ハジメが魔物を喰らい、魔力操作の技能を得てから暫く経った。
金を貯め、回復薬を用意し、入念に準備をして魔物の血を取り込む。このサイクルを繰り返し、三度、地獄を乗り越えていた。
単身での迷宮攻略はゆっくりと、しかし順調に進んでいった。転移した二十層を越え、ハジメは五十層まで到達している。一人での結果としては異常であるが、当の本人は何一つ満足していなかった。
単身での五十層到達、それを可能にしたのは魔物食いの恩恵だった。
魔物喰いは魔力操作の技能、ステータスの大幅な向上に加えて、その魔物の固有魔法をハジメに齎していた。結果、現在のステータスは以下の通りである。
◇◇◇
南雲ハジメ 17歳 男 レベル25
天職:錬成師
筋力:250
体力:120
耐性:300
敏捷:200
魔力:750
魔耐:450
技能:錬成[+圧縮錬成][+精密錬成][+鉱物系操作][+複数錬成]
魔力操作 筋力強化 硬化 視界強化 裂傷 言語理解
◇◇◇
特に伸びたのは魔力関連。そのほかも召喚当時の天之河を上回るステータスを手に入れたハジメは、オルクスに来た目的、ベヒモスの討伐を決行することにした。
あの日かかったのトラップを使い、転移でベヒモスへの道をショートカット、橋の両側に現れるベヒモスとトラウムソルジャーを全て一人で打ち倒すという、それだけの計画。
当然、準備は入念に行っていた。腕輪を採取した鉱石で強化し、ボウガンに改良を加え、固有魔法を使いこなせるよう使い込んだ。宝石と体に埋め込んだ石はその効力を引き上げ、新しく中位、上位の魔法を込めた宝石も作ってあらゆる場合に備えた。
そして、ハジメはあの日見た輝く石の前に立つ。見た目こそ美しく輝くグランツ鉱石そのものだが、正体は最悪のトラップだ。
手製のポーチに宝石が詰まっていることを確認し、懐に仕舞った道具と背負ったボウガンの最終確認を終え、ハジメは覚悟を決める。
「あくまで、これは通過点。僕の目的を果たすための、その一歩目に過ぎない。だから、止まってなんかいられない」
ハジメが一人呟くその言葉は、まるで自分に言い聞かせるかのようだ。ハジメが目指しているのはここではない。ならば、これは過去との決別。或いは、必ず成し遂げるという誓いを立てるための儀式であった。
鉱石に手を伸ばす。触れる直前、少し躊躇うようにその手を止めるが、余分な考えを振り払うように頭を振り、覚悟を決めてその手を触れ、ハジメは光に包まれた。
「ねえ、香織。私達、本当にベヒモスに勝てるのかな」
ホルアドに向かう馬車の中。雫は、隣で寝息を立てる香織に声をかける。馬車に乗るのは二人だけで、誰も聞いていない状況だからこそ、雫の口から弱音とも捉えられる言葉が漏れ出た。
「確かに、私たちはずっと強くなった。メルドさんはいなくなっちゃったけど、訓練は欠かさなかった。それでもね、あの時の、何もできなかった私がどうしても頭から離れないの」
無力だった自分を変えたいと、訓練は人一倍頑張った。八重樫流にも磨きをかけ、その技量は地球にいた頃よりはるかに高くなったことを実感していた。それでも、何かが雫の心に影を作った。何かが、雫の心を蝕んだ。志貴のようになりたいと、そう願ったはずなのに、頑張ればその分だけ遠ざかるような感覚が離れてくれなかった。
「みんなと一緒に魔術だって練習したし、できることは全部やったつもりなんだけどなぁ…」
馬車が走る音が頭に響くのを、雫は嫌がった。この音を聞いていると、自分が嫌になって仕方ないと、そう思ったからだ。この時ばかりは、出発してすぐに寝てしまった親友が羨ましかった。
今回の遠征は、光輝がメルドさんの代理として来た人に直訴して行われたものだ。光輝は、今の俺達ならベヒモスに勝てると、そう豪語していた。何人かがそれに賛同し、雫の知らないところで戦える全員が参加することが決まっていたのだった。
教会としては前回の志貴の死を重く受け止めたのか、精鋭らしい聖騎士団を連れていくことを条件に遠征を許可したそうだ。故に、今回の遠征はかなり大規模であった。
「はぁ…」
雫の心労は、収まる気配を見せないのだった。
光が収まると、そこは見覚えのある橋の上。
後ろには上への階段と大量の魔法陣。そして、正面には同様の、しかし巨大な魔法陣が現れ、赤い光を放つ。
「さあ、やるぞ」
幾つかの宝石を握りしめ、ハジメは正面に現れるベヒモスを見やる。大角が、ぎらぎらと光る目が、鋭い爪と牙が、ハジメの心を揺らして止まない。後ろにはトラウムソルジャーの群れが湧き出している。理不尽極まりない状況だが、ハジメに後悔や諦めは無い。
そして、ベヒモスは完全にその姿を現す。愚かな侵入者を滅ぼさんと、大きく咆哮する!
