聖者の牢獄   作:桂太郎(テムヒ)

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側にいて暖めて

 

 

 

 ―――私は神を信じない。

 

 

 しかし、私は神の存在を肯定する。

 

 そうしたいからではない。そうでなければならない。そうでないと許せない。許せない。絶対に、許せない。

 

 

 ―――私は神を愛さない。

 

 

 憎悪、苦痛、悲壮、私の中に潜むありとあらゆる負の感情は、神へこそ向けられる。

 

 神の信仰を否定しながら、神の存在を願う。

 

 私たちが、私である限り。

 

 私が、私たちである限り。

 

 そんな矛盾を抱いて、今日も私は祈りを捧げる。

 

 

 

  ***

 

 

 

 

 湿気が纏わりついた埃とカビの生臭さが混ざった空気。天井は驚ほど高く、無造作に置かれた夥しい数の蝋燭の灯りでも、室内の全てを照らしきることはできない。ただひたすらに、暗澹とした闇がこの礼拝堂を包んでいた。

 

 ―――ここは、あまりにも寒い。

 

 体感温度はそこまで低くないはずなのに、どうしようもなく寒かった。これ以上熱を逃がさないように、自身の身体をかき抱く。そうして、不安定な自己を繋ぎ止める。確かに俺はここに存在しているのだ、と。

 

 数度深呼吸をしてから、顔を上げる。

 

 目の前には、空を仰ぐように両手を掲げた男性……カエルム・ストーンハーストの彫刻が静かに佇んでいる。

 彼は、神に祈っているのだろうか。それとも神へ懺悔をしているのだろうか。

 

「……杯を掲げているのです」

 

 背後から声が聞こえた。

 それは若い女の声だった。澄んだ湧水を連想させる声音。俺はこの声を知っている。俺は確かに知っている。

 

「――――静代?」

 

 声に誘われるように、振り向く。

 

 闇と同化する黒髪。生気の抜けた青白い頬、つり目勝ちな瞳、艶やかな赤い唇。

 

 それは、どこか退廃的な美しさであった。

 

 蝋燭の炎が揺れ、静代が身に纏う赤い着物の陰影を深めている。妹は清楚可憐な出で立ちに反して、蠱惑的な雰囲気を醸し出していた。

 

 はっ、と俺はえずくように息を吸う。意識して呼吸をしないと、心臓がとまりそうだった。

 

(落ち着け、落ち着けっ!)

 

 心の中で何度も言い聞かせ、心臓を掴むように右手で胸を押さえる。

 

「兄さん、会いたかった」

 

 静代は優しく微笑んだ。

 

「静代……どうして、ここに? なぁ、俺はまた夢を見ているのか?」

 

「ええ、夢です。兄さんが望むなら、これはきっと夢なのです」

 

「……俺が、望むなら?」

 

 

 ―――カラン。

 

 

 乾いた音が天井に反響する。

 

 コロン、カラン、コロン。

 

 下駄の音だ。

 

 カラン、コロン、カラン、コロン。

 

 静代が近付いてきているのだ。

 

 思わず後退る。

 

「私は……兄さんを待っていました。ずっと、ずっと待っていました。兄さんのいない昨日、兄さんのいない今日、兄さんがいない明日を何度も繰り返して、嘆きを愁い、でもいつか必ず帰ってきてくれる。そう、まだ見ぬ希望を夢見ていました。……ふふっ、滑稽でしょう?」

 

「…………ッ」

 

 何も言えなかった。いや、俺には何かを言う資格がなかった。どんな理由があるにせよ、俺は妹を置いて行ってしまった。その事実はどうやってもなくならない。なくせない。なくしてはいけないのだ。

 

 唇を噛み締めて、押し黙る。

 

「兄さん」

 

 静代は俺の頬を優しく撫でた。驚くぐらい冷たい手だった。まるで死人のような血の気のなさだ。今にも消えてしまいそう。そう思うと同時に、俺は左手を妹の手に重ねた。ああ、これで少しは温かくなるだろうか。静代は肩を震わせ、俺に身体を寄せた。

 

(俺は、どうして―――)

 

 夢だと断じておきながら、(静代)を確かめようとしている。二律背反な思考。そこに得られるものなんてないはずなのに。だって、俺はもうそれを亡くしてしまったから。

 

「恨んで、いるのか? お前を置いて逃げた俺を」

 

「……いいえ。私は兄さんを恨んでいません。憎んでもいません。ただ、夢の続きを見たいだけ」

 

 そう言って、静代は俺の瞳を覗き込み、穏やかに目を細めた。

 

 赤い唇が迫ってくる。

 抱き締められ、身動きがとれない。

 

「兄さん、次は私を置いていかないで」

 

 柔らかい感触を唇に感じて、俺の意識は光に呑まれた。

 

 

 

  ***

 

 

