早朝。
起床して直ぐに、俺は沐浴所を訪れていた。
ここでは夜に水浴びをする習慣はない。身支度をする朝に身体を洗うのだ。そもそも、照明が現代のように発達していない時代だ。蝋燭の頼りない灯りだけでは、とてもじゃないが夜に風呂に入ることなどできるはずもない。
それから、ストーンハーストには沐浴所以外にも蒸し風呂が2つ存在する。
どちらもそこまで規模は大きいものではない。
1つは小屋の中に石の炉を築き、そこへ水を掛けて蒸気を充満させる蒸し風呂。
もう1つは、修道院の製パン所の2階にある蒸し風呂だ。製パン所に蒸し風呂なんて、と俺も初めて見た時は、ずいぶん驚いたものだ。製パン所の蒸し風呂の造りは、パン焼き釜戸の熱を利用したもので、とても効率的な仕様をしている。
ちなみに、製パン所は修道院から独立した建物だ。パン焼き釜戸も修道院の厨房とは別けて造られている。
パン作りは、修道士たちが日替わりで担当する。勿論、俺も日によってライ麦パン、所謂黒パンを作りに勤しんだりする。
……はぁ、現実逃避はこれぐらいにするか。
俺は桶の水を手ですくい、ぴちゃりと顔にかける。冷たい。心が少し落ち着いた。
「ん、ふぅ……アンディ様、おかゆいところはございませんか?」
鈴のような声が、鼓膜を甘く震わせる。それは15歳の少女のものだとは、到底思えない艶やかな声音だった。
俺は浅く息を吐いて、返事をする。
「……っ、ああ、大丈夫だ。とても気持ち良いよ」
「ふふっ、良かった。何かあれば、遠慮なさらずおっしゃって下さいませ」
アマルは嬉しそうに笑って、再び俺の背中を優しく洗ってくれる。
アマルは、嫌になるくらいご機嫌だな。浮かれていると言っても良い。何とも分かりやすい女だ。
お風呂に関してのやり取りがあってから、俺は彼女と一緒の浴室を使用するようになった。
最初こそ抵抗したが、アマルはどうしてもと引き下がらなかった。日頃、俺の意向には基本的に絶対服従という姿勢なのに、彼女は妙なところで反抗する。
礼儀正しく従順だが、甘えることは我慢しないということだろうか。クールで大人びて見える容貌から、この甘えん坊な性格は想像できない。
「アンディ様、次はお髪を洗いますね」
「ああ、まかせた」
「はい、まかされました」
石鹸を泡立て、今度は頭をマッサージしながら洗ってくれる。
このストーンハーストで使われている石鹸は、現代ではマルセイユ石鹸と呼ばれるものだ。植物性オイルを使用した石鹸なので、肌に優しい。
この時代に石鹸があったのは知らなかった。まぁ、でも日本人である俺としては、身体をきちんと綺麗にできるというのは純粋に嬉しい。
中世ヨーロッパは身体を洗わない不潔なイメージがあったのだが、こればっかりは嬉しい誤算だった。まぁ、風呂事情に関して、ただストーンハーストが恵まれているだけの可能性もある。
フランチェスコ曰く、修道士というものは、清貧こそ誉れとしており、本来は身なりに頓着しないのだそうだ。……それはそれとして、清潔にするに越したことはないと俺は思う。
「アンディ様、痛くはありませんか?」
「おう、大丈夫だ。むしろ、めちゃ気持ちー」
程よい力強加減で、身体が弛緩する。極楽すぎて、声が間延びしてしまう。
「嬉しいっ。アマルは、もっと頑張りますっ!」
意気込んだ声が後ろから聞こえた。それに合わせて、背中にふにょりと柔らかい感触が伝わる。
いや、……うむ、まあ、恋人だし、むしろ存分に堪能しようではないか。
そこまで考えて、自分のオヤジ臭さに白目を向いてしまいそうになる。
「水をかけますので、目を閉じてください」
アマルは浴室に置いてある大きな樽から水を汲んで、ゆっくりと背中を流してくれる。当然お湯ではないので冷たい。煩悩も一緒に流せるので、今はこれぐらいが丁度良い。
それを何度か繰り返して、丁寧に髪を濯いでくれる。キシキシとキューティクルが悲鳴を上げる音がした。
「アンディ様、失礼します」
アマルは俺の髪に何かを滴し、馴染ませるように頭皮を揉む。少し遅れて、柑橘系の爽やかな香りが鼻孔を擽る。
「アマル、これは……?」
「レモン果汁を水で薄めたものです。これで洗うと髪に艶が出るのですよ」
「へー、なるほど。リンス代わりってことか」
