聖者の牢獄   作:桂太郎(テムヒ)

81 / 160
君の名前は

 

 

 

 

「……アマルティア」

 

 彼女はそう呟いた。静寂に吸い込まれ、かき消されてしまいそうな弱々しい声だった。

 

「……私はそのように呼称されている。それ以外、私を指す言葉はない。それが名前というものならば、私は正しくアマルティアなのだろう」

 

 そう言って、空を見上げるように、彼女……アマルティアは視線を天井に向けた。遠い、遠いどこかを見ているようで、どこも見ていないような淀んだ瞳。その瞳には一体何が写っているのだろうか。

 

 儚げなその姿を見て、俺はまるで壊れたラジオみたいな雰囲気だな、と思った。いや、正しくは壊れながら、それでも必死に音を出すラジオみたいな、そんな雰囲気。自分でも良く分からない例えだ。思わず苦笑する。

 

(……それにしても、不思議な言い回しをする人だな)

 

 どこか漠然とした違和感を感じるが、初めて会ったばかりの人に違和感も何もないだろうと思い直す。

 しかし、それなのに何故か俺は彼女に親しみすら覚えていた。感覚としては、久しぶりに会った大切な人を想うような気持ち。嬉しくもあり、戸惑いもあるそんな感情だ。

 

 息を浅く吐いて、頭を落ち着かせる。

 

 ひっそりと佇むアマルティアさんを見つめ直す。近くにいるのに、存在感をあまり感じさせない。いや、存在感が無さすぎるのだ。極限まで自我をそぎ落とし、空気に同化しているような印象を受ける。

 

「……じゃあ、アマルティアさん」

 

 意を決して、名前を呼んでみる。

 アマルティアさんは何故か唇を浅く噛み、痛みに耐えるような仕草をした。子犬が震える姿を幻視しまう。

 

「……私は、敬わられるべき……存在では、ない」

 

 途切れ途切れの素っ気ない口調。

 敬う……もしかして、さん付けと敬語が気に触ったのだろうか?

 

「あー、えっと、じゃあ、アマルティア?」

 

「……はい」  

 

 暗い表情で、小さく頷いた。

 言う通りにしたのに浮かない顔。困った。俺はどうしたら良いのだろう。思わず頭を捻る。

 

 それ以上言葉が思い付かなくて、視線をさ迷わせてしまう。

 

 埃っぽい淀んだ空気が吹き抜け、蝋燭の灯が揺らしている。周囲を軽く見渡したが、窓など無さそうだ。外へと繋がっているであろう扉は、固く閉じられている。息を吐く音さえ響き渡る空間。痛いほどの静けさが辺りを満たしていた。

 

(敬わなくても良い……もっと気軽に呼べということか? あだ名を付けてみるとか。あー、流石に初対面で失礼か。でも、これ以上、この雰囲気に耐えれそうにないし、何より現状俺には彼女しか情報源がないんだ。できるだけスムーズにコミュニケーションを取りたい)

 

 彼女の完成された美貌を改めて眺める。喜怒哀楽が抜け落ち、能面のように無表情。まるで、生きているのに死んでしまっているような錯覚を覚える。

 

 そんな考えを頭を振ることで追い払う。

 

(にしても、あだ名か……)

 

 アマルティア。

 

 アル……は男の子って感じだな。じゃあ、ティア、とか。綺麗な響きだが……しっくりこない。そうだな、後は―――

 

「―――アマル」

 

 小さく呟いてみる。

 カチリと、胸に嵌まった感覚。

 

 大学生の頃、イスラエル人と交流する機会があり、言葉を少し教えて貰ったことがあった。確か、アラビア語でアマルは希望という意味だった気がする。

 

「名前……あだ名で呼んで良い、かな? 会ったばっかりで、その、嫌だったら良いんだけど。そっちの方が、君を敬う感じがなくて親しみやすいと思う。だから、君のことアマルって呼んで良いかな?」

 

「私が、アマル……?」

 

 俺は改めて、アマルティアを見つめる。

 感情が読み取れない表情。しかし、虚ろな鮮紅色の瞳からは微かに光が見えたような気がした。

 

「ああ、どうだろう?」

 

「アマル……私の、私の……私だけの名前」

 

 彼女は胸元で手を合わせ、瞳を伏せた。それは祈るような動作だった。まずい。選択肢間違ったか? 

 

「あー、ごめん。嫌だったよな?」

 

「……いいえ」

 

 彼女は、初めて真っ直ぐ俺に視線を向けた。

 

「嫌では、ない。ただ……ただ、胸が震えて」

 

 彼女は自身の胸を押さえた。鼓動を確かめているのか。鼓動を止めようとしているのか。それとも、両方なのか。

 

「赦されるなら……」

 

「えっ?」

 

「そう、呼んで欲しい」

 

 彼女のたどたどしい言葉を聞いて俺は念を押す。

 

「本当に良いのか?」

 

「はい」

 

 アマルティア……アマルは小さく、しかし確かに頷く。そして、ぽつりと呟いた。

 

 

「……貴方は、どうして私を見てくれるのですか?」

 

 

 普通だったら聞こえない音量の声だったが、何故か俺の耳に入った。これは独り言なのだろう。返事など最初から求めていないことは分かっていた。分かっていながら、返事をした。何故だか、俺はそうしないといけない気がした。

 

「……だって、君は今ここに居るじゃないか」

 

 ひゅっ、と息を漏らす音が聞こえた。息ができないのか。息をしたいのか。判断は付かなかったが、そんなことどうだって良かった。いや、正しくはどうでも良くなった。

 

 何故なら、彼女が微笑んでいたからだ。

 

 それは……迷子の子どもが親に再会できたような顔だった。

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。