じゃぽん。身体を湯舟に沈めた蘭はふうと一息吐いた。
落ち着いてきた蘭は、さっきまでのことを思い出していた。大雨でずぶ濡れになって、偶然避難したスーパーで楓に会って心配されて、なぜか家に招かれて。まだ知り合ってそんなに経っていない男の家に一人で来た上に、お風呂に入らせてもらっているなんて、冷静に考えたら危ない気がする。
しかし、蘭はそう思いながらも、恐怖は微塵も感じていなかった。確かに楓は、デリカシーが無くて天然でアホっぽい。けれど、困っている人を助けたり心配したりできる人間であることは、楓と知り合って短い蘭でも分かっているつもりだった。
十分温まった蘭は、湯船から腰を上げて浴室から出た。タオルで身体を拭いて、代わりと言って用意された寝間着に着替える。蘭の足の長さが足りなくて、ズボンの裾を少し摺ることになったが仕方がない。
次は洗濯だ。楓に説明された通り、蘭は雨でびしょ濡れになった服や下着、使わせてもらったタオルも一緒に洗濯する。洗濯ネットに分けるものは分けて、洗濯物を全て洗濯機の中に入れた。スイッチでコースやモードを選んでスイッチを押す。ジャバババという水の流れる音が脱衣所に響き渡る。
蘭が脱衣所のドアを開けてリビングに出ると、シューという音が聞こえてきた。音のする方に目を向けると、キッチンで楓が作業をしていた。作業をする楓の横で、やかんが勢いよく湯気を噴き出している。カウンター付きのシステムキッチン。楓がそこに立つ姿は、とても様になっていた。すると、手元を見ていた楓が顔を上げる。
「あ、上がったんですね」
蘭に気づいた楓は、手を止めて蘭の方を見る。すると、ピタッと動きを止めて真剣な顔つきになり、ぼそっと言う。
「……そうだ、ドライヤーの場所、伝えてなかった」
そう言って楓はキッチンから出てきて、蘭の所に来て言う。
「ごめんなさい。ドライヤーの場所、教えてませんでしたね」
楓は申し訳なさそうに言うと、蘭を手招きして脱衣所に入っていく。慣れた手つきで、洗面所の鏡の横にある収納スペースを開いた。楓は、そこからドライヤーを取り出してプラグを近くのコンセントに突き刺し、ドライヤー本体を蘭に手渡す。
「髪を乾かし終わったらまたリビングの方に戻ってきてくださいね」
そう言って楓は脱衣所のドアを閉めて出て言った。ドライヤー本体を持った蘭が脱衣所内にぽつんと残される。ドライヤーのボタンを押すと、温風が蘭の髪の毛を揺らした。
何だかあまりに至れり尽くせりなものだから、蘭は申し訳なくなってきた。どうしてここまでしてくれるのだろうか。髪の毛を乾かしながら、蘭は少し考え込んでしまった。
髪の毛を乾かし終わった蘭は、再びリビングに出てくる。キッチンの方を見ると、また楓が手元を見ながら作業をしていた。
「終わったよ」
蘭は楓に声を掛けた。
「あ、そこに座って待っててください。もうすぐできるので」
楓は作業の手を止め、首を上げてキッチンの目の前に置かれている食卓を指差す。蘭は、楓に言われた通り食卓で椅子に座って待つ。
カチャンと食器の当たる音が響く。何かを作っているようなのは間違いないが、蘭からはその様子が見えない。楓の手元がカウンターの向こうにあるからだ。
「できた……」
そう呟いた楓は、キッチンから食卓に作っていたものを持ってきて、蘭の目の前に置く。ソーサーの上のカップ、琥珀色の紅茶に湯気が立ち上っていた。
「どうぞ」
対面に座った楓に勧められて、蘭は紅茶を一口含んだ。
「おいしい……」
蘭の口から思わず言葉が漏れる。ツンとくるこの匂いは、生姜。口に広がるほんのりとした甘み。楓が作っていたのは、生姜紅茶だったようだ。
「柚とか桜が風邪をひいたときとか、冬の寒いときに作るやつなんですけど……。お口に合いました?」
蘭は「うん。美味しい」と返答する。楓の作ってくれた生姜紅茶のおかげで、蘭の身体はポカポカしていたし、何より、蘭の心も温まっていた。
「よかったぁ……」
楓は安心して胸を撫でおろした。
