大学生活が始まって二ヶ月。季節はもう梅雨入り。連日、しとしとと雨が降り注ぎ、じめじめとした空気が鬱陶しい。気分もどよんと沈んでいる。蘭は、一限からの講義を受けるために教室に入っていた。
ただ、今日、蘭の気分が沈んでいるのは、何も梅雨時期の空気感のせいだけではなかった。
「……はぁ」
蘭は溜息を吐く。蘭は怠くて重い身体を机に委ねた。大学生活には慣れたものの、今度は新しい問題が浮上している。
大学生の講義は、始まる時間が比較的遅い。ともすれば朝にバタバタと起きて、遅刻の恐怖に怯えながら通っていた高校時代とは比にならないほどに。特に、二限から講義の日は起きる時間を更に遅くできるため、ゆったりと通うことができる。その旨味を知った身体は、高校時代よりずいぶんと朝に弱くなっていた。
新曲の歌詞を詰めるために夜遅くまでノートに齧り付いていた蘭は、当然寝不足の渦中にあった。必修講義でもなく皆も受けない講義なのに、なぜ取ってしまったのか。蘭は、気の迷いでこの講義を取った自分を恨んでいた。
机に突っ伏して微睡んでいると、横から人の気配がする。顔を上げてみると、ちょうど楓が荷物を置いて左横の席に座るところだった。
「おはよう……」
後頭部の辺りに少し寝癖が残ったままだし、瞼がもう今にでも降りてきそうなくらい目は細くなっている。挨拶とは裏腹に今すぐにでも「おやすみなさい」してしまいそうな楓が、目の前にいた。実際、楓はすぐに眠気に負けて机上で轟沈する。相変わらずだな、そう思った蘭も、再び微睡みの中に溶けていった。
「えー。よって該当部分はこのように読み取るのが、ひとまずは正しいと言えるでしょう……」
講師の声が聞こえる。どうやら講義が始まってしまったようだった。蘭は顔を上げる。
……あれ? 血の気が一気に引いていった。黒板にはもうすでに相当量の板書。黒板の上にある壁掛け時計は、講義開始時間から三十分進んでいた。
「……やっちゃった」
蘭は頭を抱える。今から板書を取ってどれくらい取り戻せるだろうか。誰か仲の良い人がいれば、ノートを見せてもらうこともできたのだろうが、悲しいことにこの講義には誰一人いない。……しかし、蘭は思い出す。仲が良いかは疑問だが、よく話す人物がいることを。蘭は左横の席を見た。
「……」
そこにいたのは、机に突っ伏している楓であった。楓の傍にある筆箱はまだ開いていないし、その下にあるルーズリーフも真っ白。蘭と同じように、講義開始から三十分、眠りこけていたことは明白だった。
「……はぁ」
こちらが勝手に期待しただけであるし、間違いなく自分が悪いだけなのは自覚しているけれど。蘭は、溜息を吐いた。
「ほら、起きて」
蘭は楓の身体を揺する。楓が顔を上げた。目を擦って黒板の方を見て、「……あ」と声を漏らす。蘭と同じく、講義がかなり進んでいることに気づいたのだろう。
「蘭さん、ありがとう」
そう言った楓は、すぐルーズリーフに板書を写し始める。蘭も同様だった。
ただ、その直後、講師が板書を消し始めてしまう。すると、二人して「……あっ」と力ない悲鳴を漏らしていた。
「蘭さん」
一限の講義後、蘭は二限目の教室へと向かっていると、後ろから呼ぶ声がする。足を止めて振り向くと、楓が追いかけてきていた。
「後でいいから、さっきの講義の前半くらいのノート撮って送ってくれないかな?」
楓が申し訳なさそうに頼んでくる。連絡先は、前に和也と初めて会った時、ひまりの提案で皆と交換していたから持っていた。
「……無理」
「う……。そ、そこを何とか」
「……あたしも寝落ちてて書いてないの。板書」
「……え?」
蘭が板書を書き写していないことを言うと、楓は目を丸くした。楓の目線が妙に痛い。蘭はバツが悪そうに目を背けた。
「蘭さんでも寝ちゃうこと、あるんだね」
「……うっさい」
何故かニヤニヤしながらそう言ってくる楓。蘭はその顔にイラっとする。
「何が可笑しいのさ。そもそもアンタも寝てたでしょうが」
「それは……。うん……。でも、何だか親近感が湧いて」
親近感。楓の口から出てきたその言葉に、蘭は疑問を持つ。思わず聞き返していた。
「……なんで親近感?」
「蘭さんってこう……、普段は真面目なイメージあるから……」
今まで、髪に入れている赤メッシュや雰囲気で、グレているとか怖いとか言われることは何度もあったが、真面目と言われることがあまりなかった蘭は、面食らった。
「真面目な蘭さんでも、抜けてるところってあるんだなぁって」
「……アンタほどじゃないし」
蘭は口を尖らせてボソボソとそう言った。楓に抜けていると言われるのは何だか釈然としない。しかし、今日は蘭自身も寝ていた手前、強くは言い返せなかったから。
絶対、今度からは講義前に寝ないようにしよう。蘭はそう心の中で誓う。スマホで時間を確認すると、次の講義の時間が迫っていた。
「……そろそろ行くから」
蘭はそう言って再び歩き始めようとした。
「蘭さん」
「何? 時間無いんだけど」
呼び止めてくる楓。今度は何だと辟易しながら、蘭はまた足を止めた。
「もしノートの写メ貰えたら、後で送ります」
「え?」
困惑した蘭は思わずそう声が出ていた。さっきまで、蘭にノートを見せて欲しいと言っていたのに、どうしてそう言えるのか。
「和也なら顔広いから、さっきの講義受けてる人に知り合いがいるかもしれないし」
「なら……よろしく……?」
「了解。じゃあまた」
そう言って楓は小走りで去っていく。蘭はそれをポカンとした表情で見送った。
その日の夜、蘭がメッセージアプリを開くと、楓から数枚の画像が添付されていた。どうやら、朝の講義のノートを撮ったものを本当に送ってきたようだった。
「ありがとう」
蘭が一言そう送ると、「どういたしまして」というスタンプが送られてきた。
蘭は少し楓に感謝したし、それ以上に、楓の親友である和也に大いに感謝した。