「グルアァァァァァア!!!!」
「僕は、お前を倒して前へ進む。だから、大人しく糧になれ」
全く怯まず、ハジメはベヒモスに向かって駆ける。後ろから迫るトラウムソルジャーに対処するために宝石と幾つかの金属塊を投げつけ、正面のベヒモスに集中する。
角を赤熱化させ、猛然と突撃するベヒモス。橋にそれを避けるほどの幅は無い。故に、ハジメは魔法を行使する。
「大盤振る舞いだ!!」
三つ、宝石が飛んでいく。魔力を送ればそれぞれが干渉しあい、強大な防御結界を発現させる。
そして、激突。ぎりぎりと音を立ててベヒモスと結界が拮抗する。動きを止めたベヒモスに対し、ハジメは足を止めなかった。
「さすが、最上位の聖絶。これなら、いける!」
腕輪に魔力を通しつつ、取り出したのは他よりも大きな宝石。それは一度きりの特別品。魔法陣を刻み込むのではなく無理矢理魔法を封じ込めた宝石。
槍の形に変形した腕輪にその宝石を埋め込む。狙いは喉元。未だ聖絶とぶつかり合うベヒモスは隙だらけである。ミシミシと聖絶が嫌な音を立てるが、ハジメは自分がベヒモスにたどり着く方が早いと確信して駆け抜けた。
聖絶を通り過ぎ、いざ槍を突き刺そうとハジメが振りかぶった、そのとき。
ボッ、と不思議な音が、ハジメの耳に入ってきた。同時に、猛烈な嫌な予感がその体を駆け抜ける。
予感に身を任せ、ハジメは全力でその場から離脱した。直後。
ドゴンッッ!!
短く低い音が轟いた。辛うじてハジメが目に捉えたのはベヒモスに向かって白い何かが突っ込んでいったことだけ。それだけでは何が起きたかは理解できなかっただろう。それでも、起きたことはは結果が示していた。
ベヒモスの、その象徴とも言える大角があった、頭部。それが突然弾け、血と脳髄を辺りに撒き散らしていた。獲物を殺すまで止まろうとしなかったその巨体は、完全に動きを止めている。これが死骸になったことはハジメの目にも明らかだった。何かがベヒモスを絶命させた。その事実だけがハジメが理解できたことだった。
「何…が…」
状況を飲み込み切れないハジメ。呆然としている間に、再び轟音が耳に入った。今度は後ろからだ。
驚いて振り返れば、そこには何も無かった。
「……え?」
大量にいたはずのトラウムソルジャーが、一匹たりとも存在しない。目を凝らせば、所々に残骸らしきものが転がっていたが、それだけだ。動くものは何もない。
視界の端に白い物が見えた気がして、その方向、ベヒモスの死骸の方を見る。それが居るのは、ベヒモスの死骸の上。血で薄汚れた白い毛を纏い、そこに佇むのは、一匹の兎だった。
「きゅう?」
「…兎、だよな。あいつが、やったのか」
状況を飲み込み、兎に対する警戒を高めていくハジメ。兎は体長一メートル程で、長い耳を垂らしている。体に光る石が埋め込まれており、不気味にどくどくと脈打っていた。
一見では弱そうな魔物。しかし、それはベヒモスを瞬殺したのだ。不意打ちで同じことをされたら命はないと、ハジメは確信した。
「逃げられればそれでいいんだが…」
兎はベヒモスの上でその体を縮めている。その目がこちらを捉えているのを見て、ハジメは逃げの選択肢がないことを悟った。ならきっと、あれは丸まっているのではなく力を溜めているのだとも。
「……っ!!」
固有魔法、視界強化を発動して補正がかかったハジメの目が、兎が消えたのを捉える。否、それは兎にとっての移動だ。相手を蹴り殺すための接近の手段でしかない。咄嗟に錬成で何重にも壁を作り、勘を頼りにすぐさま横に飛び去った。
直後、ほとんど同時に壁が全て壊れ、ハジメの腕を何かが掠める。強化された視界は、今度こそその姿をはっきりと捉えていた。
(蹴ってる…のか…)
目に入ったのは、突き出された脚。筋肉が隆起するほどに発達した脚を振り抜く、それだけのことで兎はベヒモスの頭を消し飛ばし、咄嗟に作った壁を全て破壊したのだと、ハジメは理解する。
突然異常な強者が現れ、逃げることもできそうにないという、余りに理不尽なその状況下で、しかしハジメは考えることをやめなかった。
(聖絶は…マズイな、焼き切れてる。でも、とっておきは残しておいたし、魔力は十分で、道具も壊れてない。できるできないじゃなく、やるんだ…!)