蘭は言葉を発することは無く、静かに、ゆっくりと紅茶を楽しむ。楓もそれを邪魔することは無く、一言も蘭に声を掛けることは無い。
穏やかな笑みを浮かべて紅茶を飲む蘭と、それを満足そうに微笑んで眺める楓。外の雨音や、室内の時計の針が動く音が聞こえるくらいの静寂。しかし、決して居心地の悪さを感じることは無い。心地よい静寂だった。
「ごちそうさまでした」
蘭がカップをソーサーに置きながらそう言う。
「おそまつさまでした」
楓は嬉しそうにそう答えながら、言葉を続ける。
「家族以外に何かふるまうって滅多に無いので、張り切ってしまいました……」
「家族には、よくこういうことするの?」
「そもそも僕がこの家の家事をほとんどしているので……毎日ですね」
「へぇ……」
いつも大学では天然でふわふわしている楓が、この家ではてきぱきと動いていたのはそういうことだったのか。蘭は、楓からの言葉を聞いて納得した。ただ、更に新しい疑問が生まれる。
「……母親は? ……仕事とか?」
「……今、入院してるんですよ。病気で」
「なんか……ごめん」
「いえ……」
蘭が楓に母親のことを聞くと、楓は悲しいような、困ったような顔をして答える。蘭は申し訳なくなって楓に謝った。
「母さんは、元々身体が弱くて。僕が小さい頃から入退院を繰り返してましたから。なので、僕と父さんで家事しなきゃいけないんですけど、父さんも忙しくて。小学五年生頃には、僕が全部家事をするようになってましたね」
楓は、補足するようにそう言った。小学五年生で、全ての家事を……。蘭は目を丸くして驚く。
「しかも、今、父さんが単身赴任中なので、柚と桜の保育園への送り迎えも僕がやってますね」
楓は更にそう続けた。この間、柚くんと桜ちゃんを連れた楓と会ったのは、保育園の帰りだったのか。蘭はそれを聞きながら思い出していた。
「……大変じゃない?」
「まぁ、大変かもですね。柚と桜の世話をして……家事をして……大学に行って……で。毎日へとへとです」
楓はそう答えて苦笑いを浮かべる。もしかしたら、楓が講義中にうとうとしているのは、そういう理由があったからかもしれない。蘭はそう思えてきて、更に申し訳なさが募った。蘭は俯いて唇を噛む。何の事情も知らずに、楓のことを邪険にしすぎたかもしれない、と。
ピピピピという音が、脱衣所の方から聞こえてくる。
「洗濯と乾燥が終わったみたいですね」
楓がそう言った。気がつくといつの間にか、雨音もしなくなっているし、窓から光も差し込んでいる。これで、蘭は服を着替えて普通に帰ることができそうだった。だがその前に、蘭は楓に聞いておかなければならないことがあった。
「ねぇ……。どうして、大雨でびしょ濡れになっていたあたしを助けてくれたの?」
蘭は、楓の目を真っ直ぐと見て問う。
「蘭さん、すごく困ってそうでしたし、しかも、あのままじゃ、間違いなく風邪をひいてしまいそうでしたから。……ただ」
この間、大学でしつこいサークルの勧誘から助けてもらった時と、ほぼ同じ回答。しかし、まだ続きがあった。
「……ただ、蘭さんのことが気になるからっていうのもあります」
楓は蘭のことを真っ直ぐ見てそう言った。
「……ふっ」
「な、なんで笑うんですか」
「よく異性相手に臆面もなくそういうこと言えるよね」
「え、えぇ……何かおかしいこと言いました?」
相変わらず、楓は楓だった。恥ずかしがることもなく、半分告白のようなことを言う。たぶん、楓はそんなつもりないけれど。それが可笑しくて。蘭は笑ってしまう。
ただ、一方で。言われた瞬間の心音は、やけに煩かった。
これを書いているとき、日間ランキングに乗っていて驚きながら書いていました。たくさんのお気に入り登録・評価、本当にありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。
↓これは恒例行事です。
評価のボタン
感想のボタン
お気に入り登録のボタン