奈落でのベヒモスとの戦闘の後、派手に登場したその人のことは、大きな話題を呼んだ。暗い迷宮には不釣り合いなそれは、ほとんど全員に強烈な印象を残して去っていき、一瞬の出来事にその場の面々は騒然とした。怪物が落ちてきたと言う者、それは美しい女だったと言う者、或いは神が降臨したと言う者など、反応は三者三様であった。
しかし、それだけ。何故か、遠野志貴が気にかけていた「アルクェイド」のことを覚えている人物は誰一人としておらず、奈落に向かって落ちていったそれが志貴と名を呼んだことも自然と忘れられていた。
六十層までの全ての階層に大穴を開けたオルクス大迷宮は一部区画が暫く立ち入り禁止になり、その原因と思われる人物はメルドの報告によって未確認の魔物として処理されたというのが事の顛末であった。
遠野志貴が奈落へ落ちてからしばらく経った。
身近なクラスメイトの死が、クラスメイト達に与えた影響は大きい。それまで同じ方向を向いていたと思われていた彼らは、もはや一つの集団としては機能しなくなっていた。
光輝に流される形で戦うことを決め、嫌々ながらにも訓練をしていた者達はいい口実を見つけたとばかりに「心が折れた」と全てを放棄した。
ただ近くに死を感じ、怯えてしまった者もまた多い。
最終的に、戦う意思を失わなかったのは半数にも満たないほどだった。
戦う意思を失わなかった者の一人、南雲ハジメは自分の立場が悪い事を感じていた。公的な場では無能が死ねばよかったと貴族連中が陰口を叩いているのが聞こえ、訓練でも強くならないことで光輝、檜山あたりに白い目で見られた。
それでも折れるわけにはいかないと奮起し、自分なりに錬成を中心に技術を伸ばして行く中、ハジメは日課の図書館通いの最中に奇妙なものを見つけていた。
それは王城内の大図書館、その最奥にひっそりと存在していた古びた書棚だった。以前見た時には何も無かったはずの場所に佇むそれは、まるで自分にだけ見えるかのようにそこにあった。
びっしりと敷き詰められた本は、どれも見たことのないもので、目新しい。
『錬成の拡張性・実践編』『××ちゃんのスーパー魔力操作術』『解放者英雄譚』『治癒の秘法』『対神山のいろは』『亜人の国と聖樹』『とびきり人体改造』などなど…
明らかに他の蔵書と毛色が違うそれらに記された内容は凄まじかった。ほとんどが意外性に満ちた歴史小説か革新的な技術指南書だったのだ。解放者とか、偽りの神とかいった話は流石に誰かの創作だろうと、ハジメは考えた。明るみに出るとまずいだろうと思って、幾つかの本を懐に仕舞い込み、見るからに有用なもの、実戦に応用できそうなものなどを次々と吸収していった。
それらの書籍と持ち前のサブカル知識を応用しつつ、ハジメは確実に独自の方向性で実力を伸ばしていった。天之河や他の戦闘職から見ればステータスには大差があるものの、これまで貯め込んできた全ての道具、知識、それから錬成を使い切れば十分に戦えると自信を持てるほどにハジメは様々な仕掛けを用意していた。
ある日、夜遅く。ハジメは『とびきり人体改造・裏』なる本を片手に何やら作業に打ち込んでいた。ランプの小さな灯りを頼りに手元の何かを弄っているハジメの額には汗が滲んでいる。この世界の夜は少し冷え込む。にも関わらずその頬を汗が伝うのは、異常な集中を要する作業によるものだった。
完成に至ったのか手を止め、どっかりと椅子にもたれかかる。机の上には何らかの器具と、赤い宝石。ランプの光を反射して輝くそれを大事そうに手に取ったハジメは、傍にある麻袋の一つの口を開け、そっと中に入れた。袋の口を縛る前、ハジメはその中身をしみじみと見つめる。中には先ほどのものと同じような宝石が数十個入っていた。一つ一つの形が違うのは彼がそれぞれにカットを施しているからだろうか。
「ふぅ…今日はこの位にしておこうかな…」
その声に疲労を滲ませながら立ち上がったところで。
コンコン、コンコン
