「……その、失礼します」
ゆっくり扉を開いて、視線を巡らせる。
室内は驚くほど簡素だった。壁を覆うような本棚。そして、年期がいった机。部屋にあるものはそれだけだった。司祭室はもっとこう凄い内装だと思っていたので少し拍子抜けする。
机から顔を上げた壮年、いや老年に差し掛かった男性がこちらを見詰める。明らかに日本人ではない。顔の彫りが深く、穏やかな緑の瞳、西洋人であることは間違いない。俺はそれに落胆する。そんな俺の様子に、司祭様は特徴的な鷲鼻を撫で付け、訝しげに目を細めた。
「……私に何ようかな」
そう問われて、俺は慌てて頭を下げた。
「あの、突然すいません。俺、いや、私は安藤隆と申します」
「……これはご丁寧に、異国のお方。私はベネディクト・ボノスス。このストーンハーストの修道院長であり司祭を勤めています」
厳つい顔とは反対に声はとても優しい。それに安心して、言葉を続ける。
「自分で言うのも何ですが、怪しい者ではありません。そして、質問に質問で返すことは不躾だということも理解しています。しかし、お許しください。自分でも何がなんやら分からなくて」
俺の言葉を黙って聞いてくれるベネディクト修道司祭。視線で言葉の続きを促される。
「司祭様。ここはどこなのでしょうか。日本……えっと、ジャパンやジャポネ、ヤーパンではない、ですよね? アメリカ、イギリス、ドイツ、それともフランス、なのでしょうか?」
「ふむ。確かにここは『ニホン』という地ではありません。更に、そのような国々の名前も聞いたことがありません。……私たちが住まうこの地はザクセン」
「……ザク、セン?」
「ええ、そのザクセンの北方。谷や丘を越えた先、深い深い森の中。ここは、トートヴァルトのストーンハースト修道院。それこそが、異国のお方、貴方が今いる場所です。よく参られました。道中危険な旅だったでしょう」
ザクセン。
全く聞きなれない地名だ。
混乱してきた。日本ではないのは、理解したくはないが分かった。だが、大国のアメリカやイギリスやドイツ、フランスを知らないってどういうことだ。アマルが世間知らずな訳ではなく、ここは俺が知っているところじゃない。まるで、世界が違うみたいだ。
「いいえ。いいえ、ベネディクト司祭様。私は、旅なんてしていません。自分でもどうやってここに来たのか全く分からないのです。気が付いたら、礼拝堂で倒れていて」
「……礼拝堂?」
ベネディクト司祭は、息を呑んだ。目をさ迷わせ、先程までの落ち着いた雰囲気が消えた。しきりに鷲鼻を撫で付けている。
「それは、修道院の奥にある礼拝堂ですか? まさか入ったのですか、あそこに?」
「あの、入ったというか。意識が覚めたらそこに居たというか。その何というか、すいません。本当に不可抗力なんです」
司祭様は、目を伏せた。それは何かを恐れるような動作だった。
「……見ましたか」
「見た、って。その、普通に礼拝堂の内装は見ましたけど」
「そうではありません。そう、ではないのです」
彼は何を言いたいのだろうか。
俺は少し考える。
夥しい蝋燭。古びて腐った長椅子。冷たく湿った床。天井が高く、窓のないどんよりと暗い場所に、浮き出るように立つ両手を空に掲げた石像。
―――そして、美しい少女、アマルティア。
「後は、女の子。えっと、アマル。ええっと、
それを聞いて、司祭様は肩を大きく震わせた。
机に積まれた本が落ちる。端から見ても、かなり動揺しているのが見て取れた。動揺されるようなこと、してないと思うけど。知らないうちに、失礼なことをしてしまったのか。というか、もう不法侵入してしまっているので失礼通り越して、犯罪ではないだろうか。うわ、マジか。衝撃を受ける。通報だけは勘弁して欲しい。
「見て、話したのですか……」
「えっ? ええ、まあ。目が覚めたら、彼女が居たので。駄目だったでしょうか」
そういや、修道院の中には戒律によって沈黙を守ることを第一とするところがあると聞いたことがある。ここって、そういう修道院だったのか。まずったな。
「……いいえ。ただ貴方は、大丈夫なのですか?」
「はい、倒れてたと言っても寝てただけなので。痛いところもないですし、いたって健康体です」
そうですか、とベネディクト司祭は頷いた。頷いて、瞳を閉じた。
「……ペレグリヌス。ああ、貴方がそうなのですね。分かりました。分かりましたとも」
「……あの、司祭様?」
しきりに頷く司祭様を見て、少し不安になる。ゆっくりとした口調だが有無を言わさない雰囲気がそこにあったからだ。
「異国のお方。落ち着くまで、このストーンハーストに留まることを許しましょう。元々我らに迷える子羊へ閉ざす門はないのですから」
何か分からんが、滞在を許してくれたらしい。右も左も分からない状況だから、好意はありがたく受け取っておこう。取り敢えず頭を下げる。
「ありがとうございます」
「……では、部屋の準備をさせましょう。必要なものはこちらで全て用意します。それには少し時間がかかるので、修道院を散策してみてはどうでしょうか。……ただ、あの礼拝堂には近寄らないように」
ベネディクト司祭はそう言って、床に落ちた本を拾い机の上に置いた。そして、再び視線を落として、本を読み出す。もうこれ以上話すことはない、ということだろうか。俺は、再度頭を下げてから、部屋を後にしようと、扉に手をかける。
「―――ああ、ようこそ、我らがストーンハーストへ。原初の夢にして、白痴の悪夢に誘われ、どうか自身を見失わないよう貴方に神の祝福があらんことを」
後ろから、そんな声が聞こえた。
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