蹴りの勢いを地面を滑って殺しつつ、兎はその姿を再び現す。一撃で死ななかった相手はこれまでいなかったのか、いまだ健在のハジメを見て不思議そうに首を傾けている。
一度で終わらぬのなら、何度でも。兎は再び足に力を溜め、ハジメを明確な敵として確認した。
ハジメは幾つかの金属塊を錬成し、全身に埋め込んだ身体強化を発動していく。腕輪は短剣に変え、ベヒモスに使い損ねたとっておきを嵌め込んで迎撃の準備を整えた。
「いいさ。正直、不完全燃焼なんだよ…!」
互いに用いるのは、必殺の一撃。自分の身を削って、などと両者は考えない。ここはあくまで通過点であり、己が対峙しているのは破るべき障害でしかないと、兎も、ハジメも、本気で確信している。
決意は殺意に姿を変え、衝突する。
兎は片脚の溜めを解放し、地を裂くように、風より速い豪速でハジメへ迫る。
金属塊に魔力を通し、錬成の光を迸らせながら、ハジメは迫る兎を辛うじて捉える。
ほんの僅か、一瞬の空白が、世界を包む。
激突、その刹那。互いの目が、合って。
「錬成っ!!」
必要のない詠唱は、勝手に口から飛び出たものだ。
変化したのは、手にしていた金属塊。細く、しなやかに形を変え、出来上がったのは網だ。兎の進路上に作り上げたそれは、動きを止めるための物。どんな決め手を持っていても当たらなければ意味がないと、兎を拘束するためにハジメが作り上げたものだ。
(かかった!)
網に繋がる金属糸を手に巻き付け、一直線に突っ込んでくる兎を見たハジメは、短剣を突き刺す用意をする。作戦の成功を確信し、それでも兎から目を離さなかったハジメは、目撃した。
(空を、踏んで…)
固有魔法。それがハジメの頭をよぎったときは、既に遅い。
網を認識した兎は上へ跳んだ。油断も相まって、完全に出遅れたハジメは、次が読めない。
兎が跳ねていった上を見て、目が合ったとき。その脚が虚空を踏んでこちらへ跳ぼうとしているのを見たとき、ハジメは漸く理解する。これは避けられない。
脳天目掛けて飛んでくる豪脚は、その力を解放する。
必死に身体強化の魔法と筋力強化を使い、辛うじてハジメは頭への直撃を躱す。しかし、避け切ることは叶わなかった。振り抜かれた蹴りはハジメの左腕に命中する。あまりに速く強い蹴りは、弾丸の如く肉を貫き、腕を引き千切った。
「ぐっ、あぁぁぁ!!」
痛みは、感じたことが無い物。それでも、ハジメは兎から目を離そうとしない。痛みに耐える事には、慣れていた。
左腕を失い、バランスの悪くなった体を何とか動かして兎から距離を取ろうとする。詠唱なしに錬成を行使して地面を変形させ、時間を稼ぐために幾つかの宝石を投げつけた。
「クソ、油断した…」
千切れた腕に回復薬をかけながら、ハジメは悪態をつく。血は止まったが、片腕が無くなったことは痛手だ。作った壁の向こうで宝石に込めた魔法が炸裂し、様々な属性魔法がちらついているのが見えるが、こんなものでは死なないだろうとハジメは理解していた。
右手に持った短剣はそのまま、作戦を考える。ハジメの戦闘は事前に行うシミュレーションと道具の準備によって成り立つハメ殺しがほとんどだ。必殺パターンを考えておき、想定外には手数で対応する。ここまでの戦闘はそれで乗り切り、ベヒモスの命にさえ手を届かせた。しかし、今回は違う。敵対する化物兎はハジメの想定していたどんな魔物よりも逸脱した強さを見せていた。
「それでも、負けるわけには、いかない…!!」
異常な速さの踏み込み、強力無比な蹴り、虚空を踏む固有魔法。この三つを乗り越えて初めて、ハジメの手はあの兎に届く。届くなら、やるだけだ。
ハジメが再び覚悟を決めたと同時に、壁が蹴破られる。姿を現した兎はその体の端々を焦がしているが、目立つ傷は無い。
空中に佇み、ハジメを見つけた兎は再び空を蹴った。
兎は、固有魔法〝天歩〟で空を蹴り、最終派生〝瞬光〟で異常な速さとその速さの中でも敵を見失わない認識能力を得ていた。無論魔力の消費は激しい。それを補って余りある魔力は、胸に埋め込まれた神結晶によるものだ。
(何回も見れば、嫌でも慣れるだろ!)