部屋のドアが叩かれる音を聞いた。こんな遅くに誰かが訪ねてきたことを訝しみながら、ハジメは返事をする。
「どちらさまですか?」
「ハジメ、俺だ。メルドだ。今、少しいいか」
来客はメルドであった。らしからぬ小声でこちらへ語り掛けるメルドを不審に思いつつ、ハジメはドアを開ける。
「メルドさん、こんな時間にどうしたんですか」
「すまん。色々わけがあってな。お前と話せるのが今しかなかった」
普段の豪快な姿とは似つかない雰囲気でするりと部屋に入ってきたメルド。時間がないのか、その口調からは焦りが見える。
「で、要件は何です」
「ああ、単刀直入に言わせてもらう。ハジメ、お前は近々この城から追い出されることが決まった」
ハジメの様子を伺いながらメルドは告げる。そのことが心底悔しいのか、彼はその手を固く握りしめていた。対するハジメはというと、いくらかのショックを受けた様子ではあるものの、その表情を大きく崩すことは無かった。
「そう…ですか…」
「驚かんのだな。知っていたのか」
「いえ、そういうわけではなく。ただ、いつそうなってもおかしくはないかな、とは…ほら、僕って無能扱いされてますし、厄介払いはあるかな、と…」
実際のところは何かしらの言いがかりで処刑まであり得るとハジメは思っていた。今まで読んできた小説を基にした予想でしかなかったため、あまりあてにしてはいなかったものの、予想が当たった形にはなった。
「そうだったのか。なら多くは言わん。できる限り準備をしておけ。道具、周辺地理、武器、何でもいい。生き残るために備えるんだ。それと、これ。渡しておくから好きに使え」
メルドは机の上に袋を置いた。じゃらり、と音を立てたことから、その中身が金銭であることは容易に察せられた。
「こんなの…いいんですか?」
「もちろんだ。むしろ、これくらいしかできない俺を責めてくれ。俺も左遷が決まってな、自由に身動きがとれんのだ」
メルドの左遷。ハジメにとってはその方が衝撃だった。詳しく聞こうと口を開きかけて、メルドが焦っていたことを思い出す。きっと、こうしていること自体が綱渡りなのだろうと思い至ったハジメは、聞くのをやめた。
「メルドさん、ありがとうございます。僕、あなたのこと、けっこう好きでしたよ」
「はは、嬉しいことを言ってくれる。それじゃあ、俺からの最後の忠告だ。教会がキナ臭い。十分気を付けろ」
それだけ言い残してメルドさんは去っていった。
教会。ハジメの脳裏によぎるのは、あの書棚の本にあったこと。この世界は偽りの神の遊戯盤で、戦争自体が無意味なものであるという荒唐無稽な話。最初に読んだときは創作と切り捨てたそれが、今になって怪しくなってきたとハジメは感じていた。
(メルドさんが言いに来てくれたということは、まだ少し猶予があるということだろう。なら、少し計画は前倒しになるけど完成させるか…)
考えながらハジメは寝床についた。明日からは特別忙しくなるという予感を抱きながら、ハジメの意識は沈んでいった。
そして、3日後。眼の下に隈を作ったハジメは、日の出前に国王に呼び出されていた。ここ数日は寝る間を惜しんで準備に勤しんでいたため、ロクに睡眠が確保できていなかった故の隈であった。
使用人に連れられて謁見の間に通される。中にいたのは、煌びやかな装飾が施された玉座に座る教皇イシュタルと、傍に立つハイリヒ国王だけだった。
跪くハジメに向かって仰々しく声をかけたのは、教皇だった。
「面をあげよ。使徒、南雲ハジメよ。此度呼び出したのはお主に特命あってのことじゃ」
くいと顎を動かしたイシュタルは説明を国王に任せ、黙り込んだ。
「南雲ハジメ。貴殿には特務隊の先遣としてこの地の巡回を命ずる。必要があればこちらから連絡を入れる故、それまで帰還は必要ない。神の使徒の威光を各地に喧伝することに努めるように。早急に出発せよ。以上だ。下がってよい」
「はっ」
なんとも杜撰な、わかりやすい追放だった。ハジメは内心で
(追放系勇者パーティももっとうまくやるぞ…)