石鹸はアルカリ性、レモンは酸性。それを中和することによって、リンス代わりになるのだろうか。水だけでは落ちない石鹸カスや皮脂汚れなども取れる。……ほら、あれだ。きっと水回りの汚れにクエン酸が有効なのと同じ原理。
そこで、ふと思い至る。
(……ああ、だからヨハンナから柑橘系の香りがしたのか)
ヨハンナの体臭を思い出して、納得する。あの香りの正体はレモン果汁だったのだ。ヨハンナもきっとこうして、髪を手入れしているのだろう。
(あいつ、甘い香りより、爽やかな香りの方が似合うよな。凛々しい美人だから余計だな)
「……アンディ様。今何をお考えになったのですか?」
アマルの冷ややかな声が聞こえた。
はっと、我にかえる。
考えていたことは単なる感想だし、決して疚しいことはない。……ないが、どこか気まずくなり、振り向いて弁明する。
「いや、その、えっと……れ、レモンは本当に良い香りだなって、考えてただけだぞ」
「……ふぅん、そうですか。であれば、良いのです。でも、ねぇ、アンディ様。そんなにぼんやりなさっていますと、アマルはアンディ様が別の女人のことを考えてるのではないか、と勘違いしてしまいます」
……なんて鋭い。
これが女の勘というやつなのだろうか。俺の思考を読んだかのような言葉に、思わず頬がひきつる。アマルは俺の動揺を感じ取ったのか、妖しい笑みを浮かべた。
「ふふっ……では、次は前を洗って差し上げますね」
「いや、前は自分でするからっ!」
「却下します」
―――即答。
アマルは俺の制止を無視して、石鹸でぬかるんだ手を胸板に這わせる。俺は慌てて、アマルの手を掴んで止める。
「いやいや。駄目だって!」
「やだ!」
「やだって、お前な……」
頬を限界まで膨らまして、駄々を捏ねるアマル。まるでブレーキが壊れた機関車だ。しかも、嫉妬という炎で限界までスピードを出している。
「ここでそんなことしたら、身体を洗った意味ないだろ? それに、風邪引いたらどうするんだ」
「でも!」
「我慢しろ」
「だって!」
「でもでもだってはなしだって、いつも言っているだろ。……なぁ、代わりに背中を流してやるから勘弁してくれ」
最近、でもでもだって攻撃が多すぎる。
(……それだけアマルの感情が育ってきた、ということなんだよなぁ)
出会った当初感情の起伏がなかったのは、話しかける相手も感情をぶつける相手も居なかったのだから当然の帰結だ。
感情に左右されないからこそ、孤独でも耐えていける。それは少女の悲しい自己防衛だった。俺という甘えられる相手ができたことにより、年相応の感情が育ち始めた。甘えん坊なところは、今までの反動だと思うと何とも言えない。
「それだけ、ですか?」
「あー、髪も洗ってやる」
アマルは口をへの字に曲げた。そのいかにも私は不満ですというアピールに苦笑する。
「……はぁ、夜の方も頑張る」
「ーーーッ!」
にへら、と満面の笑み。
どうやら、この返答が正解だったらしい。
ドスケベにも程がある。毎晩、良く飽きないな。まぁ、あれやこれやアマルに色々仕込んだのは俺なんだが。
……だからこそ、救いようがない。
誰か俺を殴って、蹴っ飛ばしてくれ。
アマルはそんな俺を尻目に、砂糖菓子のように甘く微笑み、俺の耳朶に口付けを落とした。
「アンディ様、愛しています。今晩もアマルを沢山可愛がってくださいませ」
「了解した」
上手く丸め込まれたような気がするが、この笑顔を見ると何も言えなくなる。
機嫌を良くしたアマルは俺の髪を水で流してくれた。
水を浴びたせいで視界がぼやける。俺は手で顔の水気を払い、髪を後ろに撫で付けオールバックにする。
アマルは俺の顔を見詰めて、ほぅとため息をつく。それから、首に手を回して、頬を擦り寄せてくる。
「んー、アンディ様、ジョリジョリします」
「そりゃ、まだ髭を剃ってないからな」
「男らしくてアマルは好きです。んふふ、毎日お髭を剃る前にこうさせてください」
「アマルは本当に物好きな奴だな。でも、痛いだろ? あんまり擦りつけるなよ」
「嫌です。離れませんし、アンディ様だけですから問題ありません」
「はははっ、言うようになったなこやつめっ!」
「ひゃん、わふ、いきなり水をかけないで下さい!」
そんなバカなやり取りにをして、今日も1日が始まろうとしていた。