愚直な、一直線の跳躍をハジメは感覚で見切っていた。すれ違いざまに右手の短剣を振るうが、空を切る。感覚での回避は可能でも、ハジメはその姿を完全に捉えられているわけではなかった。
蹴りを避けられたことを認識した兎は、勢いそのまま跳び去っていかなかった。ハジメのすぐ後ろで空を踏みしめ、小さく力を溜めた兎は再び踏み込む。ハジメが見た蹴りは全て目標を打ち砕いても止まらず、地面を滑るなどして勢いを殺していた。実際、兎はそれしか止まり方を知らなかったのだが、初めての瞬殺できない相手を前に成長していた。
ハジメの戦いは想定に基づく。裏を変えせば想定外に弱いともいえるのだが、今のハジメにとって兎の動きに想定外の要素は無かった。通り過ぎた兎が切り返すことを想定し、予め準備をしておいた。
「きゅっ!?」
突然動き出し、目の前を埋め尽くした地面に兎は驚きの声を上げる。ハジメの錬成によって変化した地面は触手のように動き、兎へ襲い掛かった。
咄嗟のことに回避を忘れた兎は目の前の触手を蹴り砕く。踏み込みは使っていない。片足の溜めは残ったままだ。
(もとよりこれで終わるとは思ってない!)
近づくにも離れるにも溜めを使わなければ大した動きはできない。ハジメはそう結論付け、兎へ肉薄する。
(高速移動は結局、近づくための動き。なら、こっちから近づけば、コイツは、蹴る!)
果たしてハジメの予想は正しかった。脚が届く範囲まで踏み込んできたハジメを見据えた兎は、使わなかった脚で蹴りを放つ。狙うのは、右手。完全でない溜めでは敵の命に届かないと判断した兎は、始めに武器を持つ右手を狙った。
体を傾けてハジメの腕を狙い、その脚を解き放つ。
空気が破裂するような音が辺りに響く。放たれた不完全な蹴りを、ハジメの目は確かに捉えた。右腕が狙われたことを理解し、そして、蹴りが激突した。
「ぐっっ…」
避けなかったのは、意図的なもの。激突の直前、全力の身体強化と硬化の固有魔法で右の腕の防御を最大限に高め、受け止めることを選択したのだった。
全力の防御は、果たして蹴りを防いで見せた。激突の衝撃は凄まじく、右腕はあらぬ方向に曲がっていたが、ハジメの目は死んでいない。寧ろ、狙い通りとばかりにぎらついている。
兎が両脚の溜めを使い切り、ハジメの手の届く所にいる状況が、初めて訪れる。故に、ここに千載一遇の好機を見出す。
左腕は千切れ跳び、右腕は使い物にならない。常人ならば絶望的なはずのその状況は、ハジメを止めるには不十分だ。その程度では、止まらない。
両者の距離は、ゼロ。武器を持つ手を失ったハジメが使うのは、その口だ。まるで獣がそうするように、兎の首に噛みついた。
肉が抉れ、兎の血がハジメの口に流れ出る。初めて感じる不快感に耐え、肉を嚙みちぎり、兎が離れてしまう前に口の中に入れておいた宝石、最初、ベヒモスに使う予定だった他より大きなそれを兎の中に押し込んだ。
それと同時に、兎が暴れだす。生きたまま嚙みちぎられるという異常から立ち直り、すぐさまハジメを振り払おうとしてのことだ。
距離をとった兎は、忌々しげにハジメを睨む。対するハジメは、落ち着いて、じっとして動かない。両腕の怪我も酷く、血を多く流した故、もはや限界であった。
「くらえよ、クソ兎。とっておき、勇者サマの必殺技だ」
宝石に送り込んでいた魔力が、その中身を解放する。この宝石の役割は、魔法の出し入れ。発動された魔法を封じ込め、任意のタイミングで開放するもの。一度きりの、必殺技。
メルドに頼み、勇者の必殺技の練習の的として使ってもらい、完成したそれを封じ込めた、ハジメの持つ最大火力。
「〝神威〟!!」
殺意を抑えずこちらへとびかかる兎の首元から大きな光が溢れ出る。白く、鮮烈に、神敵を焼く光が、たった一匹の魔物の内側で炸裂して。
後に残ったのは、首から上が消し飛んだ兎の体だけだった。
兎は神結晶の魔力を吸い上げ続け、常時「瞬光」を使っていました。再生ではなく瞬光の維持に神結晶を使ったからこそ異常なスペックになったと思われます。