などと考えつつ話を聞いていた。面倒があってはたまらないと足早に謁見の間を出たハジメは、部屋に戻り、予め纏めてあった荷物を背負う。少し寄り道して香織の部屋のドアの隙間から手紙を差し込み、やり残しが無いことを確認したハジメは外へ向かう。
城門にたどり着いたが、見送りなど一人も見当たらない。
「まあ、当たり前か」
強がって呟いてみたハジメだったが、やはり寂しさは感じていた。
『あなたが居なくなって悲しむ人だって、ここにはいるのよ』
不意に、ハジメの頭によぎったのはあの時、自棄になっていた自分を刺した雫の言葉。
(きっと、白崎さんは怒るだろうなぁ。八重樫さんは許してくれないかもなぁ。まあ、しょうがないか)
振り返ったのは、それだけ。
自分の足だけで移動しなければいけないことを少し不安に思いつつ、とぼとぼと、しかしその足取りには決意を滲ませ、ハジメは歩みを始めた。
(最初の目的地は、オルクス。あそこであれを試して、ベヒモスを一人で倒す。そのくらいできなきゃ、遠野に助けられたこの命に意味がない。さあ、気張っていこう)
それから2日経って、場所は宿場町ホルアド。偶然通りかかった商隊の馬車に乗せてもらい、ハジメは想定より早くこの町へたどり着いていた。諸々の登録と寝床の確保を終えたハジメは、早朝から独り迷宮に潜っていた。
一、二層目はできるだけ戦いを避けつつ進み、三層目から鉱石の採取を始め、以前に来た時よりずっと長い時間をかけてハジメは目的地、十層にたどり着く。
九層からの階段から離れてすぐ、ハジメの前に魔物が姿を現す。全長は三メートルほど、口から毒と思われる液体を垂らし、二体の大蛇が獲物、即ちハジメを捉えていた。
(来た、狙い通りの魔物だ。でも二体か…)
ハジメは前回迷宮に来た時の記憶を頼りに、できるだけ強そうな魔物を標的としていた。目前の大蛇はまさしく狙い通りの魔物である。
想定では一体との戦闘だったが、迫る蛇は二つ。予定外ではあるが、想定外でもない。ハジメは冷静に自分の手札を確認しつつ、背負っていた道具を取り出す。
複雑なつくりに見えるそれを慣れた手つきで組み上げると、そこにできたのはボウガンだった。弾は装填されていないが、ハジメの持ち物にそれらしいものは無い。無論、問題はなかった。ここに居るのはただの、何の変哲もない錬成師である。
「錬成!」
地面に手を当て、力強く詠唱する。そうしてハジメの前に出来上がったのは、迷宮の床と同じ材質のボウガン弾。今この瞬間、ハジメが作り上げたものだ。
先端に意図的に作った窪みに懐から取り出した宝石を嵌め込み、これまた慣れた手つきでボウガンに弾をセットする。
(何度も練習した。イメージだって繰り返した。だから…)
息を整え、向かって来る蛇に狙いを定める。ハジメの目に映るのは二体の内、先行している方だけだ。
「当てる!!」
力強い言葉と共に引き金は引かれた。矢は、ヒュウ、と風を切って真っ直ぐ飛んでいき、狙いを違えず蛇の頭に突き刺さった。
「よしっ!」
ぐっと手を握りしめ、ハジメは的中を噛みしめる。
しかし、矢が刺さった蛇は止まるどころかその速度を増していた。紫の血を流し、一目散にハジメの方を目指すその目は血走っている。仕留めそこなった。次弾の装填よりも蛇がハジメの所まで来る方が早い、直感でそう考えたハジメは…
「
矢に施した仕掛けを発動する。短い詠唱と共に現れるのは、炎。
他のクラスメイトが扱うそれに比べるとはるかに小さいそれは、この状況下では十分な力を発揮した。
矢の先端に嵌め込んだ宝石を起点とした発火は、蛇の頭を内側から焼き焦がす。頭の内に現れたのは小さな炎。しかし、それは蛇の命を絶つには十分すぎるものだった。
ハジメが使った宝石、その内部には魔法陣が刻まれている。一小節の詠唱でそこに魔力を流せば、魔法は自動で発動する仕組みだ。他のクラスメイトが使うならそれで充分なのだが、魔力量の少ないハジメは多用が難しい。故に、宝石に特殊なカットを施して発動する魔法の規模を小さくし、消費を抑えたものになっている。