 

 ぴちゃぴちゃ、と湿った音が聞こえた。

 

 唇を這う生暖かい感触。乾いた皮を潤すように、執拗に柔らかい舌でねぶられる。粘りけのある甘い唾液が口内に流込んだ。貪欲に俺を求めるその動きは、激しく何より優しい。

 

 ぼんやりと、その視界が広がる。

 

 艶々しく美しい銀色の長髪。

 女神のような人離れした美貌。

 そして、何もかも見通す鮮紅の瞳。

 

「……はっ、むぐっ、んん、あ、まるっ?」

 

「っちゅ、じゅる、ん、っは、おはようございます。アンディ様」

 

 そう言ってアマルは、ゆっくりと唇を離した。ツゥ、っと俺とアマルの間に唾液の橋がかかり、ぷっんと切れた。

 

 こいつまた寝てる俺にキスしてたな。気に入ったのか、最近は専らこの起こし方をしてくる。

 

「ああ、おはよう。ところで、アマル。アマルさんや。朝から情熱的なキスも悪くないが、もっと普通に起こせないのか?」

 

「ええと……だって、その」

 

 視線を泳がせ、アマルは悪戯が見つかった子どものような表情を浮かべた。

 

「……あ、アンディ様。これが私の普通なのです」

 

「お前の中の普通はどうなってるんだ。このむっつりスケベの色ボケめ。お兄さん許しません」

 

「アンディ様はお兄様ではありません。私の、アマルの恋人ですっ!」

 

 むぅ、と頬を膨らませる少女。

 

 呆れた。怒るポイントはそこなんだ。取り敢えず、頬を突っつく。

 

 ぷくぅ。

 

 更に頬が膨らんだ。アマル栗鼠の登場だ。アマル栗鼠とは、もちもち甘えん坊タイプのアマル目アマル科の動物の総称である。

 

「恋人且つ年上のお兄さんだ」

 

「でも、だって、アンディ様」

 

「でもでもだっては、聞きません。それに、俺はお前より一回りも年上なんだから、お兄さんなのは間違ってないだろ」

 

「ううっ、いじわる。いじわる。アンディ様のいじわるっ!」

 

「いじわるじゃない。事実を言ったまでだ」

 

「もう、アンディさまぁ!」

 

 勢い良く抱きつかれた。

 これ以上言うと、拗ね拗ねアマル栗鼠に進化するので止めておく。拗ねたアマルは、控えめに言ってもめんどくさい。半日は拘束される。

 

 俺は小さくため息を吐き、ご機嫌を取るためにアマルの髪を撫でた。

 

「そう、拗ねるな。俺もちょっと言いすぎた。……ほんのちょっとだけな」

 

 腹筋に力を入れて、アマルを抱えたまま起き上がる。アマルはびっくりして、俺の胸にしがみつく。

 

「きゃあ、アンディ様」

 

 可愛い悲鳴をあげる少女の腰に手を回し、滑らかできめ細かい肌を撫でた。腰から臀部にかけてのなめかしい曲線。若々しさと艶美さが混じりあったそのひとつひとつを確かめるように擦る。

 

「ん、アンディ様」

 

 大きく盛り上がった乳房が、俺の胸板に押し付けられた。アマルのとくりとくりと脈打つ心音が伝わる。

 

 生きている人間の温もりを感じた。

 

「ああ、アマルは温かいな」

 

「ふふっ、アンディ様が側に居てくださるからです」

 

「あのな、俺にヒート機能なんてないぞ?」

 

「そう思っているのは、アンディ様だけですよ。だって貴方様は、こんなにも暖かい」

 

 断言された。

 思わずたじろぐ。

 

「それに、アンディ様は勘違いされています。元々、私には暖かさも何もない。だからこそ、私の身体、私の心がアンディ様の温もりを求めているのです」

 

 夢で感じた静代の冷えた手が脳裏に過った。

 静代もそうだったのだろうか。

 

 俺はアマルを強く抱き締めた。

 静代に与えることができなかったぬくもりが、アマルに伝われば良いと思った。

 

 ……ああ、分かっている。分かっている。これがどこまでも愚かな代償行為だと、分かっているさ。

 

「なら、側にいて温めてやらないとな」

 

「ずっと?」

 

「まあ、できる限り」

 

「ずっと」

 

「ええっと、頑張ってみる」

 

「ずっとっ!」

 

「……ああ、ずっとだ」

 

 両手を上げて、降参する。

 

「ふふっ、とても嬉しいです。お慕いしています。私の愛しいアンディ様」

 

 アマルは嬉しそうに肩を揺らし、顔を上げ目を閉じる。俺は無言のキスの催促に従って、触れるだけの口づけを落とした。

 

 

 ーーその瞬間、静代の寂しげな微笑みが頭に浮かんで、消えた。

 

 

 

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