さそうだ。外へと繋がっているであろう扉は、固く閉じられている。息を吐く音さえ響き渡る空間。痛いほどの静けさが辺りを満たしていた。
(敬わなくても良い……もっと気軽に呼べということか? あだ名を付けてみるとか。あー、流石に初対面で失礼か。でも、これ以上、この雰囲気に耐えれそうにないし、何より現状俺には彼女しか情報源がないんだ。できるだけスムーズにコミュニケーションを取りたい)
彼女の完成された美貌を改めて眺める。喜怒哀楽が抜け落ち、能面のように無表情。まるで、生きているのに死んでしまっているような錯覚を覚える。
そんな考えを頭を振ることで追い払う。
(にしても、あだ名か……)
アマルティア。
アル……は男の子って感じだな。じゃあ、ティア、とか。綺麗な響きだが……しっくりこない。そうだな、後は―――
「―――アマル」
小さく呟いてみる。
カチリと、胸に嵌まった感覚。
大学生の頃、イスラエル人と交流する機会があり、言葉を少し教えて貰ったことがあった。確か、アラビア語でアマルは希望という意味だった気がする。
「名前……あだ名で呼んで良い、かな? 会ったばっかりで、その、嫌だったら良いんだけど。そっちの方が、君を敬う感じがなくて親しみやすいと思う。だから、君のことアマルって呼んで良いかな?」
「私が、アマル……?」
俺は改めて、アマルティアを見つめる。
感情が読み取れない表情。しかし、虚ろな鮮紅色の瞳からは微かに光が見えたような気がした。
「ああ、どうだろう?」
「アマル……私の、私の……私だけの名前」
彼女は胸元で手を合わせ、瞳を伏せた。それは祈るような動作だった。まずい。選択肢間違ったか?
「あー、ごめん。嫌だったよな?」
「……いいえ」
彼女は、初めて真っ直ぐ俺に視線を向けた。
「嫌では、ない。ただ……ただ、胸が震えて」
彼女は自身の胸を押さえた。鼓動を確かめているのか。鼓動を止めようとしているのか。それとも、両方なのか。
「赦されるなら……」
「えっ?」
「そう、呼んで欲しい」
彼女のたどたどしい言葉を聞いて俺は念を押す。
「本当に良いのか?」
「はい」
アマルティア……アマルは小さく、しかし確かに頷く。そして、ぽつりと呟いた。
「……貴方は、どうして私を見てくれるのですか?」
普通だったら聞こえない音量の声だったが、何故か俺の耳に入った。これは独り言なのだろう。返事など最初から求めていないことは分かっていた。分かっていながら、返事をした。何故だか、俺はそうしないといけない気がした。
「……だって、君は今ここに居るじゃないか」
ひゅっ、と息を漏らす音が聞こえた。息ができないのか。息をしたいのか。判断は付かなかったが、そんなことどうだって良かった。いや、正しくはどうでも良くなった。
何故なら、彼女が微笑んでいたからだ。
それは……迷子の子どもが親に再会できたような顔だった。