一体目を倒したハジメは、二体目を見る。距離はまだある。
(なら、同じようにボウガンで…)
しかし、蛇の動きはハジメの考えを裏切った。その全身を一瞬赤の光が包んだと思うと、力強く地面を叩いて跳躍したのだ。
その光は固有魔法によるもの。この大蛇の固有魔法は〝筋力強化〟。シンプル故に強力なそれによって増強された身体能力は一息の内に数メートルの跳躍を可能にした。
これではボウガンは間に合わない。しかし、ハジメには次があった。ボウガンを放り投げ、次の手を使う。
「〝錬成〟!」
唱えると同時に変化したのはハジメの手首だ。巻きつけてあった腕輪がうねり、その形を刃に変える。
派生技能、圧縮錬成によって作られたその腕輪に使われた金属は見た目よりはるかに多い。その分見た目にそぐわない重さなのだが、ハジメの動きは自然だ。
武器はある。敵も見える。それでもハジメには力が、ステータスが足りない。
足りないなら、足せばいい。最後の仕掛けはそのためだ。
「〝
その一言でハジメの右肩の辺りが赤く光る。
その位置、ハジメの右腕の付け根近くには先ほどの宝石と同様に魔法陣が刻まれた石が埋め込まれている。短い詠唱で発動した魔法は、単純な強化。通常なら体全体を強化するそれを右腕だけに限定して魔力消費を抑え、体内を流れる魔力を自動で吸い上げて発動する仕組みだ。詠唱は発動のキーとなっている。
ハジメは赤く光った腕に思い切り力を籠め、眼前まで迫り、その大口で噛みつこうとする蛇に刃を向ける。
辛うじて噛みつきを躱し、ハジメが狙うのは頭の側面だ。
「はぁぁぁ!!」
思い切り刃を突き刺す。返り血がハジメにかかるが、気にも留めない。
(一体目は一撃で死ななかった。たぶん、こいつも同じ。それなら!!)
使うのは、ハジメにとっての最強の武器。最も信頼している、自分に唯一与えられた最高の技能。
「〝錬成〟!!」
それと同時に刃から手を放し、ハジメは蛇から離れる。
離れると同時に刃に変化が起きる。蛇に突き刺した刃がその形を複雑に変えていったのだ。側頭部から侵入した刃は内側で肉を抉り、脳髄を蹂躙していく。
痛みのせいか、蛇はハジメを気にもかけずのたうち回り、そして息絶えた。
「うぇっ、痛そうだな…」
ハジメは死骸に近づいて、ぐちゃぐちゃになった頭から複雑に変化した刃を取り除き、腕輪の形に戻す。
それで集中が切れたのか、ハジメは大きく息を吐き、その場に座り込んだ。
「つ、疲れた…」
早く目的のモノを採取して帰ろうと思っているはずなのに、ハジメの体は思うように動かないのだった。
日が傾き、街を赤く染め上げ始めた頃、迷宮から帰還したハジメは借り部屋に戻っていた。持ち帰った鉱石類は適当に放り投げ、懐から取り出したのは試験管型の容器だ。中身は、倒した大蛇の血液。これを取って来ることこそが今日の目的だった。
部屋に置いておいた鞄から色々と取り出し、ハジメは準備を進めていく。
これから彼がやろうとしていることは、ある種の禁忌。それを行ったものは皆尽く死に絶えたという危険な行為である。
前もって作っておいた注射器に紫の血を慎重に移し、準備を終えた。
魔物を食べたら死ぬ。それがこの世界の常識であり、今やだれもやろうとしない悍ましい行為である。それを知って、ハジメは目の前の血を自分に取り込むために用意したのだ。理由は、ただ強くなるため。
謎の本から得た知識と、僅かな記録から得を基にハジメが導き出した推論。それは、魔物を食べて体の崩壊に耐えられれば詠唱なしの魔法行使が可能になるのでは、というもの。
肉を食べるのではなく血を打ち込むことにし、大量の回復薬と香織の回復魔法を刻んだ宝石を複数用意して体の崩壊に備えた。
博打もいいところであるが、純粋に、貪欲に強さを求めたハジメに躊躇いはなかった。
「よし、準備は…いいな。さあ、やるぞ」
口の中に布を詰め、右手に注射を握る。慣れない手つきで左腕の静脈を探し、少し時間をおいて針を差し込んだ。
(これを入れてしまえば、もう戻れない。最悪、死ぬかも…いや、そうじゃないな。絶対に死なない。生きて、強くなるんだ)
覚悟を決め、ハジメは一息に中身を打ち込んだ。注射特有の異物感は地球の時に感じたそれと同じ。中身が血であることの気持ち悪さをハジメは堪え、回復薬を注射で打ち込む準備をする。
今か今かと来るであろう体の崩壊に備えるハジメ。何も起きない時間は果てしなく長く感じられた。
本当に何も起きないことに、ハジメは疑問を抱く。
(勘違いだったか…それとも血にしたのがよかったのか…)
そう考えて回復薬を手放そうとしたその瞬間。異変が起きる。
ハジメの視界が真っ赤に染まり、一拍置いてやってきたのは全身を内から焼かれるような痛み。
尋常でないそれに思わず叫ぼうとするハジメだったが、口に詰まった布に阻まれる。このままではまずいとすぐさま回復薬を打ち込もうとするが、痛みに蝕まれ震えた手では満足に注射を扱えない。
思い通りにならないことばかりだと考えながら口の布を乱暴に引きずり出したハジメは、控えておいた回復薬を飲み込む。
「ぐぅあああああっ!!痛い、痛い痛いイタイイタイッ‼︎」
声が抑えられない。激痛は時間とともにその激しさを増していき、容赦無くハジメを蝕んでいく。
少しでも痛みを遠ざけようと回復薬を次々と口にするが、痛みは増すばかり。痛みを耐えて回復薬を飲み、それでもやまない激痛に対処する方法をハジメは持ち合わせない。
書物にあった体の崩壊が起こらないのはまだ軽症だと、僅かに残った思考力で結論を出したハジメは、ただ耐える道を選ぶ。
用意した回復薬を飲む手は止めず、ひたすらに激痛を耐えるだけの地獄。そこに、変化が起きる。
(ぐっ、なんだ…これ…体が、変わる…)
ハジメは自身の内側から響く異音を聞いた。骨が折れるような、或いは何かが軋むようなその音。それは体が崩壊する音であり、同時に魔法によって回復する音だ。ハジメの体では、崩壊と再生が同時に起きている。
これは明らかにまずいと感じたハジメは、少し動くようになった体でとっておきの宝石を手に取る。そこに秘められた術式は香織の回復魔法。それも威力を抑えず、逆に増幅したものだ。
「うぐっ…
魔力をごっそり持っていかれる感覚と共に、秘められた回復魔法はその効果を十全に発揮する。淡い青の光を浴び、痛みが少し引いたハジメは、起きた変化を確認する。
(これは…)
霞む目で鏡を見ればそこに映る自分の姿が変わり果てていることにハジメは驚く。黒かった髪は一部が白く染まり、片方の眼が文字通り零れていた。遅れて、自分の視界が半分以上赤く染まったままなのはこのせいかと自覚した。
体のあちこちに赤黒い線が脈打ち、心なしか体格がよくなったようにも思える。
魔法の効果は続く。しかし、ハジメの体は再び痛みに蝕まれ始めた。それでもハジメは過剰な回復を繰り返し、痛みにあらがう。
一度手を緩めればそこに待つのは体の崩壊。即ち死だ。必死に抗うように回復を続けるハジメ。今やその痛みはとても耐えられるようなものではなくなり、ハジメの思考さえも赤く染める。
ただ、耐える。
永遠にも思えるほどの時間が、やがて終わりを迎えた。残り数本となった回復薬に絶望感を覚えていたハジメは、その苦痛が和らぐのを感じた。ぐったりと倒れ伏していた体をゆっくり起こし、身体を動かす。顔に触れればぬるりとした感触。見れば、触った手が血塗れだった。
鏡に映るその体は以前とは見違える逞しさで、背も幾ばくか伸びていた。
崩壊と、それに抗う回復魔法の繰り返しにより、ハジメの体では結果的に、超再生と呼ばれる現象が起きていた。それにより、体組織は急成長を遂げる。
「これで…終わりか…」
達成感に身を包みながら、ハジメはベッドに倒れ伏した。何とか成功したこと、見るからに強くなった外見、それと引き換えにもあまりに重すぎる痛み。あまりに危険な試みだったが、生き残ったことにハジメは安堵する。
外から光が差し込み、ハジメは眼を細める。そういえば、予想通りの力を得たのかと疑問に思ったハジメは近くの宝石を手に取る。
込めた魔法は簡単な光源を生み出すもの。魔力操作が可能なら一小節の詠唱なしに起動できるだろうと握りしめ、魔力の流れをイメージする。
それは水のように流れ、手を伝い、思い通りに宝石へと流れ込み、果たして秘めた効果を発揮した。
初めての操作によって想定よりも多く流れ出した魔力は、本来の効果よりもはるかに大きな輝きとなって現れ、部屋を日の光よりも明るく照らし出す。
取るに足らない、簡単な魔法のはずなのに、ハジメにとってそれはあまりにも大きな成果であった。
その光を見て満足したのか、はたまた緊張の糸が切れたのか。ハジメは輝く宝石を握りしめたまま、深い眠りについたのだった。
真のオルクス大迷宮、第一層。
一匹の兎が長い耳を揺らして歩いて巣穴から出てきた。きょろきょろとあたりを見回すその姿は、何かに怯えているようでもあった。
ある程度の安全を確認したのか、ふらふらと外を歩くその兎は、時折何かを幻視してびくりと体を震わせている。
そうしてたどり着いたのは、不恰好な洞窟。大きな耳で中に何もいないことを聞き取り、ずかずかと入っていく。
兎が思い出すのは、数日前のこと。いつものように巡回していたこの兎が出くわしたのは、あまりに大きな金色だった。その姿を一目見て、兎は気づいた。あれは逆らってはいけない類のものだ。近づくのもまずい。あれがそうと考えただけで自分の命は無い。と。
それからの行動は早かった。金色の側の弱そうな人間など気にも留めず、一目散に逃げだした。穴倉に引き籠り、嵐が過ぎ去るのをただただ待った。理性でなく本能で、今外に出れば命は無いと確信しての行動だった。
洞窟の中、兎は光る石と、そこから湧き出す水を見つけた。数日引き籠っていた反動か、おもむろに水に顔を突っ込む兎。ごくごくと喉を鳴らし、その水、神水を取り込んでいく。
「きゅう」
顔を上げて一息つく兎。これの考えることは一つ。あの金色から離れる事。あれが下に向かった事を本能で感知し、上を目指すことを決めた兎。出口が無いことなど百も承知、ならば、ここからただ這い上がればいいだけのこと。
考えながら、光る石を齧る兎。腹も減っていたようだ。石は思いのほかうまかったのかぽりぽりと齧り続ける。
やがて、食料が無ければ自分生きられないことに気づいたのか、目の前の石を大きく削り取って弁当気分で抱え込んだ。
途端、石が放つ光は大きくなり、兎を飲み込む。鳴き声をあげて放そうとしたが、それが体から離れないようだ。
やがて光が収まれば、そこにいたのは一回り大きくなった兎。腹部に削り取った石を埋め込ませ、悠然と佇んでいる。
兎は感じていた。自分の力が格段に上がっている。これならば、上へ行くのも容易だろう、と。
そうと決まれば行動は早く、兎は洞窟から飛び出す。上を目指そうと大きくためをつけ、いざ跳躍せんとしたその時。兎の前に立ちはだかるものが居た。
グルアァァァァァ!!!
それは巨大な熊。この階層の主たるそれは、絶対強者として目の前の弱い兎を抹殺せんと腕を振り上げる。微かに空気が揺れるのは、熊の固有魔法、風爪によるもの。
異常な速さで振るわれたそれは兎へと襲い掛かり、その体をバラバラに引き裂く…筈だった。
兎は全てお見通しとばかりに不可視の爪をひらりと躱し、足のタメを熊に向ける。解放された豪脚は大熊の頭の真ん中に迷いなく打ち込まれた。
バチンッ!!と在り得ない音を立てて熊の頭に命中した蹴りは、対象を消し飛ばす。熊の頭は綺麗になくなり、びゅうびゅうと血が噴き出る音だけがあたりに響いた。
兎は興味などないとばかりに熊の死骸も見なかった。その頭にあるのは、ただ下に行った金色から逃げる事だけ。
「きゅう!!」
気合を入れるように一鳴きし、兎は再び上を目指すのだった。
やっぱハジメ君は隻眼厨二スタイルじゃないとね